第128話 逃げる者
ヴァルトハイン城――
石造りの堅牢な城壁に囲まれたその心臓部、地下に設けられた工房には、魔導灯の明かりだけが冷たく照らす空間があった。
回路を走る魔素の音、そして不機嫌な呼吸の音――
そのどれもが、技官たちの精神を削り取っていく。
「これが“雷槍投爆”の改良案か?」
ライナルト・フォン・ヴァルトハインは、漆黒の軍装をまとった姿で図面を一瞥し、氷のような声を放った。
「……お粗末だ」
震える手で設計図を差し出していた技官の一人が、顔を引きつらせる。
「し、しかし閣下、爆裂の反応に魔素が過剰に必要で……安定稼働のためには構造の見直しが――」
「黙れ」
ライナルトは手を振り払い、図面を床に叩きつけた。紙が宙を舞い、魔導ランプの光を反射する。
「“雷帝”の名のもとに敵を屠る兵器を作れと言っている。それができぬなら――貴様に価値はない」
「…………っ!」
工房に沈黙が落ちる。誰もが息を殺し、目を逸らした。
威圧するように睨みつけるライナルトの背後には、沈黙した兵士たちが控えていた。彼らは剣を抜きもせず、ただ命令の実行を待っている存在――処罰係である。
「三日だ。三日以内に成果を出せ。無理ならば、代案を持って逃げた裏切り者たちの中から、有能な者を奪い返してくるとしよう」
ライナルトは嗤う。口元にだけ浮かぶ冷たい笑み。それは威厳ではなく、狂気の影を帯びていた。
重い足音と共に、彼が立ち去ると、工房には疲れ果てた技官たちのため息が残された。
「……もう、限界だ……」
誰かが呟いた。だがその声に、誰も反論しなかった。
「構想すらない。資材も足りない。魔導炉も調整中だ。これじゃあ、ただの罰ゲームだよ……」
「黙れ、聞かれるぞ……!」
技官たちは互いの顔を見合わせた。
その中に、一人の若い技術士官がいた。顔を上げた彼の目には、迷いと、かすかな希望の光があった。
(……このまま、ここにいても死ぬだけだ。なら――)
彼の心に、ある噂が蘇る。荒野に築かれた工場の町。新たな技術、温かな統治、そしてユリウスというライナルトの双子の兄が統治する楽園――
やがて、技官たちは一人、また一人と密かに準備を始める。
自由を求めて。
そして、生きるために。
夜半、月明かりが城の石畳を青白く照らしていた。風が吹くたびに、古びた窓が軋み、不気味な音を立てる。
重々しい沈黙の中、城の奥深くにある工房棟の裏手で、二人の男が身を潜めていた。
どちらも技術官の制服の上に粗末な外套を羽織り、手には小さな布包み。中にはわずかな食料と工具、それだけだった。
「……まさか、本当にやるのか?」
声を潜めて言ったのは年若い助手風の男だった。
額には冷や汗が浮かび、何度も周囲を見渡している。
「やるしかないだろう」
答えたのは初老の技官。白髪交じりの髪を手で押さえながら、沈痛な表情を浮かべた。
「次に失敗したら、見せしめにされるのは俺たちだ」
「でも、失敗って……まだ構想すら固まってないんですよ。あれを作れ、これを作れって、できもしないことを言われて……!」
「わかってる。だが、ライナルト様は聞き入れはしない。『できない』という言葉を最も忌み嫌うお方だ」
若者が拳を握りしめる。
「……じゃあ、俺たちはどうすればよかったんだ……!」
「逃げる。それしかない」
技官ははっきりと口にした。震える唇に決意が浮かぶ。
「ユリウス殿のもとへ行く。彼の地では、技術を理解し、成果を正当に評価してくれると聞いた。俺たちのような者にも、居場所があると」
若者はその言葉に目を見開いた。そして、小さくうなずく。
「……わかりました。行きましょう、俺も一緒に」
ふたりは静かに石畳を渡り、城壁の陰を縫って裏門へと向かった。
門番が交代する時間帯、わずかな隙を突く計画だった。
「……うまくいけばいいが」
技官が呟いたそのとき、遠くで犬の遠吠えが響いた。
若者は身をすくめるが、技官は足を止めない。
「あれは追手じゃない。ただの野良犬だ」
門に近づいた。門は閉じられていたが、夜の間だけはわずかな通気用の木格子が開いている。
その下、地面には小さな抜け穴がある。
以前、使用人が逃げ出したときに開けたままだと聞いた。
ふたりは匍匐で穴をくぐり抜け、ついに城の外へと出た。
冷たい夜風が、自由の匂いを運んでくる。
「……逃げられたな」
若者が息を整えながら、空を仰いだ。
「まだだ。ここからが本番だ」
初老の技官は足元の土を踏みしめた。
「北へは行けん。目指すは南、迂回してグロッセンベルグだ。ユリウス殿のいる地へ」
ふたりは黙って歩き出した。
――闇の中、城を離れる影は、彼らだけではなかった。
別の棟でも、別の技官たちが、同じように荷をまとめていた。
この夜、ヴァルトハイン城からは、十数名の技官とその家族が静かに姿を消した。




