第142話 ヴィオレッタの影
帝国東部、アーデルハイト侯領。
そこは本来、文化と学問の中心地として知られていたはずだった。
だが、最近では異様な思想が貴族や官僚の間で囁かれている。
《混沌こそが再生を生む》
《血は血で贖われねばならぬ》
《法も秩序も、塵に還せ》
その奇怪な思想の根源に、ひとりの女の影があった。
──ヴィオレッタ。
「……アーデルハイト侯爵、彼はヴィオレッタと通じているのか」
ヴァルトハイン城の書斎で報告を受けたユリウスは、地図の上に駒を置いた。
それはアーデルハイト侯領、帝国の東部に位置する知の都を指していた。
「シャドウウィーバからの報告だ。彼の地に“混沌”を口にする人々が流れ込んでいる。奴らの背後にヴィオレッタがいると見て、間違いない」
リィナが静かに頷き、
「危ない人……ですね」
とつぶやいた。
「次は東だ。放っておけばヴィオレッタの力が増す。だから、アーデルハイトを討つ」
ユリウスは決意を口にする。
それは、新たな戦いの始まりを告げる一言でもあった。
そして、さらに数日後、ヴィオレッタの足取りを掴んだとの報告がある。
ユリウスが書類に目を通していたところに、シャドウウィーバの一員が静かに姿を現した。黒ずくめの衣服に身を包んだ影は、礼を取ってから報告する。
「アーデルハイト侯爵領内、マールブルクの旧修道院跡地にて、ヴィオレッタの一行と見られる痕跡を確認しました。複数の召使い風の足取り、馬車の轍。旧律派関係者とも接触した形跡あり」
その名を聞いた瞬間、セシリアの体がわずかに強張った。彼女は視線を伏せ、唇をきゅっと噛みしめる。
それを見たユリウスは、無意識にペンを置き、彼女の方へと歩み寄った。
「……辛いのなら、無理はしなくていい。彼女と対峙するのは、君にとってただの政敵との戦いとは違うだろう?」
セシリアは目を伏せたまま、そっと首を横に振る。
「覚悟は、ずっと前に決めてあるわ。でも……やっぱり、まだ心が追いつかないだけ……。あの人は……お姉様なのだから」
ユリウスは彼女の傍らに立ち、何も言わずにそっと手を添える。セシリアが自分を保つために噛んだ唇から、わずかに血がにじんでいた。
沈黙のなかに、戦いの足音が迫っていた。
報告を聞いたセシリアは、静かにうつむいていた顔を上げ、口を開いた。
「……それにしても、旧律派とはね」
彼女の言葉に、場に緊張が走る。
「旧律派?」
とミリが眉をひそめる。
答えたのはリルケットだった。
「旧律派教団。“正統神義会”とも呼ばれ、かつて帝国中枢にまで影響を及ぼしていた組織です。人間こそが神に選ばれた唯一の種族とし、他の種族や人工的な生命体、魔導的存在を排除しようとしていました」
「……つまり、人間至上主義の教団ね」とセシリアが言った。
「はい。しかし、過激思想と腐敗により、二十年前に教義対立の末に解体されました。表向きには、ですが」
リルケットの語調には、確信と警戒が混じっていた。
セシリアが静かに目を細める。
「彼らが今、再び動いている……しかも、ヴィオレッタと関係を持っているとなれば、ただの復古ではすまないわ」
リィナが小さく息を飲む。
「何を……しようとしているんですか?」
リルケットは、ふと口をつぐんだ。
「……古代の遺跡を探しているようです。帝国が禁じたはずの、アルケストラ時代の遺産を。どこまで本気かは不明ですが、彼らの“理想”の再現に必要なものらしい」
曖昧な答えではあったが、そこにはどこかしら含みがあった。
セシリアは少しだけ視線を逸らすようにして言う。
「いずれにせよ、放置はできないわね。東部の混乱が彼らの活動を許しているのなら……私たちが秩序を取り戻さなければ」
ユリウスは頷いたが、その視線の先――リィナは、どこか遠くを見るような目をしていた。




