第179話 ラザル悩む
ドワーフ技師ラザルは、ぎこちない手つきで軍用パーツを磨いていた。
治ったはずの右肩には、いまだかすかな痛みが残っている。けれど、それ以上に心を重くしているのは、胸の奥に巣食う迷いだった。
――この工場で、自分がしていることは裏切りなのか?
ヴァルトハインの民たちは、ラザルを〈東部出身のドワーフ〉というだけで腫れ物扱いせず、普通に接してくれる。
怪我をしたときも、衛生兵が親身に手当てしてくれたし、視察に来たミリも「あたしが庇われて怪我したんだ」と、ラザルを責めることはなかった。
あろうことか、ミリの推薦でラザルは軍事工場の勤務を許された。
――これじゃあまるで、本当に……仲間みたいじゃないか。
心のどこかで、ラザルはアーデルハイトに送り込まれたスパイであることを忘れそうになっていた。
そのときだった。
「ラザル、視察だ!」
番頭の声に顔を上げると、整備場の通路の向こうから、数人の人影が現れた。
先頭に立つのはユリウス・フォン・ヴァルトハイン。かの“工場の覇者”にして領主。
作業服を羽織り、片手には点検票が挟まれたボードを持っている。
そのすぐ後ろにはミリとセシリア。
そして、明るい茶髪の少女――アルが、小さくユリウスの背中を追いかけるように歩いていた。
「あれが噂の新型か……」
ユリウスは、試験台の上に置かれた改良型の銃を手に取り、弾倉を抜いてバネの感触を確かめる。
「ん……?」
指先に強い反発。思わず押し込んだ拍子に、バネが跳ねてユリウスの指先をかすめた。
「……いてっ」
「ユリウス様!?」
セシリアが心配そうに駆け寄るより早く、アルが小走りに彼の手を取り――
「出血反応、確認。応急処置を実行します」
そのまま、ユリウスの人差し指を自分の口元に運ぶと、ぺろりと舐めた。
ぬめりとした感触に、ユリウスはわずかに硬直する。
「ちょ、ちょっとアル! それはやりすぎだって!」
ミリが割り込むようにしてアルの肩を引っ張った。
「ユリウスの傷に女の子が口をつけるって、どういうことだよ!? なんかえっちだろ!」
「えっち、という意味がわかりません。感染リスクの低減を優先しました」
アルは真顔でそう答えながら、手元の布で丁寧にユリウスの指を拭った。
「えー……セシリア、今の見た?」
「う、うん。たしかにちょっと色っぽかったというか……」
「なに赤くなってんのさ! これは教育が必要だ、教育が!」
ミリが怒りながらも顔を真っ赤にして拳を握るのを見て、ラザルは思わず口元を押さえた。
笑ってしまいそうだった。
だがその笑いは、純粋な楽しさではなかった。
(……なんで、俺は……)
ユリウスたちが自然に笑い合い、じゃれあう姿――そこに嘘はなかった。誰かを傷つけることなく、仲間として共に歩もうとする空気が、確かにそこには存在していた。
そして、東部で旧態依然とした貴族が統治する限り、こんな景色は見ることが出来ないこともわかっていた。
(本当に、壊すべきなのか? こんな場所を……)
葛藤が、ラザルの胸をかき乱す。だが今は、それに答えを出すには早すぎた。
「ラザル、次の工程だ!」
「あ、はい!」
呼ばれて慌てて返事を返し、彼は作業に戻る。
それでも、耳の奥には、ミリの怒った声と、アルの無表情な“舐め行為”がいつまでも残っていた。
そして――自分が何者で、どこに立っているのかも、改めて問い直さずにはいられなかった。




