第163話 悲痛
瓦礫と火花の散る戦場に、ひときわ細い影が走り出す。破損した右腕を引きずりながら、リィナはヘカテーに向かってまっすぐに進んでいた。
「また無駄なことを」
冷たい声が平原に響く。ヘカテーの唇がわずかに吊り上がる。
「死にに来たのですか、姉様?」
その瞬間、ヘカテーの拳が唸りを上げて放たれた。黒い流星のようなその一撃が、寸分違わずリィナの胸を貫く。
「――っ!」
リィナの体が小さく揺れた。だが、崩れ落ちることはない。代わりに、残された左腕がぎゅっと伸び――。
ガシィッ。
彼女は、自らの胸を貫いたヘカテーの腕を、逃がすまいとしっかりと掴んでいた。
「え……?」
ヘカテーの目に、初めて動揺の色が浮かぶ。
「あなたは、強い。だけど……心が、ない」
リィナは微笑んだ。薄く、優しく、そして決然と。
「だから、せめて、これだけは……私の意志で終わらせます」
彼女の胸元で、かすかに赤い光が脈打ち始める。それはゆっくりと、だが確実に熱を帯び――。
「何を……して……!」
「さようなら、妹……」
次の瞬間、まばゆい閃光と轟音が戦場を包み込んだ。
リィナのコアが暴走し、彼女自身を中心に爆発が起きた。炎と光の中、ヘカテーの姿も飲み込まれていく。
空は真っ赤に染まり、衝撃波が辺りの兵士たちを吹き飛ばした。
そして――静寂。
轟音とともに巻き起こった爆炎が、ようやく風にあおられて静まりはじめた。
焼け焦げた地面と立ち上る煙の中、まだ動けるプレゴンの一両が砲身を上げていた。
「……撃て。やつらを退かせる」
ヴァルトハイン軍の軍務長リルケットは、感情を抑えた声で命じた。
リィナの最後を目の当たりにした男の表情は、どこか遠いものを見ているようだった。
プレゴンが火を噴く。衝撃音とともに敵陣の残存戦力に砲撃が降り注ぎ、ついに東部軍の戦意を打ち砕いた。
東部軍の司令官、ルーデル伯爵は、自身のスキル〈鋼覇〉で砲撃を辛うじて防いでいたが、リィナの爆発と続く集中砲火によって、兵の士気は限界を迎えていた。
「……あれが切り札だったのか……。ならば、これ以上の消耗は無意味だ」
ルーデルは天を仰ぎ、悔しげに息を吐いた。
「全軍、撤退せよ!」
兵たちに撤退命令を下すと、彼は爆心地に目を向けた。そこに立っていたはずの、観戦武官ヴィオレッタの姿は、いつの間にか掻き消えていた。
「……姿を消したか。まさか、あれすらも駒……?」
しかし追う術も、問いただす時間も、もう彼には残されていなかった。
そして――
アテナのハッチが軋むように開き、ユリウスが現れた。
その手には何もない。ただ、膝をつき、うつむいたまま、立ち尽くす彼の肩が小さく震えていた。
「ユリウス!」
駆けつけたセシリアが彼を抱きしめ、ミリがその隣に立つ。
「……リィナは……リィナは、もう……。帰ったらパンを焼くんじゃなかったのかよ……」
震える声に、誰も何も返せなかった。
ただ、燃え尽きた戦場の空に、リィナという名のゴーレムが遺した命の熱だけが、確かに残っていた。
ルーデル伯爵の軍勢が撤退し、戦場に再び静寂が戻った頃。
指揮所へと戻ったユリウスのもとに、リルケットが報告に現れた。
「……パワードスーツ部隊、四十三機中二十四機が破壊。プレゴンも三両が撃破されました。……損害は、決して小さくありません」
重い沈黙が降りた。
ユリウスは何も答えず、ただ戦略机の上に広げられた地図をぼんやりと見下ろしていた。
やがて、小さくつぶやく。
「……天幕で休ませてくれ」
そのまま、重い足取りで戦略室を出る。傍らには、セシリアとミリが無言のまま付き従った。
天幕。焚き火の赤い明かりが、三人の影をゆらゆらと揺らしていた。
空気はひどく重かった。誰もが言葉を探していたが、最初に沈黙を破ったのはミリだった。
「……あたし、あいつにパンの作り方、教わってたんだよ」
かすれた声だった。
「材料の選び方とか、火加減とか。自分で焼けるくせに、わざわざ教えてくれてさ。あたしが“兄貴”に、美味しいパンを焼けるようにって……」
ミリの肩が震える。
「バカだよ……なんで、なんで死んじまったんだよ……!」
セシリアも、そっと唇を開いた。
「……わたし、彼女に……気づかってもらったことがあるの」
彼女の目元にも、静かに涙が浮かぶ。
「ノルデンシュタイン砦を去ろうと悩んでいた頃。誰にも打ちあけられなくて……ひとりで食事してたとき……何も言わずに、隣に座ってくれて……スープを、よそってくれたの」
セシリアは唇をかみしめる。
「あのとき、ただそれだけのことだったけど……すごく……救われた気がしたの。無表情で、無口で、それでも……あたたかかった」
ユリウスは、焚き火の炎をじっと見つめたまま語る。
「彼女がパン工房を修理した日があった」
二人がユリウスに目を向ける。
「“これでまたパンが焼けますね”って……あんな小さな笑顔だったのに……あれが、初めて見せてくれた、ほんとうの彼女の顔だった」
膝の上に涙が落ちても、ユリウスは拭おうとしなかった。
「……もっと、話したかった。もっと、伝えたかった……のに」
三人は沈黙のまま肩を寄せ合い、天幕の中でただ、彼女のいない空白を抱えて泣いた。
外では、焚き火がぱちぱちと小さくはぜる音だけが響いていた。




