第129話 たどり着いた先
夜明け前の空は、まだ群青に沈んでいた。
グロッセンベルグの城門の前、煤けた技官服に身を包んだ男たちが膝をついていた。
泥にまみれ、顔は疲労に覆われ、希望とも絶望ともつかない目で、彼らは城を見上げていた。
「……たどり着いた、か」
先頭にいた初老の技術者が呟く。擦り傷だらけの手が、震えていた。
ヴァルトハイン城からここまで、命がけの逃避行だった。
警戒する門兵たちが対応に出てきたのと同時に、彼らは声を張り上げた。
「我らは、ヴァルトハインの城から脱出してきた技官たちです! ライナルト閣下の命令に背き……ここへ……!」
その言葉に城内は一時緊張したが、すぐに伝令が走る。
やがて、包帯を巻いた腕を下げながら一人の青年が姿を現した。
ユリウス・フォン・ヴァルトハイン。
白銀の朝もやを背に立つその姿に、技官たちは言葉を失う。
「……来てくれてありがとう」
その優しい声に、初老の技術者は思わず膝をついた。
「私たちは……限界でした。根拠もない兵器の設計を強いられ、失敗すれば罰があり……命すら惜しまれない……。だが、あなたなら……!」
ユリウスは歩み寄ると、一人ひとりに目を合わせた。すると、その背後から、ミリが不機嫌そうに現れる。
「アンタたち、頭の中にライナルトの機密情報をぎっしり詰め込んでるんだろ? 本当に信用していいのか?」
技官たちがたじろぎ、沈黙が走る。だがユリウスは穏やかに笑った。
「信用は……これから築くもの。ミリ、まずは彼らを使ってみてくれ。君の部下として、技術班に組み込んでくれないか?」
「……はぁ? 私の部下に?」
「技術者の目は確かだろう? もし本当に信頼できないなら、そのときは別の対応を考えよう。だが、僕は――彼らにまだ、技術者としての誇りが残っていると信じてる」
ミリはしばし睨んだままだったが、やがて舌打ちを一つして背を向けた。
「……せいぜい後悔しないことね、兄貴」
それでも彼女が去る前に、
「明日から材料庫で顔を見せな」
と技官たちに声をかけたのを、ユリウスは見逃さなかった。
ユリウスは技官たちに向き直る。
「さあ、中へ。温かい湯と食事を――それから、僕たちのやり方で、未来の話をしよう」
門が音を立てて開かれる。それは、追われてきた者たちにとって、新しい朝の始まりだった。
逃亡してきた技官たちもやっと職場の人たちの名前を覚えたころ。
グロッセンベルグの工房街。昼の鐘が鳴る頃、グレゴールは娘の手を引きながら、通路の隅に立ち止まった。
白い湯気の立つパン屋の前で、娘がほかほかの丸パンを頬張っている。
「ミリお姉ちゃんのパン、今日も美味しいね」
「……あれはパン職人ではなく、鍛冶師だがな」
思わず苦笑する。最初は煤だらけで恐ろしい印象しかなかったミリだが、今では娘はすっかり懐いていた。
ここに来て、まだ十日と経っていない。だが、その短い日々は、ライナルトのもとでの一年にも勝る安らぎに満ちていた。
昼休憩の終わり際、工房へ戻る途中、グレゴールは思い切ってミリに声をかけた。
「ミリ殿……少し、お時間をいただけますか」
「おう、なんだ? 溶接のことで文句か?」
「いえ、そうではありません。ただ――感謝を、伝えたくて」
ミリは一瞬目を見張ったが、すぐに照れたようにそっぽを向いた。
「礼を言うのはまだ早いぞ。あたしは鬼の工房長なんだからな」
「それでも……言わせてください」
グレゴールは深く頭を下げた。娘も、ミリをまっすぐ見つめていた。
「我々は、もとはヴァルトハイン閣下――ライナルト様の下で兵器開発をしておりました。ですが、構想も素材もないうちから結果を迫られ、できなければ“処分”される。その繰り返しでした」
声を震わせながら、グレゴールは続けた。
「正直、最初にユリウス様を見たときは、息が止まるかと思いました。同じ顔、同じ声……けれど、態度も、眼差しも、まるで別人だった」
その言葉に、ミリの表情が少し和らぐ。
「ユリウス様は、我々を“人”として見てくださった。あなたも、そうだ。働けば三度の食事があり、子どもにも優しい。それだけで……生きてていいのだと思える」
娘がそっとミリに向かって微笑む。
「ミリお姉ちゃん、いつもありがとう!」
「……な、なんだよ、いきなり」
ミリは少し顔を赤くしながらも、無言で小さく手を振った。
工房の窓から差し込む午後の日差しが、鉄と油の匂いを穏やかに照らしていた。
「我々はもう、恐怖のためにではなく――希望のために働きたい。そう思わせてくれたことに、心から感謝します」
周囲で聞いていた工員や家族も、それぞれに深く頷き、静かに拍手を送っていた。
――恐怖で統べる者と、信頼で導く者。
同じ顔、同じ声でも、心が違えば、世界はこれほどまでに変わるのだと、彼らは今、実感していた。




