第170話 ベルンハルト逃亡
旧律派の最大拠点の一つとされる修道院跡。その地下深くに築かれた、聖堂を模したアジトが、今まさに特務部隊の急襲を受けていた。
「――制圧完了!」
黒の外套に身を包んだディルク・バルネートは、煙の残る空間を鋭く見渡す。
端整な顔立ちに冷えた瞳。だがその胸には、明確な怒りが宿っていた。
「ベルンハルト枢機卿は……?」
「見当たりません。奥の部屋に、それらしき私物はありましたが……逃げたようです」
部下の報告に、ディルクは舌打ちした。
「また後手か……」
だが、運はまだ尽きていなかった。
地下の独房に押し込められていた信者の一人が、命乞いの中で口を滑らせたのだ。
> 「あ、あの御方は……“ノルデンシュタイン”に……。古の遺跡が……そこに……!」
ディルクの目が鋭く見開かれる。
「ノルデンシュタイン……!」
背中の通信機に手を伸ばし、魔導回路に魔素を流し込む。
「こちらバルネート。ユリウス閣下に至急通話を」
雑音の先に、間もなく聞き慣れた声が届く。
『どうした、ディルク』
「ベルンハルトは逃げました。しかし、信者の一人が“ノルデンシュタイン砦付近の遺跡”に向かったと証言しました。やつはそこに次の“何か”を求めている可能性が高い」
魔導通信の向こうで、しばし沈黙があった。
やがて、低く、決然とした声が返ってくる。
『……わかった。俺が行く』
「閣下……!」
『俺がケリをつける。リィナのために』
通話が切れた瞬間、ディルクは静かに頭を下げた。
「ご武運を――ユリウス閣下」
ヴァルトハイン城の執務室。地図の前で立ち尽くすユリウスの肩に、かすかな緊張が走る。
通信が切れた後も、室内には沈黙が残された。
「……また、あそこか」
ユリウスが静かに呟いた。
ノルデンシュタイン――リィナと出会い、砦を築き、夢を描いた原点。
「俺が行く。……今度こそ、決着をつける」
背を向けかけたユリウスに、毅然とした声が追いかけた。
「私も行くわ」
セシリアだった。いつものローブ姿のまま、真っすぐにユリウスを見つめていた。
「古代遺跡の解析が必要になるはずよ。ARTEMISシリーズの知識は、私が一番持っている。……それに、あの子のそばに、私もいたいの」
その目に宿るのは、魔導士としての確信ではなく、友としての情。
「兄貴、もちろんあたしも行くよ!」
工具を腰に差したまま駆け寄ってきたミリが、拳をぐっと握る。
「あの鉄塊――ヘカテーがどこから来たのか、確かめてやらなきゃ気が済まないし、リィナの姉妹のことも……ちゃんと見届けたい」
一瞬、声がかすれた。だが、ミリは拳を胸に当てて、言い切った。
「それが、あいつにしてやれる最後の義理だろ」
ユリウスは、二人の姿を見て、しばし言葉を失った。
彼だけではない。
彼女たちも、同じ想いを胸に抱いていたのだ。
「……ありがとう。二人とも。来てくれて、助かる」
やがてユリウスは地図の端に視線を落とし、指先でノルデンシュタインの文字をなぞった。
「リィナ……今度は、もう誰も失わない。例えその影に、ヴィオレッタが潜んでいようと――必ず」
その声には、鋼のような決意が込められていた。
すぐにアテナの出撃準備が命じられ、城は慌ただしく動き始めた。
セシリアは魔導測定具を整えに。ミリはドワーフ技師たちを呼び、簡易整備班の編成を始める。
そんな彼らの背中に、初夏の風が吹き抜けた。
かつて荒野だったノルデンシュタイン。
そこで燃え上がった、希望という名の火は――
今、再びユリウスたちを導こうとしていた。




