第190話 目覚まし時計
その朝――否、正確には“その昼前”だった。
ヴァルトハイン城の廊下を小走りする足音がひとつ。スカートの裾をひらひらさせながら、アルが寝室へと急いでいた。
「お兄ちゃん、会議は朝一番だって言ってたのに、もうとっくに朝の鐘、三回目……!」
その手には、魔導式の携帯時計。針は、もうすぐ九時を指そうとしている。
焦る表情のアルが扉をそっと開けると、そこにはまだ眠るユリウスの姿。だが、ただの寝坊ではなかった。
「……スキャン開始」
彼女の瞳が淡く輝き、ユリウスの身体を魔導波で走査する。
「……やっぱり。深夜三時まで書類整理……さらに魔素変換炉の設計図修正……睡眠時間、わずか三時間未満……っ!」
アルの目が潤む。
「これじゃ、お兄ちゃん……倒れちゃうよ……」
そして、決意する。
「――アルが、目覚まし時計になるしかないねっ。疲れがとれるまで寝かせてあげる」
ふわり。
小さな身体がベッドの隣に潜り込む。ユリウスの背にそっと抱きつき、心音に耳を傾けながら、ぴったりと体温を重ねる。
「お兄ちゃん、アルはここにいるよ……少しだけ、一緒におやすみしよ?」
ほんのり赤く染まった頬。ユリウスのぬくもりを感じながら、アルは至福の表情で静かに目を閉じた。
だが――
バンッ!!
「ユリウス!もう時間ですわよ!」
「兄貴ー!また徹夜してんじゃねーだろうなぁ!」
セシリアとミリが、いつものように寝室に飛び込んできた――その瞬間。
ふたりの目に映ったのは、ユリウスのベッドの上。そこに、頬を染めながら抱きついて眠るアルの姿。
「……」
「……」
時間が止まった。
そして、
「こ、これはちがっ……ち、ち、違いますのよ!? 決して下心とかそういうのではなく、あの、そのっ!」
セシリアが湯気を出しながらわたわたと口元を覆い、顔を真っ赤にして後ずさる。
「なにを添い寝してやがる!! しかも、なに、腕っ!? 腕に脚っ!? 密着しすぎじゃねぇの!? てか裸足だし!!」
ミリは鼻息荒く、ユリウスの枕元に乗り出した。
「う……ううぅぅ……アルは、アルはお兄ちゃんの健康のために、医学的判断で、だ、抱きついていたんですぅぅ……!本当は目覚まし時計なんですぅぅ」
アルは涙目になりながら、寝起きでぽやぽやしたまま言い訳を始める。
だが、まだユリウスは寝ている。
ミリが怒鳴る。
「目覚ましになるなら、声で起こせーっ!」
「うぅぅ、声じゃ起きないんです……だから、心音と体温で――っ!」
「それはっ! 恋人がやるやつだろうがーっ!!」
それを聞いたセシリアは、恋人でもやらないと思うが、ミリの勢いに押されて口にはしなかった。
「妹でもしますっ!しますったらしますぅっ!」
「じゃあ、あたしも兄貴に添い寝する!!」
「それはだめです!順番抜かしっ!」
セシリアが真っ赤な顔で一言。
「ちょ、ちょっと……あなたたち、人の寝室で何言って……わたくしも……その……許されるなら……い、いえっ、なんでもありませんのっ!」
そして、ようやくユリウスがむくりと起き上がった。
「……何の騒ぎ?」
三人の視線が、同時にユリウスに突き刺さる。
――朝から修羅場の始まりだった。




