第193話 墓
月明かりが、ヴァルトハイン城の中庭を照らしていた。
その中心、揺らめく月光のなかに、ふらつく足取りで立つユリウスの姿があった。
朦朧とする意識。霞む視界。耳鳴りの向こうで、誰かが叫んでいる。セシリアか、アルか。それとも――ミリか。だがその声すら、遠く、歪んで聞こえた。
彼の隣には、ヴィオレッタがいる。毒で倒れたミリを人質にし、勝ち誇ったような瞳でこちらを見ていたのが先ほどまでの記憶。
世界が揺らぐ。意識が暗闇に落ちていく。
ユリウスを引きずるヴィオレッタの足取りは、狂気に踊る踊り子のように軽やかだった。
朦朧とした意識の中、ユリウスはかすかに耳に届く彼女の声を聞く。
「やっと……やっと、手に入れたわ、ユリウス」
その声は甘く、子守唄のように柔らかい。だがその奥には、冷たい刃のような狂気が潜んでいた。
「セシリア、あの女……私を見下していた。皇女の中で一番、頭が良いと讃えられ、真面目で、気高くて……でも、私は知ってる。あの子、本当はあなたに依存していた。あなたの優しさにすがって、哀れな子犬みたいに……」
喜びを噛みしめるように言葉が続く。
「そんな彼女から……あなたを奪ったの。わかる? 私が、あのセシリアから、大切なものを、心ごと全部、奪ったのよ……!」
ヴィオレッタは振り返り、誰もいない闇夜にむかって狂ったように笑った。
「これ以上に甘美な勝利があるかしら? 愛も、絆も、思い出も――全部私のもの。あなたが彼女の名前を呼ぶたびに、あなたの心の中に彼女がいるたびに……私はそれを塗り潰して、壊して、私の色に染めていくのよ」
ユリウスの手を握り直すその指は、まるで壊れた人形のように震えていた。
「ねえ、私だけを見て……他の誰もいらないでしょう? リィナも、ミリも、アルも、セシリアも。みんな、いなくなればいい。あなたさえ、私だけのものになれば……それでいいのよ……」
苦しげに咳き込みながらも、ユリウスの口元に微かな抵抗の色が浮かぶ。
だが、ヴィオレッタは気づかないふりをした。いや、気づかぬふりをせずにはいられなかった。
「……これでようやく、私の夢が叶うの。あなたを、ママだと思い込ませようとしたあの頃の、未完成の愛なんかじゃない……今度は、恋人として。私の隣に、永遠にいてもらうのよ……ユリウス」
彼女の目には涙が浮かび、まるで祈るように呟いた。
「ねえ、お願い……どうか、私のものになって……」
その声は、愛を囁くようでありながら、世界を壊そうとする呪詛にも似ていた。
――このままでは、すべてを失う。
ユリウスは足元がおぼつかない。視界が揺れ、世界がかすむ。
庭の石畳を歩かされるユリウスの身体は、もはや自分のものではないようだった。ヴィオレッタの手が腕を引き、冷たい声が耳元で囁く。
「さあ……わたくしのものになりましょう、ユリウス。あの女から、すべて奪ってあげますわ」
その声が、セシリアの面影を踏みにじるようで、胸を締め付けた。
だが、意識がどんどん薄れていく。手足は痺れ、まともに立っていられない。
──もう……無理だ。
そう思いかけたとき、風に揺れる木々の向こうに、三つの墓標が見えた。
リィナ。エリザベート。ライナルト。
かつて共に過ごし、戦い、そして散っていった者たち。
胸に、焼け付くような想いが込み上げた。
(……そうだ。こいつは、あの三人の……仇だ)
心の奥に燻っていた復讐の炎が、再び燃え上がる。
──まだ、終わってない。こんなところで……終われるものか。
歯を食いしばり、ユリウスは足を踏み出した。
意識の奥底から、ある記憶が蘇る。前世で見た、鋳造の町工場。火花と油の匂い、溶解炉の熱、金属を打つ音。あの景色。
「〈工場〉……!」
ユリウスのスキルが発動した。
瞬間、庭の空間がゆがみ、そこに現れたのは古びた町工場。鉄骨が軋み、溶解炉の熱気が一気に吹き出す。
「なっ……!? なにこれ!? どこよここはッ!?」
ヴィオレッタが恐怖に満ちた声を上げる。だが、ユリウスは彼女の腕を掴んでいた。
「……リィナ、エリザベート、ライナルト。力を……貸してくれ」
そう呟いた瞬間だった。
ユリウスの身体に、不思議な力が満ちた。痺れていた手足が、わずかに動いた。
「やめて……離して! あなたは、私のものなのよ!」
ヴィオレッタが必死に抵抗する。だがユリウスは、絞り出すような声で言い放った。
「違う……僕は、君の所有物なんかじゃない……」
そして、振り絞る力でヴィオレッタの身体を回し──
背後の溶解炉へと、渾身の力で突き飛ばした。
「うそ……いやあああああっ!」
ヴィオレッタの絶叫が、異世界につくられた工場にこだました。
赤黒い炎が彼女の身体を飲み込み、ひとつの狂気が、ついに幕を閉じた。
ユリウスはその場に膝をつき、意識を手放す寸前、墓の方へと微かに視線を向けた。
「……みんな……やっと、仇を……」
そして、そのまま意識は闇に沈んだ。




