第157話 鍵
薄暗い石造りの礼拝堂。蝋燭の光に照らされ、壁に刻まれた旧い文字が揺れていた。
「……失敗、ですか」
低くくぐもった声で呟いたのは、黒衣を纏った男――枢機卿ベルンハルト。祭壇の前で跪く伝令の報告に、男は眉一つ動かさなかった。
「シルヴァーナは死にました。神体の確保には……失敗を」
「そうか」
一拍の沈黙。ベルンハルトの声には怒気も焦りもなかった。ただ、冷たく澄んだ水面のように静かだった。
その場に現れたのは、濃紫の礼服を纏った女――ヴィオレッタである。黒髪を緩くまとめ、唇には微笑を浮かべている。
「まあ、あの子にしてはよくやったわ。命を賭けて夢を見た。悪くない最期じゃない?」
嬉しそうなヴィオレッタの表情に、ベルンハルトの目つきが険しくなる。
「あら、怖い」
ヴィオレッタはおどけて見せた。
「戯言はそこまでに。次の段階へ移る」
ベルンハルトはヴィオレッタの相手をすることはせず、自分の話を進める。
「ええ。……代わりはいる、でしょう?」
「すでに次の候補地は絞ってある。いくつかの遺跡……その中のひとつに、より適した“鍵”が眠っている。そちらに手を伸ばす」
旧律派が手に入れたアルケストラ帝国時代の遺跡。そこにある”鍵”がベルンハルトの目的であった。
当然、ヴィオレッタもそのことを知っている。
旧律派を再び歴史の表舞台に押し戻せる力を持った”鍵”。ヴィオレッタはそれに思いをはせる。
「ふふ。愉しみね。今度こそ、あの少女以上の――」
ヴィオレッタは口元に指をあて、そこで言葉を止めた。目だけが妖しく輝いていた。
「……混乱の焔は、もう止まらないわ。ゆっくりと、確実に、全てを焼き尽くすのよ。そうよね、枢機卿?」
「我々は“秩序の回復”を望んでいるだけだ。旧き律法に従い、正しき姿へと世界を戻す……そのための“器”が必要なのだ」
蝋燭の火が、揺れた。
ベルンハルトは静かに立ち上がり、ローブの裾を翻して礼拝堂を後にする。
その背中を見送りながら、ヴィオレッタは一人ごちた。
「“彼女”が目覚めれば、すべてが変わる……」
闇の中に囁くように残されたその言葉だけが、意味深く、空間に漂っていた。




