第181話 ラザルの逃走
月の光が兵器工場の屋根を照らしていた。
深夜。誰もいないはずの時間に、作業着を着た男――ラザルは静かに軍事区画の一角から出てきた。
懐には、小さなメモ帳がある。パワードスーツの構造図、銃の構造、整備工程のノウハウ。覚えた範囲を文字と絵でまとめた、東部への報告資料だった。
だがその手は、わずかに震えていた。
(……ここを出れば、ミリさんにはもう会えない)
そう思うたび、胸の奥に重たい鉛のような感情が沈んでいく。
「名前で呼ばれて、嬉しくなるなんて……なにやってんだ、俺……」
ミリとのやりとりが思い出される。
汗まみれの作業場で笑い合った日々。
故障した機械を協力して直したあの時間。
視察に来たユリウスやセシリア、そしてアルの明るい声。
思えば、ヴァルトハインの人々は、亜人だからといって差別せず、自分に仕事と居場所を与えてくれた。
ミリはなおさらだった。ドワーフの誇りを忘れずに、誰よりも懸命に働き、誰よりも誠実だった。
「……こんな国を、壊していいわけがない」
拳を握りしめ、メモ帳をポケットにしまい直す。
だが、家族の顔が脳裏をよぎった。
妹のアリーナ。母のやつれた姿。
アーデルハイトに逆らえば、彼女たちがどうなるかは明白だ。
(家族を守るためには……戻らなきゃいけない。でも……)
ラザルは、決断する。
情報を持ち出す。だが、それ以上の流出は自分で止める。
せめて、真実を伝えることで、ミリの信頼を裏切らずに済むように。
そのために、手紙を書いた。
手紙は、工場の奥にある机の引き出しに残された。
そしてラザルは、深い闇に包まれた夜の街路を走り出した。
戻るために。守るために。後戻りのできない覚悟を胸に抱いて。
だがその夜明け前、彼の脱出は失敗に終わることになる――。
早朝。ノルデンシュタイン砦の西側、防壁沿いの監視塔近くで、哨戒中の警備兵が異変を発見した。
「――倒れてる!?」
転がるように駆け寄り、脈を取る。だが、すでに息はなかった。
すぐに報告があがる。
「遺体の身元、判明しました。……ラザル。ドワーフの青年です」
「死因は?」
「砦の外壁の痕跡から見て、おそらく塀の上から飛び降りて脱出を試みたのでしょう……。ですが、着地に失敗し、首を強く打っています」
「……逃亡の途中で、か」
その一報は、工房にいたミリにも伝えられた。
最初、彼女は無言だった。だがその場で手にしていたトンカチを机の上に置くと、すっと立ち上がる。
「……見に行く。遺体を」
遺体安置所に到着したミリは、静かに白布をめくった。そこには、どこか苦しげな――だが、どこか覚悟を決めたような、ラザルの表情があった。
彼の足元には、警備兵が見つけた封筒が一通。
「ミリ様宛です」
その文字を見た瞬間、ミリの心臓がきゅっと縮んだ。
封を切る手が震える。
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《ミリ様へ
この手紙が届くとき、私はもういないでしょう。
私は、スパイです。
アーデルハイト侯爵の命でここに送り込まれました。家族が、人質に取られているのです。逆らえば殺される。そう言われ、私は命令に従いました。
だけど……あなたと出会い、あの工房での日々のなかで、私の使命感は壊れてしまいました。
あの場所を壊すなんて、できなかった。
差別もなく、皆が真剣にものづくりをしていて、夢中で未来を語って……。私が夢見ていた世界が、そこにはありました。
だから、戻ることはできません。
でも、ここに残れば、家族が殺される。
私は……臆病者でした。どちらも守れなかった。
せめて、これ以上の情報を渡さないために、スパイであることとまだたくさんのスパイが送り込まれていることを伝えて、脱出しようとしました。
これが、私の精一杯です。
――ミリ様。ありがとうございました。
あなたの言葉が、最後まで心を支えてくれました。
ラザル》
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ミリは、読み終えた手紙を胸に抱くようにして、ゆっくりと目を閉じた。
「……馬鹿」
低く、かすれた声だった。
「馬鹿だよ……もっと早く言ってくれたら……あたしは、何でもしたのに……!」
誰にぶつけることもできない想いが、胸の奥で暴れた。
「死なないでほしかった。帰ってきてほしかっただけなのに……っ」
その場に膝をつき、顔を手で覆った。
白布が、そっと風に揺れていた。
ミリの背中は、小さく震えていた。




