第208話 ヴィオレッタの日記
セシリアは白銀のドレスを纏い、控室の鏡の前で深呼吸をしていた。
今日、自分は皇帝になる。
ただの錬金術師だった少女が、ついに帝国の象徴となるのだ。
「……これで、終わるのね」
ぽつりと呟いたそのとき、控室の扉がノックされた。
入ってきたのは、黒装束の情報員――シャドウウィーバの一人だった。
「殿下……いえ、陛下。これをお届けに参りました。このような時ですが、だからこそと思い……」
差し出されたのは、古びた革の手帳だった。
表紙には、見慣れた金文字がかすれて残っていた。
《Violetta》
セシリアは一瞬、息を呑む。
「……どこで」
「南部の廃棄研究所の床下から発見されました。日記のようです」
受け取ったセシリアの指が、かすかに震えた。
ページを開くと、そこにはあのヴィオレッタの、あまりにも生々しい狂気と哀しみが刻まれていた。
最初の数ページは、理路整然としていた。
《ユリウス。あの男は興味深い。セシリアちゃんの傍にいるのが惜しいほどの素質。私が導けば、より高みへと至るだろう》
《セシリアちゃんは彼を支えるには未熟すぎる。あの女ではなく、この私がふさわしい》
そこまでは、冷静な分析のように見えた。だが、ページをめくるごとに、筆跡は荒れ、文体も乱れ始める。
《ユリウス、私を見て。セシリアではない、私を》
《おかしい。なぜ彼は気づかないの? こんなにも私が愛しているのに》
《セシリアが邪魔。あの女がいなければ、ユリウスは私のものに――》
ページの端が破り取られた痕があり、インクのにじみは涙か、血か、判断できない。
セシリアは、震える指でページを繰る。
《ユリウス。今夜は一緒にお茶を飲みました。微笑んでくれました。やっと私に心を開いたのね》
セシリアの額に冷や汗が滲む。ユリウスとヴィオレッタが「お茶を飲んだ」ことなど一度もない。記憶を捏造し、願望を事実として記録しているのだ。
《ユリウスは私のことを“ママ”と呼びました。可愛らしい声で――》
そこから、明らかに記憶の混濁と妄想が混ざり合っていた。
《恋人として、夫として、私だけのユリウスに……そう、セシリアはただの通過点》
《私がユリウスを解放してあげる。あの女の束縛から。彼を本当に幸せにできるのは私》
セシリアは息を呑む。まるで自分が「ユリウスを拘束していた悪女」として描かれている。
最後のページにはこうあった。
《私たちはもうすぐ一つになる。だって、私はユリウスの運命の人。セシリアには理解できない。あの子は知らない――私たちだけの、特別な絆を》
セシリアはそっと日記を閉じた。
唇を噛みしめ、肩を震わせる。
「……気づくべきだったのよ、もっと早く」
彼女は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「あのとき、拒絶すれば良かった。あのとき、手を差し伸べていれば……どちらか一つでも、正しくできていれば、ヴィオレッタは……」
けれど、どれだけ悔やんでも、もう遅い。
狂気に堕ちた姉は、もういない。
戴冠の衣を身にまとったセシリアは、ゆっくりと顔を上げた。
涙の跡を拭い、静かに灯る瞳で呟く。
「あなたの妄執に、ユリウスも私も屈しなかった。ならば、それが答えよ。さようなら、ヴィオレッタ」
そして、セシリアは女皇としての最初の一歩を踏み出すため、玉座の間へと向かった。




