第192話 ヴィオレッタ来る
ヴィオレッタは、静かな部屋の奥で、金糸を編むように指先で魔導回路を練り上げていた。精密な術式は、魔導洗脳術の最新型。
彼女の目の前には、ユリウスの肖像画。写実的すぎるほどに描かれたその顔に、ヴィオレッタはうっとりと微笑みかけた。
「愛しいあなた……今度こそ、私のものになるのよ」
かつて――ヘルマンの愚かな計画の中で、ヴィオレッタはユリウスを"母"だと思い込ませる魔導洗脳の構築を手がけた。
ママ、ママと甘えるユリウスを夢想しながらも、どこか違和感があった。そう、あのときはまだ彼を完全に理解していなかったのだ。
だが今は違う。
「私はあなたの母になるんじゃない。恋人になるの。あなたのすべてを、私に捧げさせてあげる」
そう囁く声は、まるで恋人に語りかけるように甘く、そして――底知れぬ狂気に満ちていた。
机の上には、ユリウスの髪の毛とされる試料片。砦に潜入していた間者が持ち出したものだ。
それを器に入れ、血と魔素で封じた魔導核と融合させていく。次に構築するのは、精神干渉系の魔導幻術。
「あなたの心に、私の姿を刻み込むの……そう、あのセシリアちゃんなんかじゃダメ。あの地味でつまらない妹は、あなたを満たせない」
ふわりと笑ったヴィオレッタは、今度は自分の胸元を見下ろし、ため息をつく。
「ふふ……でも、私はちがう。あなたの望むすべてを、満たしてあげられる。ママとしても、恋人としても、妻としても――」
その声は次第に熱を帯び、すでに現実と妄想の境目を踏み越えていた。
傍らに控える従者が一歩引いたように息を呑むと、ヴィオレッタはまるで気付いたように顔を上げ、微笑んだ。
「準備を始めて。ユリウスを迎えるための、聖婚式の支度よ。そうね……ドレスは、ユリウスの好きそうな銀と黒にして――」
その目に宿る光は、純粋にして邪悪。
かつて母として抱擁しようとした相手を、今度は恋人として束縛しようとする――その発想はもはや狂気の域を超えていた。
「ふふ……楽しみね、ユリウス。あのときは失敗しちゃったけど、今度こそ、私の“恋人”になるのよ」
そして、準備がととのうと、ヴィオレッタは動き出す。
夜の帳が落ちたヴァルトハイン城を、黒い影が音もなくすり抜けた。
それはまるで煙のように警備の目を欺き、魔導探知機の網すら掻い潜って、迷いなく進んでいく。
影の名は――ヴィオレッタ。
彼女はその手に小さな香炉型の魔薬器を持ち、意識を濁らせる《睡蓮の夢》を撒いていた。侵入されたことにすら気づかぬまま、警備兵たちは一人また一人と壁に寄りかかるようにして崩れていく。
やがて彼女は目的地に辿り着いた。ユリウスの私室。
「……いたわね」
扉を押し開けたその瞬間、部屋にいたミリが鋭く振り返った。
彼女は不幸にも、ここでユリウスを待っていたのだった。
「誰だ、てめぇ……!」
だが、その言葉が終わる前に――。
シュッ、と空気を裂く音とともに、注射器型の魔導器がミリの首筋に突き立てられた。刃先には淡い緑の液体。毒性はそこまで強くないが、時間をかけて確実に命を奪う類のものだった。
「……が、ぁっ……!」
ミリは呻き声を上げ、その場に崩れ落ちる。
「大丈夫。すぐには死なないわ。でもね……助けたければ、ユリウスを呼びなさい」
ヴィオレッタは倒れたミリの傍らにしゃがみ込み、優しく髪を撫でる。だがその瞳にあるのは慈愛ではなく、病的な執着と歪んだ所有欲だった。
やがて、警報を察知した城内に緊張が走る。そして――。
「ヴィオレッタ……!」
駆けつけたのはユリウス、そしてその後ろにはセシリアとアルが続いていた。
ミリの姿を見たユリウスが一歩前へ出ようとした瞬間、ヴィオレッタがミリの体を引き寄せ、手にした短剣を喉元にあてがった。
「動かないで。次、動いたら、今度こそ本当に殺すわよ?もっとも、時間が経てば毒で死んじゃうけど」
セシリアが魔法の陣を手元に展開しかけるが、ユリウスが手で制する。
「やめろ、セシリア。ミリが――」
「くっ……!」
セシリアは唇を噛み、手を引っ込めた。その様子を、ヴィオレッタがうっとりとした笑みで眺める。
「そう、それでいいのよ。ねぇ、ユリウス。来てちょうだい。あなたが来てくれないと、彼女は……可哀想よ?」
ユリウスの視線が一瞬、アルとセシリアへ向く。二人の顔に浮かぶ焦燥。だが、彼女たちもまた、下手に動けばミリの命が奪われかねないと理解していた。
「……僕が行く」
ユリウスは一歩、また一歩とヴィオレッタに近づいた。
「うふふ……そう、それでいいのよ」
間合いに入った瞬間――ヴィオレッタは袖から小瓶を取り出し、ユリウスの顔に向けて投げつけた。中身は濃縮した《睡蓮の夢》。
ふわりとした煙が視界を覆い、ユリウスの動きが止まる。
「……っ、く……」
ふらつく身体を、ヴィオレッタがしっかりと抱き留めた。
「うふふ……やっと、やっと私のものになるのね、ユリウス……」
ヴィオレッタは突き飛ばしたミリの傍から立ち上がると、崩れ落ちるユリウスを引きずりながら部屋を出ていく。
その背中を、セシリアとアルが唇を噛み締めながら見送るしかなかった。




