第186話 アーデルハイトの裏切り
ヴィオレッタが数日ぶりに訪れた工房は、異様なほど静かだった。
魔素精製炉は稼働を止めており、炉から伸びるケーブルも巻き取られ、まるで最初からなかったかのように片付けられていた。亜人奴隷の姿も見えず、代わりに武装した兵士が多く配置されている。
「……どういうことかしら?」
ヴィオレッタが冷たく問いかけると、案内役の技師長が薄ら笑いを浮かべて答えた。
「贄の供給が一時的に止まりまして。侯爵閣下のご命令で、一旦実験を中止しております」
「贄が、止まった? この時期に? ふざけないで」
「……私どもにはどうにも。『帝都の貴族連中からの圧力があった』と、閣下は」
技師長の視線がどこか泳いでいるのを見て、ヴィオレッタは小さく舌打ちした。
(奴ら、何かを隠してる……)
そのまま黙って立ち去る彼女ではない。工房内を巡回するふりをして、以前設計図を保管していた部屋へ向かった。
魔素変換炉の回路図や、魔導増幅装置の草案など――彼女しか扱えぬはずの資料が並ぶ部屋。
だがそこには、見知らぬ書類があった。
しかも、それは別の部署――侯爵の直属工房で運用中の兵器部品と、寸分違わぬ設計図だった。
彼女の保管していた設計図などは消えている。
「……誰がこれを許可した?」
床に落ちていた小さな端材には、見慣れた刻印が押されていた。侯爵の軍用工房で使われる印だ。
(私の知らぬ間に……)
全身の血が逆流するような怒りと、背筋をなぞるような寒気が混じる。
侯爵は――アーデルハイトは、もう自分を必要としていない。
むしろ、この技術を"利用し終えた"とでも言わんばかりの手際で、着々と自立体制を整えていた。
(私を――排除するつもり?)
唇が自然と吊り上がる。笑みを浮かべながら、内側からギリギリと歯を食いしばる。
「……面白いじゃない」
微かに震える声で、ヴィオレッタは誰もいない部屋の奥で呟いた。
「私を使っておいて、あとから切り捨てようって? ふふ、侯爵……あなた、本気で私に勝てるとでも?」
目の奥に、あの禍々しい光が戻っていた。魔素精製炉の初稼働時、贄の命が魔素に変わる瞬間を見届けたあの夜のように。
「――よろしい。ならば先に裏切ったのは、あなたよ。私ではない」
そう言い残し、ヴィオレッタは踵を返す。
冷たく整えられた通路の先で、侯爵配下の兵士たちが並ぶ姿が見えた。
(この中にも、私を見張る者がいるのかしら?)
だが、彼女は気にも留めなかった。
次に動くのは――自分だ。
この程度で終わる女ではないことを、ヴィオレッタ・フォン・グランツァールは誰よりも知っていた。
ヴィオレッタは、仮面のような笑顔を浮かべながら、実験施設のホワイトボードを見つめる。
「……奇妙ね。今月に入ってから、突然贄の供給が止まるなんて。そうそう減るもんでもないしょ」
研究記録には、予定されていた二十人分の供給が十人に削減され、先週に至ってはわずか五人。しかもその大半が病弱な老いた個体ばかりだった。
そして今、ついに供給が止められた。
「実験の予定も、私に黙って取り消されている……」
静かに呟いたヴィオレッタの瞳が、まるで氷のように冷たく光る。
不意に、彼女の背後から足音が聞こえた。従者の一人が怯えた顔で報告書を差し出す。
「こ、侯爵からの定期報告です」
ヴィオレッタは報告書を受け取ると、ちらりと一瞥しただけで微笑んだ。
「ええ、ありがとう。……それと、伝えてくれるかしら」
「な、なんでしょうか?」
「次回の贄供給を遅らせたら、実験を中止する。すべての資料は私の手で焼却処分し、あなたたちのために遺すものは何一つないって」
従者の顔が真っ青になる。だが、ヴィオレッタは優しく、まるで慈母のように微笑んで言った。
「冗談よ。……でも、少しは緊張感を持ってもらわないとね」
従者が逃げるように立ち去ると、ヴィオレッタは再び制御盤に視線を戻した。
「アーデルハイト……やっぱり、あなたは私を道具だと思っていたのね。力を手に入れるための、一時的な狂気として……」
指先がホワイトボードの縁をなぞる。白磁のような肌に、ぞわりと浮かぶ魔素の揺らぎ。
「でも、それで済ませてくれるほど、私って……おとなしい女だったかしら?」
そう呟いた瞬間、彼女の指が制御盤のスイッチに触れた。
「次の実験は……予定を前倒しするわ。贄の数も、規模も。アーデルハイトに、私の"価値"を思い知らせてあげなきゃ」
ヴィオレッタの瞳が、狂気の紫に燃え上がる。
「始めましょう。――“混沌”の準備を」




