第138話 遅れてきた手紙
ヴァルトハイン城を包む夕焼けは、不吉なほど赤かった。
ユリウス軍が北門へと差し掛かったそのとき、既に城内は騒然としていた。
暴徒たちが市街から押し寄せ、ライナルトの死を知った民の一部が略奪に走ったのだ。
「急げ!」
ユリウスはアテナの装甲を軋ませて駆け抜ける。
だが、間に合わなかった。
城門は半ば焼け落ち、武装を整えていない民兵や盗賊まがいの連中が、まるで飢えた獣のように城内を暴れ回っていた。
かろうじて残っていた守備隊が必死に応戦していたが、既に手遅れだった。
玉座の間へと続く階段の途中、血塗れの侍女が座り込んでいた。
マルティナである。
彼女はユリウスの姿を認めると、目に涙を浮かべてかすかに微笑んだ。
「……遅うございましたな、ユリウス様……」
その声は、絶望と諦めと怒りをすべて呑み込んだ、かすれた呟きだった。
ユリウスは言葉もなく、駆け上がる。
城の奥、かつての姫君の私室。
扉を開けた先にあったのは、静寂だった。
ベッドに身を横たえたエリザベートの唇は、かすかに紫がかっていた。
窓から吹き込む風に、紅い髪がさらりと揺れる。
その顔は――穏やかだった。
その枕元に、ひとつの小瓶が転がっていた。
毒の痕跡。
「……なんで……」
ユリウスはその場に膝をつき、唇を噛んだ。
震える手で、彼女の手を握る。
「間に合ったはずだ……あと少しだったんだ……!」
叫びは届かない。
彼女の耳には、もう何も――届かない。
「……エリザベート……!」
その名を呼ぶと、ユリウスは押し殺していた嗚咽を吐き出した。
声にならない咆哮が、崩れ落ちるように部屋に響いた。
後に続いて入ってきたセシリアとミリ、そしてリルケットは、何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
風が、部屋を通り抜ける。
それは、まるで彼女の魂が城を去っていくかのように――優しく、そして哀しかった。
ヴァルトハイン城にもうけた仮の指揮所にいるユリウスは、そこでで報告を受けていた。戦後の混乱はようやく収束し、遅れていた補給と統治体制の整備が進んでいる――そんな中、砦の門に一人の兵が現れた。
「ユリウス殿……いえ、閣下にお伝えしたきことがございます」
その兵士は、エリザベートの従者だった。疲れ切った面持ちで膝をつき、丁寧に包まれた一通の封筒を差し出す。
「エリザベート様から、閣下へ……最期に託されたものです」
ユリウスは目を見開き、震える手で封を解いた。
やや潤んだインクが紙面ににじんでいた。そこには、彼女らしい、柔らかな筆致の文字が並んでいた。
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> ユリウス様へ
>
> この手紙が届くころには、私はもうこの世にはいないのでしょう。
>
> 貴方に伝えたいことがたくさんあります。
> でも、いちばん伝えたかったのは――ずっと、ずっと好きでした。
>
> 貴方が私の婚約者だったころのこと、今でも夢に見ます。
> 貴方が優しかったから、私もあの頃、誇りを持って生きていました。
>
> ライナルト様は、変わろうとしていました。貴方に敗れたことで、本当は――
> 少しだけ、優しかったあの頃のライナルト様に戻りかけていたのです。
>
> けれど、現れたのです。あの女が。
> 「ヴィオレッタ」……
> あの女のせいで、全てが壊れました。
>
> 私には、貴方に何かを頼む資格などありません。
> でも……それでも、お願いします。
>
> あの女を、討ってください。
>
> 私の代わりに、貴方だけができることだから。
>
> 最期まで、貴方を愛していました。
> エリザベート・フォン・ヴァルトハイン
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手紙を読み終えたユリウスは、声も出さずその場に立ち尽くした。手が震え、視界が滲む。
後ろにいたセシリアが、黙って肩に手を置く。
「……ヴィオレッタ、と書かれていましたね?」
彼女の声は震えていた。ユリウスがゆっくりと頷くと、セシリアの顔色が見る間に青ざめていく。
「まさか……どうして、あの人が……」
唇を噛みしめ、ローブの袖の下で手を強く握りしめるセシリア。
ユリウスは問いかけるように彼女を見るが、セシリアは答えず、目を伏せたまま沈黙を守っていた。
セシリアは俯いたまま、長い沈黙を守っていた。
ユリウスはただその隣で、彼女が言葉を紡ぐのを待ち続ける。
やがて、震える声が夜気のなかにこぼれた。
「……ヴィオレッタは、私の姉です。異母の、姉……」
ユリウスが小さく目を見開いた。
だが、言葉は挟まなかった。ただ彼女の視線を受け止める。
セシリアは静かに続けた。
「正確には……姉と呼ぶのもおこがましいほど、私とは違う存在です。彼女は……幼い頃から天才でした。私なんかとは比べものにならないほどの……魔導と学術の天才」
唇を噛みしめるように、彼女は声を詰まらせた。
「でも……その才能は、誰かのために使われることはなかった。彼女は、他人が壊れていくのを見ることに……快楽を覚えるような、そんな人だった」
ユリウスの眉がかすかに寄る。
「私は……それを恐れていました。ずっと。皇族として、姉を見上げながら……一方で、あの人が何をするか分からないという恐怖を抱えていた」
セシリアの指先が震え、ローブの袖をきつく握りしめた。
「私の研究成果を、勝手に改竄して、帝都で爆発事故を起こしたこともあります。その罪は、全部、私がかぶらされました……。それが“あの人”のやり方なんです」
ユリウスは思わず拳を握った。だが、セシリアの口調は恨みよりも哀しみを帯びていた。
「……それでも、どこかで……姉も変わってくれるかもしれないって……思ってました。だけど……ライナルト閣下を、ああしてまで追い詰めたのが姉だと知って……」
セシリアは目を閉じる。
「もう……止めなきゃいけないって、思いました。誰かが……姉を止めなきゃ……」
静寂が、場を包んだ。
ただ蝉の声だけが、遠く、夜を貫いていた。




