第210話 アーベントとリルケット
戴冠式を終え、ヴァルトハイン城の控えの間はようやく静けさを取り戻していた。
祝宴のざわめきが遠くで響く中、アーベントは椅子に深く腰を下ろし、重くなった肩をぐるりと回した。
「……終わったな、リルケット殿。すこしばかり、いや、かなり青臭い演説だったが」
そうぼやくその口元は、どこか綻んでいた。
その様子を見ていたリルケットが、くつくつと笑う。
「終わった、か。いや――始まった、と言うべきだろう。それに、顔がほころんでおられるぞ、宰相殿。まるで我が子の成長を喜ぶ親のようだ」
老騎士リルケットは、甲冑を脱ぎきらぬまま壁に背を預け、皺の刻まれた顔に笑みを浮かべた。
「セシリア殿下が皇位を継ぎ、ユリウス様が隣に立った。正統なる帝の旗が、ついに我らの前に掲げられたのだ」
「夢のようだよ。……いや、夢を見続けていたからこそ、現実にできたのかもしれんな」
アーベントは遠い目をした。五十余年の生涯、その半ば以上を帝国の瓦解と混乱の中で過ごしてきた。
復興を口にする者は数多くいたが、誰一人として成し遂げることはなかった。
「思えば、わしらは頑固な老人よな」
「はは……確かに」
リルケットが笑う。
「帝国はもう終わったのだ、そう言う者も多かった。だが、諦めきれなんだ。祖国の栄光を、わしらは知っているからな」
「……ああ」
二人の間に、沈黙が流れた。
若き日、帝国の都で見た壮麗な宮廷。
仲間たちが次々と倒れ、散っていった戦場。
それでも、彼らは諦めなかった。
やがてアーベントが、低く笑った。
「青臭い、と言ってやったろう。ユリウス様の演説をな」
「言っていたな」
「だが……悪くはなかった。いや、あれほど民の胸を打つ言葉を、わしは初めて耳にしたかもしれん」
リルケットは頷き、剣の柄に手を置いた。
「剣は人を守るために振るうものだ。そう信じて戦ってきた。だが、どれほど剣を振るっても、国は蘇らなかった」
「……だが、あの青年は違う。剣だけでなく、知恵と、仲間と、そして夢で民を導いておる」
二人は互いに目を合わせ、ふっと笑った。
かつて夢想に過ぎぬと笑われた帝国復興の旗。その下に、今は数多の民が集っている。
「我らも老いたな、アーベント殿」
「そうだな。だが、老いたからこそ見えるものもある。――次の世代に、何を残すべきかとな」
「君もか。リルケット、そろそろ騎士の引退を考える歳ではないか?」
「それを言うなら宰相殿も政務から退く頃では?」
「冗談ではない。我々がいなくなったら、あの青い政権がどこまで持つか……いや、持たせねばなるまい」
リルケットは静かにうなずいた。
「ユリウス様とセシリア様ならば、必ず成し遂げるだろう。わしらが夢見た“新しい帝国”を」
「そうだな。夢を叶えた若者たちに、我らももう少し付き合うとしようか」
「仕方のないことだな」
互いに肩をすくめあい、老いた二人は微笑みを交わした。未来の不安も、老いの影も、そのひとときだけは遠いもののように思えた。
二人は並んで立ち上がった。
長き夢の果てにようやく掴んだ希望を、二度と失わぬために。




