第185話 アーデルハイトへの報告
重厚な扉が開くと、その先には一面に書棚と地図が並ぶ書斎があった。
薄暗い室内の中央、高背の椅子に腰かけていた男――アーデルハイト侯爵は、指先でワイングラスを傾けながら、来訪者に目を細めた。
「やあ、ヴィオレッタ殿下。わざわざ足を運ばれるとは。これは、私の城に何か重大な進展があった証でしょうな」
ヴィオレッタは黒いドレスの裾を揺らし、何事もないかのように優雅な笑みを浮かべて歩み寄った。
「ええ、もちろんよ。あなたの協力のおかげで――魔素精製炉の初期稼働に成功したわ。実に、有意義な“素材”だったわ。命の代償として得られる魔素は、やはり純度が高い」
ワインの香りがふわりと広がるなか、アーデルハイトは眉一つ動かさず返す。
「それは良かった。だが……貴族連中は“効率”を気にする。我々が使うのは兵器であって、祭壇ではない。精製に命を要する技術は、あくまで“移行段階”であることを忘れないでいただきたい」
アーデルハイトは既に部下から魔素精製炉の情報を聞いていた。
人の命を魔素に変換する装置。
亜人や奴隷を使うのに躊躇いのない貴族でも、瞬時の使い捨てともなれば、その効率の悪さには目をつぶることは出来ない。
「当然よ、侯爵様。最終的には人工的な精製ルートを確立するつもり。だって……このままでは、ヴァルトハインに勝てないもの」
その名が出た瞬間、アーデルハイトの目がわずかに鋭くなった。
「ユリウスか。確かに、連中の進歩は速い。特にあの“銃”と“動力鎧”の存在は脅威だ。東部の貴族たちは内心、焦燥に駆られているだろう。連合の中にも、日和見主義者が目立ち始めた」
「でしょう? だから、必要なの。あの男と対等に渡り合うには……」
ヴィオレッタは、口元だけで笑いながらそっと囁く。
「“もっとたくさんの命”と、“もっと純度の高い魔素”が」
その響きに、侯爵の背後に控える秘書官たちは一瞬、息を呑んだ。部屋の空気が重くなる。
しかし、アーデルハイトは笑みを崩さない。
「よろしい。君の狂気が、我らの勝利に結びつくのなら、見届ける価値はある。だが――制御は必須だ。無秩序な力は組織を壊す」
「もちろん。私は、壊すべき場所しか壊さないわ。侯爵様の“お城”を、巻き込むつもりはないわ」
「それならば、今後も君の実験場として、あの男爵領を好きに使うといい。だが、外に漏れれば――」
「ええ、対処は任せて」
彼女の瞳が、獣のように輝いた。
「いずれ、すべてを掌に収めてみせるわ。あの清廉潔白なセシリアちゃんと、ユリウス様の偽善に満ちた領地を、ぜんぶまとめて地に叩き落として」
ワインの音が、静かに室内に響いた。
そして、会話の終わりを告げるように、扉が再び閉ざされた――。
ヴィオレッタの去ったアーデルハイト侯爵の執務室。
壁には年代物の地図と、歴代侯爵の肖像画が並んでいた。
重厚な静寂の中で、アーデルハイトはワインを一口含み、窓の外を眺めていた。
「……狂気の仮面の下にあるのは、才覚か。それとも、ただの破滅か」
ヴィオレッタが去った後の空間に、彼は静かに呟いた。
「いずれにせよ――利用価値はある」
アーデルハイト侯爵は老齢に差しかかっていたが、彼の眼光は未だ鋭く、帝国の未来と己の一族の存続を天秤にかけて思考を巡らせていた。
――ヴィオレッタ。皇族という出自、狂気に染まった天才、そして旧律派すら手玉に取った魔性の女。
「おまえが手に入れた技術と知識……いずれ私のものとなる」
彼は帝国貴族社会の腐敗を知り尽くしていた。群雄割拠の時代、このままでは帝国もその体を保てぬ。
ヴァルトハインのように独自の技術と魔導錬金術で力を蓄える領地こそが新時代を制す。
だが、その手段を一から築くには時間が足りない。だからこそ――ヴィオレッタがもたらす危険な技術こそが、もっとも効率的な近道だった。
「パワードスーツ、魔素精製炉、そして……ARTEMISシリーズ」
彼の口元に笑みが浮かぶ。その笑みは、かつて帝国の参謀本部で策略を巡らせていた頃と同じものだった。
「いつかお前を始末せねばならぬ日が来よう。だが今は……踊るがいい。狂った皇女よ。お前の狂気が帝国を揺るがす火種となり、私の刈り取りの時を近づける」
老侯爵は椅子にもたれ、指でグラスの縁をなぞった。
「この老いぼれが、ただの道化とでも思ったか……ふふ……愚か者め」
その目には確かな冷徹さと野心が宿っていた。彼が狙っているのは――ヴィオレッタでも、ヴァルトハインでもない。
混迷する帝国の頂点そのものだった。