第209話 戴冠式
帝都の中央、かつて帝国の栄華を象徴していた玉座の間。そこに立つのは、銀糸のような髪を編み上げ、深紅の礼服に身を包んだ女性――セシリア。いや、今日から彼女は、グランツァール帝国を継ぐ正統の皇帝となる。
高鳴る鼓動を押し隠すように、彼女は厳かな顔で天蓋の下へと歩を進めた。その姿を、最前列の来賓席から見守っていたユリウスは、小さく息を吐いた。
「……ずいぶん、遠くまで来たものだな」
小声でつぶやいたユリウスの隣に、ミリが立っていた。白い礼服に身を包んだ彼女は、普段の工房の油まみれの姿とはまるで別人だったが、口調はいつもどおりぶっきらぼうだ。
「遠くねえよ、まだ途中だろ。こっからが本番じゃねえか」
ミリはふてぶてしく笑いながらも、誇らしげな視線でセシリアを見つめていた。まるで、妹の晴れ舞台を見守る姉のような眼差しだった。
セシリアがゆっくりと玉座に座る。王笏が手渡され、臣下たちがひざまずく中、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「……あのとき、もし私が何もせず逃げていたら、ここには立てなかった」
自分に向けて、あるいは亡き父に、そして過去の自分に向けて呟くように。
「私は……選んだの。誰かを犠牲にするのではなく、全てを抱えて進む道を」
そのとき、ふと脳裏をよぎったのは、昨日シャドウウィーバから届けられたヴィオレッタの日記の最後の一文。
>『あの子だけは、私を見捨てなかった。だから、あの子の邪魔をしたかった。愛してたのよ、私なりに――』
狂気に染まった姉。それでも、どこかでセシリアを愛していた姉。セシリアは静かに目を閉じて、ほんの一瞬だけ祈るような仕草をした。
戴冠の冠が掲げられ、万雷の拍手とファンファーレが響きわたる。帝都広場に集う民衆と諸侯の視線が一点に注がれる中、銀の冠を戴いたセシリア・フォン・グランツァールは、ゆっくりと演壇に立った。
セシリアは目を閉じ、一度深く息を吸う。そして、静かに、だが確かな声音で語り始めた。
「皆さま。今日、この場に立てたことを、私は生涯忘れません。
かつて、この国は、誇り高きグランツァール帝国と呼ばれていました。しかしその誇りは、いつしか差別と抑圧へと姿を変え、分断と争いを生みました。
私も、かつてはただの一人の魔導士にすぎませんでした。名もなく、力もなく、ただ、ある方に導かれ、知を求めて歩んできました。民の痛みに目を伏せ、真実を知りながら、何もできなかった私に、再び道を与えてくれたのは――皆さまです」
セシリアの瞳は、最前列に立つユリウスを見つめた。
「この国は、過去の栄光に縋るのではなく、新たな秩序と共存の道を歩むべきです。種族に関係なく、誰もが誇りを持って生きられる国へ。
そのために私は、皇帝の名を継ぎます。そして誓います――この手で、争いの連鎖を断ち切りましょう。かつての帝国に背を向けるのではなく、そこから学び、未来を築くのです」
「グランツァールは、もう一度立ち上がります。共に、新しい帝国を作りましょう」
拍手が広場を包む。
そして、ユリウスが演壇に呼ばれた。
ユリウスの姿が演壇に映ると、観衆の表情は一変する。荒野の片隅で工場を起こし、無から国家を築き上げた男。英雄。救国の革命児。そして、多くの命を背負った男。
ユリウスはセシリアに一礼し、観衆をゆっくり見渡した後、語りかけるように口を開いた。
「……僕には、皇族の血も、高貴なスキルもありません。
【天命覚醒の儀】、そこで"外れスキル"と呼ばれた〈工場〉を授かり、家族に見限られ、荒野に放り出されました。そこから始まった日々の中で、たくさんの出会いがありました。技術を分かち合い、知恵を結び、支え合って、僕たちは砦をつくり、町をつくり、国をつくった。
でもその過程で、僕は、敵も、時に味方さえも失ってきました」
その言葉に、空気が静まる。彼の胸には、リィナ、ライナルト、エリザベート――そして多くの命の記憶があった。
「誰もが平等に、幸せに暮らせる国を作りたいと願って、僕は戦いました。でも、理想のために犠牲を選んできたのも事実です。殺さなければ、救えなかった命もあった……そのことを、僕は、一生背負って生きていきます。
だから、僕は――この国を、この未来を、命をかけて守ると、ここに誓います。
もう誰もが、あの日の僕のように、居場所を失うことがないように。誰もが、工場でパンを焼き、鉄を打ち、子を育て、笑いあえる国を――皆さんと共に築いていきます」
セシリアが涙をこぼし、ミリは拳を握りしめ、アルは「やっぱりお兄ちゃんはすごい……」と呟く。
演説が終わると、沈黙のあと、大きな拍手と歓声が会場を包み込んだ。
戴冠の儀が終わり、臣下たちが引いたあと、控室に戻ったセシリアのもとへ、ユリウスとミリが訪れる。
「お疲れさま、皇帝陛下」
ユリウスがからかうように言うと、セシリアは膨れ面を浮かべた。
「ユリウス。あなた、絶対その呼び方わざとやってるでしょう」
「もちろん。今日だけはちゃんと褒めてあげたくて」
「素直に褒めなさいよ、まったくもう……」
ぷいと顔を背けながらも、セシリアの頬にはうっすらと朱がさしていた。ミリは腕を組んで小さく笑った。
「よかったな、セシリア。ずっと夢だったんだろ? 帝国を立て直して、皆が笑って暮らせる国を作るってさ」
「うん……でも、夢の第一歩に過ぎないわ。これからが、本当の戦い」
セシリアはそう言って、ユリウスの手を取った。
「私は皇帝として、あなたは――」
「僕は君を支える者として、共に歩くよ」
「……ほんと、ずるい人」
セシリアは微笑んで、そっと手を握り返す。その姿を見て、ミリは軽く咳払いした。
「はいはい、いちゃつくのは公務が終わってからにしな。今日は宴もあるんだから」
「……ごめんなさい」
「……ごめん、ミリ」
二人に謝られたミリは、やれやれと肩をすくめながらも、どこか嬉しそうだった。
外では、帝国再興を祝う鐘の音が鳴り響いていた。
その音は、新たな時代のはじまりを告げていた。




