第145話 閨の記録
しばしの沈黙ののち、セシリアが立ち上がった。
「ここで一つ、提案があります」
視線をユリウスとミリに向けながら、彼女は静かに、しかし強く語る。
「ミリがドワーフ王族の末裔であると公式に発表し、それと同時に……ユリウスとの婚約も発表しましょう」
その言葉に、室内の空気がぴたりと止まった。
「えっ……?」
ミリは目を見開き、まるで時間が止まったかのように固まった。
セシリアは真剣な表情のまま言葉を続ける。
「外に向けて私たちが掲げる“種族共存”の理想が、ただの綺麗事ではないことを示すためです。貴族たちにも、民たちにも、それを信じてもらう必要があります。かつてドワーフ王国を滅ぼしたこの帝国が、その王族を迎え、共に歩むという象徴。それこそが、最大の宣言となるはずです」
ユリウスが一瞬、言葉を失い、ミリを見た。
ミリも目を泳がせながら、ユリウスをちらりと見返し――
ぶわっ、と顔が真っ赤に染まった。
「こ、婚約って、兄貴と!? わ、私が!?」
困惑と恥じらいで混乱しながら、ソファの上で挙動不審に身をくねらせるミリ。
ユリウスも頬をかすかに染め、咳払いしてから口を開いた。
「……ええと、僕は、その……嫌じゃない、けど」
「~~~~っ!」
ミリは勢いよくうつむき、両手で顔を覆ってしまう。
沈黙。セシリアは何かを言いかけて、しかし何も言えず、そっと視線をそらした。
「……やっぱり、やり過ぎたかも」
自分の提案が場にとんでもない空気を生んでしまったことに気づいたらしい。
その空気をあえて読まないのがリィナだった。
「では、閨の記録係は私が――」
「な、なに言ってるんだよーっ!?」
ミリは顔から湯気を出さんばかりに叫び、ソファを飛び越えてリィナに突撃する。
「記録って、なに記録するつもりなんだ!? そんなの、そんなの、兄貴が困るでしょ!!」
「いえ、私はただ、お子様が生まれた場合に継承権があるのかを判断するため、正確な交わりの記録を。――」
「正確じゃなくていいからあああああっ!!」
セシリアはこめかみに手を当て、困ったように目を伏せ、ユリウスはただ天を仰いだ。
セシリアは小さく咳払いし、微笑を浮かべて言った。
「……ふたりで、よく話し合ってね」
そう言うと、リィナの腕を強引に取り、返事も待たずにずるずると扉の方へ。
「え、あれ? ちょ、まだ記録が――」
「リィナ、黙って」
きっちりと扉が閉まると、室内にはユリウスとミリだけが残された。
沈黙。
だが、それはほんの数秒だった。
「え、えっと……婚約って、すごい話になっちゃったね」
ミリが頬を赤く染めながら、目をそらして口にする。
「うん……でも、悪い気はしない」
ユリウスがそう応じると、ミリは驚いたように彼の顔を見つめた。
「ほんと?」
「ミリが僕の隣にいてくれるなら、僕はどんな肩書きでも悪くないと思えるよ」
「な、なによそれ……ずるいじゃん……」
ミリはふにゃっと笑い、潤んだ瞳をユリウスに向ける。そのまま、そっと彼の胸元に額を預けた。
「でも、覚悟してよね。王族の婚約者ってことは……いろいろ大変なんだから」
「うん、わかってる。けど、それ以上に嬉しいこともあるだろ?」
「……たとえば?」
ユリウスは少し照れた顔で、ミリの手を取り、指を絡める。
「こうして、ちゃんと隣にいられること」
「~~~~! ばか……!」
ミリはユリウスの肩に顔を押しつけて、耳まで真っ赤に染めていた。
一方、扉の外では。
重たい扉が静かに閉じられ、セシリアとリィナの足音だけが廊下に響いた。
「ふふ、ずいぶんお幸せそうでしたね。記録係の役目、まだ――」
「もう黙ってて」
リィナの口を塞ぎながら、セシリアは足を止めてふと呟いた。
「……結婚じゃなくて、婚約で止めたのは……手続きが大変だから、ってだけなのよ」
小さく笑ったが、その瞳はどこか寂しげだった。
「……先、越されちゃったな」
ぽつりと漏らしたその声は、誰にも聞こえないほど小さく、廊下の石壁に吸い込まれていった。




