第132話 エリザベートの懇願
城の回廊を、エリザベートは静かに歩いていた。
妊娠した身体に冷たい風が吹きつけるたび、どこか遠い昔の自分を思い出す。
ライナルトと初めて会った日のこと。
ユリウスと同じ顔、同じ声。強く、美しく、揺るぎない信念をもった男――ユリウスとは違う魅力があった。
だが今、ライナルトの姿はかつての彼とは別人のようだった。
「なぜ……」
エリザベートは呟いた。扉の向こうから怒号が漏れてくる。
部下を叱責する声。逃げ出した民への憤り。新兵器を完成させよという苛烈な命令。
――あの人は、いつからこんなにも追い詰められていたの?
思い返せば、ユリウスが姿を現して以降だった。
兄を殺さねばならぬという強迫観念。
スキルで劣らぬために、自らを、そして他者を酷使し続ける日々。
そこに、心の余裕など残っていなかった。
その夜、エリザベートはライナルトの執務室を訪れた。
「入れ」
硬い声に導かれて入ると、彼は椅子にもたれ、地図を見つめていた。
戦況図には無数の矢印が引かれており、その多くがグロッセンベルグへと向かっていた。
「……お腹の子のこと、心配してないの?」
彼女の言葉に、ライナルトは眉を寄せた。
「戦争が終われば、すべてが手に入る。子供に不自由な思いはさせん」
「違うの、そうじゃないのよ……」
エリザベートは、机の前まで進み出た。
「あなたは変わってしまった。昔のように、堂々と前を向いていたあなたじゃない。誰かに勝つことばかりを考えて、自分も、まわりも傷つけてる」
「それが何だ。俺は勝たねばならん。公爵家の未来も、お前の安全も、そのためには――」
「……じゃあ、私の気持ちはどうなるの?」
ライナルトが口を閉ざす。
「あなたが望んだ未来の中に、私はちゃんといるの? この子は? それとも、ただの駒なの……?」
しばし沈黙が流れた。だがライナルトは、何も答えなかった。
エリザベートは寂しげに目を伏せる。
「ごめんなさい、もう少しだけ信じてみる。でも――あなたが戻ってこないなら、私……」
最後まで言い切ることなく、彼女は部屋を後にした。
その背中を見つめながら、ライナルトは拳を握りしめた。
心のどこかが、確かに痛んでいた。だが、それでも彼は言葉を選ぶことができなかった。
気が付けば愛していた。兄から奪ってやったという達成感はいつしか消えていた。
だが、それ以上に、兄に勝たねばならぬという業が、彼の心を縛っていた。
城内の夜は重く沈み、冷たい風が古い石壁を鳴らしていた。蝋燭の揺らめきだけが、二人きりの部屋を静かに照らしている。
「……もう、やめて」
エリザベートは、両手でお腹をおさえながら、ゆっくりと椅子に座るライナルトを見つめていた。
彼の顔には影が差している。疲れと怒りと、燃え尽きた野望の残り火が、混ざり合っていた。
「ライナルト……あなたの勝ちたい気持ちは分かる。誇りも、家の名も、私には理解できないほど重いのでしょう。でも……もう十分でしょう?」
「まだ終わっていない。あの男を、この手で――」
低く絞り出すような声。だが、以前のような激情はもうなかった。呟くような声の奥に、虚無が垣間見える。
エリザベートはそっと近づき、彼の前に膝をついた。
「私のためにやっているのなら、もういいの。あなたが、血を流し、怒りに震えるたび……私は胸が苦しい。私の子が、あなたの憎しみで育つのが、怖いの」
彼女の目に、涙が光った。
「お願い……お願いよ。あなたを失いたくないの。お腹の子も、あなたを必要としてる。どうか、戦いをやめて……一緒に、生きて……」
ライナルトは、彼女の細い手を握り返そうとはしなかった。ただ、その言葉を黙って聞いていた。
――ユリウスにすべてを奪われたと、今でも思っているのだろうか。
沈黙の中、エリザベートは彼の膝に額をつけた。
「あなたを愛しています。だから、これ以上あなたが壊れていくのを、見ていたくないの」
その背で、蝋燭の炎が小さく揺らいだ。




