第32話 初めての難民
陽が高く昇った昼下がり。ノルデンシュタイン砦の門の前に、一組の親子が立ち尽くしていた。
母親は痩せた身体に粗末なマントを羽織り、小さな女の子の手をしっかりと握っている。迷ったように門を見上げたり、後ろを振り返ったりを繰り返していた。
「どうしよう、やっぱり戻った方が……」
「おかあさん、のどかわいた……」
子どもの声はかすれていた。疲労と空腹、それに暑さに耐えてきたのだろう。母親はその小さな体をぎゅっと抱きしめた。
そのときだった。
「ガルルッ……!」
茂みの陰から、飢えた様子の野犬が数匹、唸り声を上げながら姿を現した。
「っ……!」
母親は娘を庇いながら後ずさる。しかし逃げ道はない。砦の門は閉ざされ、背後は切り立った崖に近い斜面。野犬たちはゆっくりと距離を詰めてくる。
「だれか……助けて……!」
か細い叫びが、風に消えるように砦の空へ昇っていった。
――その声を、誰かが聞いていた。
「セシリア、あれ見て!」
「えっ……! ユリウス、あれは……!」
砦の上階、見張りの足場から外を見ていたユリウスとセシリア、そしてミリは、門の前の異変に気づいた。
「間に合うか……っ、リィナ!」
「了解です、ユリウス様。敵性生物、野犬三体。排除行動、実行します」
リィナはすでに足を踏み出していた。崖の横の小道を滑るように駆け降り、母娘と野犬のあいだに割って入る。
「っ、だれ……?」
母親が戸惑う中、リィナはひとりの戦士として無言で立ちはだかった。
「逃げてください。ここは危険です」
そう告げると、手にした簡素な金属棒を振るい、牽制するように地面を打ちつけた。
野犬は怯むが、それでも後退しない。牙を剥き、飛びかかろうとしたその瞬間――
「遅れてごめん!」
ユリウスが走ってきた。手には、開発中のパワードスーツの試作腕部を取り付けた状態で、加速装置を使って飛び込んでくる。
「下がって、リィナ!」
「はい、ユリウス様」
ユリウスの拳が風を切って唸りを上げ、突進してきた一匹の野犬を弾き飛ばした。残る二匹もミリの投げた音響弾で怯え、森へ逃げていく。
嵐のような出来事のあと、静寂が戻った。
「だ、大丈夫ですか?」
ユリウスが息を整えながら、母娘に声をかけた。
母親は、娘を抱きしめたまま何度も頷いた。
「ありがとう……ありがとう、本当に……」
少女は涙を浮かべながら、「おにいちゃん、つよい……」と呟いた。
セシリアはそっとため息をつく。
「ユリウス、あなたってやっぱり……放っておけない人ね」
ミリも小さく頷いた。
「まったく……次から次へと、人手が増えていくわね。まあ、悪い気はしないけどさ」
こうして、砦に新たな命が運び込まれた。
砦の中、救護室の隅。暖をとるために焚かれた小さな薪ストーブの前で、少女は毛布にくるまりながら、母親の袖を握っていた。母親はやつれた顔に疲れを滲ませながらも、深々と頭を下げる。
「本当に……本当にありがとうございます……。まさか助けていただけるなんて……」
ユリウスは首を横に振ると、穏やかに言った。
「ここはもう、安全です。食料や寝る場所も用意できます。心配しないでください」
少女がちらりと顔を上げ、目を潤ませながらユリウスを見た。
「……ありがとう、おにいちゃん」
ミリが柔らかく微笑み、毛布を直してやる。その様子を少し離れた場所で見ていたセシリアが、ふっと眉を寄せて口を開いた。
「どうして、こんなことに? あなたたちはどこから?」
母親は、おそるおそる答えた。
「私たちは……南東の村から逃げてきました。夫が徴兵されて……戦で命を落として……。残された私たちは税を払えず……」
「税が払えないと、どうなるのです?」セシリアの声に冷たい響きが混じる。
「グロッセンベルグの代官、ヘルマン様に……連れて行かれるんです。借金奴隷として……。子供も、大人も……」
室内に一瞬、沈黙が落ちた。重く、凍るような沈黙だった。
ユリウスは拳を握ったまま、声を押し殺すようにして言った。
「そんな……」
「公爵領内で、こんなことが……」
セシリアもまた、小さく呟いた。
その顔には怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が浮かんでいたが、すぐに平静を装い、視線を落とした。
「――グランツァール帝国の名を、そしてヴァルトハイン公爵の威光を、こんな形で貶めるとは……」
母親は怯えたように顔を伏せる。
「でも……逃げても、見つかれば連れ戻されて……。だから、荒野まで……誰にも知られない場所を……」
セシリアは静かに息を吐いた。そして、ユリウスの方を見て、ほんの少し口元を緩めた。
「……あなたの砦は、予想以上に意味を持つ場所になるかもしれませんね。ユリウス様」
ユリウスは、ゆっくりと頷いた。
「そう思うよ。ここが……そういう人たちの、希望になれるなら」




