第151話 対ヴァルトハイン同盟
『対ヴァルトハイン同盟 第一回会合』
帝国東部、かつて商都として名を馳せたミュルダウ。その街の外れにある老朽化した貴族の館が、臨時の会合所として選ばれていた。
大理石の床には埃が積もり、壁の装飾も剥げかけている。それでも、この地に集った十数名の東部貴族たちの顔には、焦燥と苛立ちの色が濃く刻まれていた。
「……我らの民が逃げ出しているのだ。農奴も商人も、こぞって西へ向かっている。ノルデンシュタインだとかいう荒野の砦に」
低く静かな声が、円卓の端から発せられる。
発言者はアーデルハイト侯爵。灰髪に鋭い眼差しを持つ老侯爵は、沈痛な面持ちで周囲を見回した。
「これはただの一勢力の拡大ではない。秩序への反逆だ。異種族と手を取り合い、ドワーフの王族との婚約を謳い、人間社会を根底から揺るがしている。我らが動かねば、東部は、いや帝国は瓦解する」
「では、戦をお望みか?」
眉をひそめる男爵。
「……戦ではない。我らは“対ヴァルトハイン同盟”を結成し、まずは防衛線を確立する。そして外交的に彼の勢力を抑え、必要ならば、力も用いる」
そのとき、侯爵の隣に立っていた黒衣の女性が一歩前に出た。
年の頃、二十代半ば。銀糸のような長髪をひとつに結い上げ、肌は透けるように白い。深紅の瞳が薄闇の中で妖しく光る。
「アーデルハイト侯爵に仕える、ヴィオレッタと申します」
端正な口調だが、どこか余裕と嘲りを孕んだ声音。
その異様な雰囲気に、貴族のひとりが思わず囁いた。
「若い女が……これは貴族ではあるまい。何者だ?」
「噂では、諜報や心理戦を得意とする密偵上がりらしい。侯爵に見出されたという話だ」
「それにしても、異様な風貌だ。まるで皇族の……いや、まさかね」
視線を集めるヴィオレッタは、それを楽しむかのように唇の端をわずかに吊り上げた。
「このままでは、民は“理想”に流れます。幻想でも、希望を見せてくれる者のもとに集う。それが統治者の“本懐”を偽善だと切り捨てる時代の兆しなのです。対抗したいのなら、徹底的に“現実”を見せて差し上げなければなりません」
その言葉に、会場は一瞬しんと静まりかえった。
アーデルハイト侯はゆるりと頷く。
「我らが一致せねば、全てを持って行かれる。我らは対ヴァルトハイン同盟をここに結成し、必要な策を講じる」
誰も反論する者はいなかった。
東部の地に、小さな火が灯った。
それはやがて、大地を割る炎へと変わっていくことになる。
「……では、ひとつご提案を」
静寂を切り裂くように、ヴィオレッタが口を開いた。灰色の目が、会議室に並ぶ貴族たちの顔を見渡す。
「ヴァルトハインに向かった者たちは、皆“共存”という耳触りの良い言葉に騙され、結局は奴隷として扱われている。そんな噂を流してみてはいかがでしょう?」
ざわめきが走った。疑念と同意の間で揺れるような視線が飛び交う。
「確たる証拠は?」
と、ある貴族が警戒心を込めて問う。
「噂に証拠は必要ありません。“らしい”で十分。人は希望よりも不安に動かされるもの。人間と亜人の共存など、うまくいくはずがないと、私たちはよく知っているでしょう?」
何人かの貴族が大きく頷いた。
「では次に。噂だけでは足りません。向こうはすでに、農業機械とやらを開発しているという話もあります。兵力の差が広がる一方であれば、我々はやがて吸収されるだけ。そうなる前に、こちらも新たな兵器を――魔導と錬金術の粋を集めた、対ヴァルトハイン用の兵器を開発するべきです。そのために、資金を出し合いましょう」
提案の熱に反し、部屋の温度は下がったように感じられた。
「……開発した兵器を、今度はあんたが我々に向けることはないと、どうして信じられる?」
「この状況で、資金を出せと言われてもな。どこが裏切るかわからん連中相手に、そんな投資はできん」
「そもそも、噂を流すだけで充分では? 我々は名分が欲しいのであって、戦を起こしたいわけではない」
冷ややかな反応に、ヴィオレッタはわずかに目を細めた。
(やはり、烏合の衆……だが、それでいい。疑い合い、牽制し合っていれば、私が主導権を握る余地がある)
「わかりました。ではまずは噂を――。ヴァルトハインに渡った者たちは、飢えを逃れて南部に行ったものの結局奴隷に落ちた、と。そこから始めましょう」
静かに会議は終わりを迎えた。残る者の目に、燃えるような野心の光を宿していたのは、ただ一人――ヴィオレッタだった。




