第153話 旧律派シルヴァーナ
暗がりに包まれた礼拝堂の奥。古代様式の大理石に囲まれたその祭壇には、天使の彫像ではなく、仮面を被った枢機卿が座していた。
「……シルヴァーナ」
声は静かでありながら、空間の空気を重く染め上げるほどの威圧を伴っていた。
「――参りました」
黒衣に身を包んだシルヴァーナが跪く。銀糸のような髪が揺れ、感情のない灰色の瞳が、仮面の男を見上げることなく床を見つめている。
「ヴァルトハインに、“聖遺物”が現れた」
その言葉に、シルヴァーナの指先が微かに震えた。
「……生きて……いるのですか」
「生きている。かのアルケストラの末裔か、それに準ずる古代技術によってな。しかも……自由意志を持つ、完全自律型だと聞く」
シルヴァーナの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。
「――では、それはまさしく、神の娘……」
「そうだ。汚れた手に落ちた聖遺物を、このまま放置することは教義に反する」
「……ご命令を」
「回収しろ」
ベルンハルトは手をかざすと、祭壇の脇に置かれた古い箱がゆっくりと開いた。
中には、複雑な機構を内包した銀の小瓶と、黒い刻印が刻まれた金属製の杖が納められている。
「マグヌス・スモーク――アルケストラ帝国時代に“神体”を鎮めるため用いられた神気霧だ」
「……お借りします」
「忘れるな、シルヴァーナ。あれは回収するのであって、破壊してはならぬ。決して」
「承知しております。神の娘に傷など、恐れ多くて……」
彼女はうっとりとした顔で銀の瓶を胸に抱くと、淡く微笑んだ――まるで、それが恋人から贈られた指輪であるかのように。
「それと」
ベルンハルトは仮面の奥で、笑った気配を放った。
「“魂の穢れ”は慎重に削ぎ落とせ。穢れを纏っているなら、洗い落とすまでだ。人格も記憶も……必要ならばな」
「――はい」
シルヴァーナは静かに立ち上がり、銀の瓶と杖を風呂敷のような布に丁寧に包むと、背に背負った。
「私が、その娘を正しい御座へと導きます」
「頼んだぞ、巡礼の刃よ。聖遺物に、正しき帰属を与えるのだ」
音もなく扉が閉まる。
シルヴァーナの足音は礼拝堂から消え、代わりに不穏な空気が、聖域を満たしていた。
シルヴァーナ――旧律派の異端なる刺客。 彼女はヴァルトハインの公都に来ていた。
かつてアルケストラ帝国の神権体制のもとで栄えた〈旧律〉――神と技術の調和を掲げる教義に基づき、生体錬金術やゴーレム技術を神聖視する集団は、帝国の崩壊と共に地下へ潜った。
現代ではすでに異端視され、帝国の新秩序においては禁忌とされた彼ら。だが、信仰は地下でなお息づいていた。
そして今、彼らは再び〈神造兵器〉を手中に収め、世界の再構築を目論んでいる。
――その象徴が、〈リィナ〉だった。
「生きていた……奇跡が、現実に……」
かつての帝国が誇った神造兵器。その姿がヴァルトハインの砦で目撃されたと聞いた時、彼女は歓喜のあまり震えた。
シルヴァーナは黒い外套を翻し、斜面に伏せる。眼下には整然とした街区と、幾つかの警備哨が見える。
鋭い眼差しが砦の構造を読み取る。
「この規模……本当に、“あのスキル”で築かれたのか……。異端の技術。けれど、〈彼女〉がいるなら、すべて許される」
懐から取り出したのは、細長い水晶の筒。帝国遺跡から回収された“ガス”を密閉したものだ。生体ゴーレムの中枢機能を一時的に停止させる――かつて旧律派が制御用に開発していたもの。
「あなたを……あの穢れた者どもから解放してみせます。どうか、私のもとへ……」
その声音は、崇拝を通り越して、ほのかな陶酔すら滲ませていた。
月明かりの下、シルヴァーナは音もなく城壁を乗り越え、ヴァルトハイン城の外縁部へと侵入する。
彼女の気配に、近くの見張り兵が一瞬眉をひそめたが――気のせいかと首を振り、視線を戻す。
すでに、銀の影は闇に紛れていた。




