第143話 政治利用
東部亜人自治区・寒村の焚き火の夜
風は冷たく、骨まで染みる。日が落ちてからの東部の夜は、あらゆる暖を奪っていった。
崩れかけた煉瓦の建物。藁にまみれた簡素な天幕。その下で、亜人たちが身を寄せていた。
獣人の少年は布の切れ端で震える妹を包み、角の欠けた魔族の老人は空っぽの鍋を掻き回す。
食糧配給は貴族の気まぐれで左右され、冬を越せる保証はない。働いても報酬は人間の半分以下。理由は「人間ではないから」。
罵声。鞭打ち。奴隷印を押された者もいる。かつて名工だったドワーフでさえ、今や農具すら作らせてもらえない。
だが、それでも彼らは死なない。生きねば、語り継がれないからだ。
そんな中、一人の老エルフが静かに口を開いた。深く刻まれた皺が焚き火の光に照らされる。
> 「昔、アルケストラという帝国があった。ドワーフが炉を築き、エルフが回路を描き、人の子が街を繋げた――。
> 種も血も関係なく、知恵と技術で肩を並べていた、そんな国だった。
> ……もう一度、ああいう国に住んでみたい。今度こそ、滅びない国に……」
その場にいた者たちは誰も言葉を返さなかった。ただ、炎の揺らぎが、消えかけた希望のように彼らの瞳に映っていた。
――――
ユリウスは机の上に地図を広げ、その周囲に立てられた幾本もの小旗をじっと見つめていた。
赤い旗は敵勢力、青は同盟、そして灰色は未だ中立を保つ東部の貴族たち。
その中に、ミリが巻き込まれるかもしれない未来が描かれていた。
「ミリを使うのは、卑怯だと思うか?」
不意にそう問うた彼の声に、窓辺で本を閉じていたセシリアが顔を上げた。いつものように冷静なまなざし。
だが、その奥にはかすかな揺れがあった。
「彼女の血筋は、たしかに東部の偏見を崩す切り札になるわ。技術と種族の共存を掲げるなら、象徴が必要よ。けれど……」
「けれど?」
「あなたがそれを『利用する』と感じてしまうなら、やめるべきね。たとえ、それが正しくても。」
ユリウスは、こめかみを指で押さえた。
「ミリを巻き込みたくない。僕の戦いは、彼女の復讐じゃない。彼女の幸せを人質にして、何が秩序の回復だ……」
「……彼女が、あなたの決断に怒るとでも?」
「いや。きっと笑って許すだろう。けど、だからこそ怖いんだ。彼女は、自分を犠牲にするのが当たり前だと思ってる」
そのときだった。開け放たれた扉の向こうから、ふいに声がした。
「……当たり前なんかじゃ、ないのに」
セシリアとユリウスが振り向くと、そこにはミリが立っていた。彼女の表情は、泣きそうで、それでも笑おうとしていた。
「ごめん。聞くつもりなかったんだけど……でも、聞いちゃった」
ユリウスが何か言おうとする前に、ミリは先に続けた。
「兄貴が悩んでるの、わかってるよ。でも、私は――」
ミリはそっと顔を上げ、真っ直ぐにユリウスを見つめた。
「でも、聞こえちゃったんだ。あたしのこと、東部との駆け引きに使うかもしれないって」
その声には怒りも戸惑いもなかった。むしろ、どこか覚悟を決めた強さがあった。
「兄貴……あたし、わかるよ。東の亜人たちが、どれだけ苦しい思いをしてるか。痛いほど、わかる」
彼女の指先はわずかに震えていた。かつて奴隷として扱われ、心に刻まれた傷は、まだ癒えていない。
「だったら、あたしを使って。王族の末裔だとか、なんだとか……どうだっていい。あたしは、兄貴の作る世界が見たい。種族も出自も関係なく、笑って働ける場所。だから……あたしに、できることをさせてほしい」
ユリウスは言葉を失った。
その小さな体に、どれだけの痛みと覚悟が詰まっているのか。彼はただ、彼女のまっすぐな瞳に見入るしかなかった。
気づけば、セシリアもそっと立ち上がり、部屋を後にしていた。
ふたりきりの空間に残った沈黙の中、ユリウスはようやく言葉を絞り出す。
「……ありがとう、ミリ。本当に、ありがとう」
彼は歩み寄ると、そっとミリの肩に手を置いた。
その手の温もりに、ミリは小さく笑い、静かに頷いた。




