第201話 アーデルハイトの憂鬱
静寂の執務室に、一枚の報告書が置かれる。煌々と灯る魔導ランプの下、それを読んでいたアーデルハイト侯爵の唇がゆっくりと綻んだ。
「……結婚、か」
その声は驚きでも祝福でもない。ただ事実を確認したという無機質な響きだった。指先で書類を撫でながら、侯爵は小さく呟いた。
「まさか、あの銀髪の皇女が――ここまで割り切るとはな」
アーデルハイト侯爵は、静かに机上の手紙を指でなぞった。そこには、グランツァール帝国皇女セシリアがヴァルトハインの主・ユリウスと正式に婚姻し、皇帝救出を名目とした軍事行動に踏み出す準備を整えたとの報せがあった。
「……本来、あれは政治という泥にまみれることを嫌う学者肌の女だったはずだ。感情で動き、最終的には躊躇う――それが想定だった」
セシリアは感情を理屈に乗せて喋る。理論を武器に戦場を遠ざける。だからこそ、政治的駆け引きの泥沼には足を踏み入れまいと信じていた。
だが。
「……あれは“国”を選び、“個”を捨てた。自ら進んで皇帝の血統を背負い、盾になろうとしている」
それはアーデルハイトの想定を逸脱した動きだった。
そして、もう一人――
「リルケット……貴様が一番の誤算だった」
侯爵は静かに椅子の背に体を預ける。
リルケットは誇り高き騎士。帝国の終焉と共に死ぬことを選ぶような男だと思っていた。だからこそ、静かに終わりの時を迎えると踏んでいた。
しかし。
「……帝国を見限らず、かといって腐敗にも染まらず、老騎士は“次の時代”に希望を見た。あの少年――ユリウス・フォン・ヴァルトハインに」
それが何より危険だった。
現実主義者でありながら、信じる者に剣を捧げる。
民心をまとめ、軍略にも長け、言葉に重みを持つ。
「……セシリアの知恵と、リルケットの剣。そこにヴァルトハインの工場と軍事技術が加われば――帝国の再建など夢ではない」
静かに立ち上がる。
「想定外だ……いや、想定が甘かった。私が見くびったのは、奴らの“覚悟”だな」
そして、侯爵は部下を呼びつけた。
「魔導錬金術兵器の開発を急がせろ。量産に目処をつけろ。……我らはあくまで“防衛”の構えを崩さず、彼らが攻めてきたように演出する」
「はっ」
部下が下がると、侯爵は再び小さく呟いた。
「覚悟のある者が相手ならば、こちらも覚悟を見せるまで……だな」
その瞳には、もはや政争ではなく、戦争を覚悟する者の冷たい光が宿っていた。




