第188話 排除決意
アーデルハイト侯爵は、椅子に深く腰掛けながら、机上に並ぶ報告書に目を落とした。魔素精製炉の実験結果は散々だった。出力は不安定で、奴隷の消耗も激しく、何より――「制御が効かない」。
「……いずれ事故を起こすぞ。いや、既に“事故”などでは済まぬかもしれん」
彼は低く呟き、やや間を置いてから、執務室に控える腹心を呼んだ。
「例の件だが……本格的に動くときが来た。精製炉の主導権を取り戻す。ヴィオレッタ殿下には、一時お休みいただく必要がある」
「はっ。用意は整っております。実験所から移動する際を狙い、警護の兵を……」
だが、侯爵の指示が届くより先に、事態は急変する。
その夜、実験施設に向かっていた部隊の一隊が、無人の馬車を発見した。中は空。警護の兵も、ヴィオレッタの姿もなかった。
同時刻、実験所の側近部屋では、研究者たちが眠る中、誰にも気づかれることなく書き置きが残されていた。
> 「裏切りは好きじゃないの。けれど、裏切られたら仕方ないわよね?」
侯爵の元にそれが届けられたのは、夜明け直前だった。瑠璃色に染まる空の下、彼は短く息を吐く。
「……やはり、奴は“こちら側”ではなかったか。いや、最初から、どこにも属していなかったのかもしれん」
腹心が恐る恐る訊ねる。
「追いますか?」
「否。あれは、捕らえられぬ。今はそれよりも、彼女が遺したものに備えるのが先決だ」
侯爵の目は、かつての盟友に向けたものとは違う、冷えきった戦場の眼差しを宿していた。
「ヴィオレッタ。貴様が次に姿を見せたときは、こちらも――その覚悟を見せねばなるまい」
そして、侯爵は机上の封筒に視線を落とした。
それは、彼が密かに準備していた“対ヴィオレッタ計画”の発動指令書だった。
だが、それはもう、彼女には届かない。すでにヴィオレッタは、誰の管理下にもない“災厄”として、再び闇へと姿を消していたのだった。
そして、ヴィオレッタとアーデルハイト侯爵の決別が、侯爵の運命を決定づけた。
開発の頭を失ったことで、その技術革新はとまる。
残された研究者たちは、ヴィオレッタの思考を全て理解するには力が足りなかった。
今残されたものを使えるようにするのが精一杯であり、ユリウスたちの技術に追いつくということはなかったのである。
アーデルハイト侯爵はそのことを知ると、ヴィオレッタの高笑いが聞こえた気がした。




