第178話 ラザルの葛藤
稼働音が反響する民生品工場の一角で、ラザルは黙々と作業をこなしていた。
金属板の積み上げ、搬送、組み立て――単純だが重労働な仕事を、無表情で繰り返している。
だが、その目は機械と工房の構造、配置された制御盤、さらには監視の死角までも余さず記憶していた。
「……もうすぐ、信頼を得られる」
小声で呟いた言葉に、自分自身の胸がざらついた。
彼はヴィオレッタに命じられたスパイの一人。家族は東部の街で囚われている。
拒めば、彼らの命がどうなるかは明白だった。
『機密を盗むのではなく、覚えて持ち帰るだけでいい。お前の優秀な頭脳ならできるはずだ』
アーデルハイトの屋敷で、ヴィオレッタが口元に笑みを浮かべながらそう言ったのを、ラザルは今でも忘れられない。
――だが。
「ほら、そこ! 持ち上げ方が悪いと腰をやるぞ!」
威勢のいい声が飛ぶ。ラザルが思わず顔を上げると、油と金属の匂いをまとった小柄なドワーフの女性が作業通路を歩いてきていた。
赤銅色の髪、腕には溶接痕。ミリだ。民生品工場に視察に来たらしい。
ラザルの動きが一瞬止まる。
〈ミリ・ゴルトヴァルク・ヴァルトハイン〉――かつて帝国に滅ぼされたドワーフ王家の末裔。だが彼女は今、ヴァルトハイン公爵の妻としてその側に立ち、人間たちと共に汗を流している。
「……どういうことだよ」
思わず小さく呟く。だがその時、ギィィィィ――と異音が鳴った。
「上だッ!」
ラザルの警告より早く、金属部品を積んだ木箱が高所から落下する。
「危ない!」
ミリの頭上めがけて落ちてくる重量物――ラザルの身体がそれをはじくように飛び込んだ。
鈍い音とともに、箱がラザルの背に直撃し、床に激突する。
「ッ、あんた……!」
目を見開いたミリがラザルのもとに駆け寄った。ラザルは顔をしかめ、腕を押さえながらも言う。
「……だ、大丈夫です。骨は折れてない……たぶん」
「ばか! なにしてやがる、こんなとこで!」
「あんたが……下敷きになるよりマシだろ」
ラザルの言葉に、ミリはしばらく黙って彼を見下ろしていた。やがてため息を吐き、手を差し伸べる。
「ありがとな、ラザル」
それは、初めて彼に向けられた素の感謝だった。
――その言葉が、胸に突き刺さる。
この数日、彼はこの地で多くの人々と働いた。人間も亜人も分け隔てなく、互いを仲間として接し、ものづくりに熱中する様子を、ずっと見てきた。
敵ではない。
彼らは――“家族”のようだった。
だが、自分は裏切ろうとしている。彼らの技術を奪い、戦場で向かい合うために。
ミリに肩を貸されながら工房を出るとき、ラザルの心に言いようのない重さがのしかかっていた。
このままではいけない。
でも――
「俺の家族は、どうなる……」
誰にも届かない呟きが、歯を食いしばった唇の隙間から漏れた。




