第171話 ノルデンシュタイン砦到着
ノルデンシュタイン砦の輪郭が、地平線のかなたに現れた時――ユリウスの胸に、懐かしさと痛みが同時に押し寄せた。
かつては荒野に過ぎなかったこの場所。追放された自分が、ただ生き延びるために選んだ地。
今や高い城壁と整備された門、広がる農地と煙を上げる工房が、ここが一つの“都市”になったことを告げていた。
「……戻ってきたな、兄貴。あたしたちの出発点に」
ミリがしみじみと呟く。
馬上のユリウスは小さくうなずき、目を細めた。
城門が近づくにつれ、人々が集まりはじめる。作業を中断した工房の職人たち、畑から駆けつける農民たち、学校帰りの子どもたちが口々に叫んだ。
「ユリウス様が帰ってきた!」
「セシリア様、ミリ様もご無事で……!」
「ばんざい、ばんざい!」
声援が、喜びが、誇りが砦に満ちていく。
だが――
その歓喜の渦の中、ふと、誰かが尋ねた。
「……あのメイドさんは?」
「リィナ様は、一緒じゃないの?」
ユリウスの胸が締めつけられるように痛んだ。目の前の景色が、かすかに揺らぐ。
いつも隣にいたあの少女。無表情だが健気で、命令以上のことを当然のようにこなしていた存在。
彼女がもう隣にいないという事実は、いまだ現実感を伴って受け入れがたかった。
ユリウスはゆっくりと馬から降り、集まった人々の前に立った。
「……リィナは、戦いで命を落としました」
ざわ……と、空気が凍りつく。
「敵は、強大な敵でした。彼女は僕たちを守るために……最後の瞬間まで、自分の役目を果たしてくれた。僕が命令を下していたなら、きっと彼女は従っただろう。でも……今回は、彼女自身の意志で、僕たちを守ることを選んだ」
誰かが泣き出す声が聞こえた。
子どもたちが肩を震わせ、大人たちは唇を噛み、手を強く握りしめていた。
「そして、その仇が今、ノルデンシュタインの近くに現れようとしています。遺跡を狙って、また何かを仕掛けてくるはずです」
「……俺たちのリィナ様の敵、ってことか?」
ひとりの青年が低く言った。
「手伝わせてください!」
「俺たちも守りたいんだ、この砦を……リィナ様の想いを!」
「見張りなら任せてください! 今度は、あの子の遺した場所を、俺たちが守ります!」
ユリウスは堪えきれず、目頭をぬぐった。
「ありがとう……ありがとう、みんな。僕一人じゃ、ここまで来られなかった。リィナが命を懸けて守ったこの場所を、君たちが守ってくれるなら――これ以上、頼もしいことはないよ」
砦の空は、どこまでも澄みわたっていた。
その青さの下で、誰もが、ひとつの命の意味を、確かに胸に刻んでいた。
ノルデンシュタイン砦の夜は、静かだった。
虫の音が遠くでかすかに響き、夜風が木々を揺らしている。城の中庭から少し外れた屋敷の縁側に、三つの影が並んでいた。
ユリウスは屋敷の壁にもたれ、肩をすぼめるようにして腰を下ろしていた。
その右にミリ、左にセシリア。三人は言葉少なに、ただ夜の帳を見つめていた。
「……この家、まだ人のぬくもりが残ってるね」
ミリがぽつりと呟く。膝を抱えて、薄闇の中でぽつんと座るその横顔は、どこか寂しげだった。
「住民たちが……掃除してくれていたんだって。毎日、一度も欠かさず。ユリウス様が、いつ戻ってきてもいいようにって」
セシリアが、そっと続けた。
ユリウスは天井を仰ぐ。かつて、仲間たちと汗を流し、笑い合い、そしてリィナが静かに立っていた場所。
今は、誰もいない。けれど――誰もが、ここに“想い”を残していた。
「……リィナ、住民たちはずっとこの家を守っていてくれたよ。君も慕われていたんだ」
ユリウスが呟く。
「うん。あいつ、無表情だけど、みんなのことちゃんと見てたもん。鍋が焦げるからって台所に誰も立たせなかったし、泣いてる子どもには無言で焼き菓子配ってた」
ミリが鼻をすすりながら、笑った。
セシリアはユリウスの肩に額を寄せ、囁くように言った。
「リィナが残してくれたもの……人の想い、信頼、繋がり。それが今、こうして形になってるのよね。きっと……彼女は、この未来を見たかったはず」
ユリウスはゆっくりと立ち上がる。夜の闇を見つめ、その奥に、まだ見ぬ敵の姿を思い描く。
「ベルンハルト……そしてヴィオレッタ。あいつらが撒いた狂気が、リィナを奪った。ならば、僕は同じ悲劇を二度と繰り返させない」
声は低く、だが揺るぎなく響いた。
「リィナのためにも、この地のためにも、終わらせる。帝国の狂った部分を、すべて……僕の手で」
ミリがそっとユリウスの手を握る。そのぬくもりに、ユリウスは少しだけ顔を緩めた。
セシリアもまた、静かにその隣に寄り添い、夜の闇に小さく誓った。
「リィナが見守ってくれているわ。私たちは、前に進まなくちゃね」
静かな夜のなか、三人の心は、かつての出発点で新たな決意を燃やしていた。




