第175話 アル起動
透明な魔導液が満たされたカプセルのなか、少女はまどろみの中にあった。
周囲の空気がわずかに震え、機械音のような鼓動が広間の奥に響き始める。
「起動シーケンス……完了」
ミリが静かに告げた。
「魔素濃度、安定。生体コア、活性化――いくよ」
ユリウスが制御パネルに手をかけると、カプセルの縁に刻まれた魔導回路が淡く光り出す。
やがて、内部の液体が泡立つように波紋を描き、少女の身体をやさしく解放していった。
ぷしゅ――という小さな音とともに、封印が解除される。
ゆっくりと、少女が目を開けた。
「……ぅ……ん……」
その瞳は、澄んだ琥珀色。
まるで朝の陽光を湛えたような、あたたかな光だった。
ユリウスは息をのむ。
そこにいたのは、あのリィナとも、どの人間とも違う、けれど確かに“生きた存在”だった。
「……ここは……どこ、ですか?」
少女が小さく呟いた。声はまだ掠れていて、それでも透き通るように澄んでいた。
「あなたの名前は……」
と、ユリウスが問いかけようとしたそのとき――
「……わたしは、アル……ARTEMIS09。戦術支援型、生体ゴーレム……」
目を瞬かせ、少女は自分の胸元を見下ろした。そこには、眠っていた証である銀の魔導刻印が、仄かに残っていた。
「……あれ? なんだか……おにいちゃんに似てます」
ユリウスの目が見開かれる。
「おにいちゃん……?」
「……はい。わたし、知ってるんです。たぶん、夢で……」
アルは無垢な瞳で、まっすぐユリウスを見つめた。
「……あなたが、わたしを起こしてくれるって、夢でずっと……待ってました」
セシリアが思わず息を呑む。ミリは目を細めて、そっと肩をすくめた。
「名前、教えてください。……おにいちゃん」
そう言って、少女は微笑んだ。
その笑顔に、ユリウスはリィナの影を重ねることはなかった。
そこにいたのは、リィナではない。けれども、また別の“希望”だった。
「……ユリウス。僕の名前は、ユリウス・フォン・ヴァルトハインだ」
「ゆりうす……おにいちゃん」
アルはそう呟くと、カプセルの縁に手をかけて一歩踏み出し、よろけた体をユリウスの胸に預けた。
「……はじめまして。わたし、がんばります」
その言葉は、新たな旅のはじまりを告げる、確かな鼓動だった。
アルがユリウスの胸からそっと離れた。
「……あの……ごめんなさい。わたし、初めてだから、立つのもふらふらで……」
恥ずかしそうに顔を赤らめ、指先を合わせるようにしてぺこりと頭を下げた。その仕草は、どこか幼い、けれど人間らしい自然な所作だった。
ミリが小さくつぶやく。
「……あれが、生体ゴーレム……? ほんとに、そうなのか?」
「アルは人間だよ。ぷんぷん」
先程まで生体ゴーレムと言っていたのを忘れたかのように、アルは怒る仕草をしてみせた。
セシリアも目を細める。
「構造はリィナと同じはず……なのに、感情表現がここまで自然だなんて……」
ユリウスはそっとアルの肩に手を添えた。
「大丈夫、焦らなくていい。今は……ゆっくりでいいんだ。目を覚ましてくれて、ありがとう」
「えへへ……あったかいです、おにいちゃん」
アルは微笑み、ユリウスの手をそっと握り返した。
「……あの、私……何をすればいいですか? 戦うって、最初に思ったけど……でも、こうして手をつないでると、戦いたくないって思うんです……おかしいですよね?」
「おかしくなんてないさ」
ユリウスは首を横に振った。
「戦うことだけが、お前の役目じゃない。お前が、何をしたいか……それをこれから一緒に探そう」
「……うん!」
アルの瞳が嬉しそうに輝く。
その様子を見ていたミリが、唇を尖らせた。
「なんかさ……ちょっと馴染むの早くない? ……というか、兄貴、甘すぎない? こいつ、ゴーレムなんだよ?」
「む、ミリさん……!どうして私のことをゴーレムだなんて言うの?」
アルが目を潤ませてミリを見つめると、ミリは気まずそうに目をそらす。
「だ、だからって、そんな顔しないでよ……! もう……リィナのこと思い出しちゃってさ、複雑なんだよ、こっちは!」
「リィナさん……?」
アルが小首をかしげたとき、リィナの名を聞いても特に反応がないことにセシリアが気づく。
「――やはり、記憶の共有はされていないみたいね。人格構造も違うわ。これは……本当に、“新しい命”なのよ」
ユリウスは黙ってうなずき、そっとアルの頭を撫でた。
「これからよろしくな、アル」
「はいっ、おにいちゃん!」
まるで人間の少女のような返事に、ミリはため息をついた。
「……はあ。いっそ、どこまで“人間らしい”のか、検査してやろうかしら。……ほら、肩幅とか体重とか、データとってさ」
「や、やですぅ~! ミリさん、怖いです~!」
「……もう、完敗だよ。なんなんだこのゴーレムは……」
ミリが頭をかきむしる横で、セシリアは優しく微笑んだ。
「でも、きっと必要になるわ。これからの私たちに……この子の存在が」
ユリウスはその言葉に、静かにうなずく。
――失ったものは戻らない。けれど、新たに得た希望が、未来へと続く道を照らしてくれる。
そして、再び歩き出す覚悟が、胸の内でゆっくりと芽吹いていた。




