第125話 抜け駆け発覚と狼
グロッセンベルグ、夕暮れの工房裏。
今日の作業も一段落したとあって、珍しく三人の女性陣――セシリア、ミリ、リィナが並んでお茶をしていた。
「あの……ふと思ったんですけど」
セシリアがカップを傾けながら、どこか浮かれた様子でぽつりと言った。
「この中で、もし誰かが……抜け駆けしてユリウスとキスしたら、どう思います?」
リィナは静かに紅茶を一口。ミリはカップを口に運ぶ寸前で、ぴくりと手を止めた。
「なんだよ、突然……」
「いや、ほら、ありえるじゃないですか。……たとえば、もうすでに誰かが……」
「……実は、私はもう済ませていますよ」
と、リィナがあっさり言った。
「はぁぁああ!?」
ミリが派手に茶を吹いた。
「い、いつ!? どこで!? どういう流れで!?」
「砦にいた頃です。ユリウス様が机で作業中に寝てしまった時、そっと……。“キスの時間が長いほど生殖欲求が増える”というタンホイザー曲線の実証のために、ですね」
「曲線とか関係ないじゃん!!!」
一人で大騒ぎするミリの横で、セシリアが肩を落としてつぶやいた。
「……なんだ。私が一番じゃなかったのね……」
――その瞬間、ミリの耳がぴくりと動いた。
「……セシリア、今なんて言った?」
「え、いえ、別に……!」
「いや言った! 私が一番って言ったよね!? ってことは、キスしたってことじゃん!! 誰と!? どこで!? どんな雰囲気だったの!!?」
「い、今はそんな……! えっと、その、眠ってる顔がかわいかったから、つい……!」
「だあああああああああ!!」
叫びながら椅子から飛び上がったミリは、涙目になって叫んだ。
「なんでだよ! なんでみんな私を置いていくんだよぉおおお!!」
「あ、私のは嘘ですから。ミリ、気にしないで」
リィナは嘘だと自白するが、ミリの耳に届いたかは定かではない。
そして、泣きながらその場を走り去っていった。
ぽかんとするセシリアと、くすりと笑うリィナだけが、グロッセンベルグの空の下に残された。
――――
グロッセンベルグの夜は、夏とはいえど冷たさを含んだ風が城壁を撫でていた。
その最上部――見張りの兵も今はおらず、ただ月明かりだけが静かに照らすバリスタの影に、ミリは一人腰を下ろしていた。
まさかセシリアが抜け駆けして、ユリウスにキスしていたとは。その衝撃に今でも涙が止まらなかった。
手の甲で目元を拭ったそのとき、足音が近づいてきた。
「……探したよ」
ふいに聞こえた声に、ミリはビクリと身を震わせた。
顔を上げると、月光の下、ウイスキーのボトルとコップを二つ持ったユリウスが笑っていた。
「あ、兄貴……い、今来るとか……!」
慌てて涙をぬぐうミリに、ユリウスは何も言わずに隣に座り、持ってきたコップを差し出した。
「どうしたの、兄貴? そんなの持って……」
「今日がさ――君と出会ってちょうど一年なんだ。だから、二人だけで飲もうと思って」
「…………」
ミリは少しだけ目を見開き、それから照れくさそうに笑ってコップを受け取った。
「覚えててくれたんだ」
「当たり前だよ。あの日、君に出会わなかったら、僕はまだ、錆びた歯車のままだったかもしれない」
ユリウスがボトルを傾け、琥珀色の液体がコップを満たす。
ミリも自分のコップに注ぎながら、風に揺れる炎のような視線をユリウスに向けた。
「……じゃあ、出会ってくれた記念に、乾杯」
カシン、と夜空の下で静かに鳴るガラスの音。
二人はウイスキーを口に含み、ゆっくりと喉に流し込んだ。
「思えば、最初の頃は兄貴のこと、変なヤツだと思ってたよ」
「えっ、ひどいな……」
「でも、いつの間にか……あの工場の音も、夜通しの作業も、全部が懐かしくなるくらい、日常になってた」
「僕もさ。君がいたから、ここまで来られた。ミリ……本当に、ありがとう」
やがて、語り合う言葉の数が減り、ユリウスの動きが鈍くなっていく。
「……兄貴?」
ミリが覗き込むと、ユリウスはそのままぐらりと横に倒れ、彼女の膝の上に頭を預けた。
「こらこら……またかよ……何度目だよ、兄貴が膝枕で寝るの……」
ミリは小さく笑いながら、ユリウスの髪をそっと撫でた。
「はあ……私が狼だったら、もう襲われちゃってるぞ」
冗談のように言ったが、彼女の頬はほんのりと赤くなっていた。
その視線が、ユリウスの無防備な寝顔に落ちる。
「……ん」
生唾をひとつ、喉が鳴った。
「ダメだ、こんなの……でも……」
ミリはウイスキーの残りを一気にあおると、顔を真っ赤に染めながら、静かに、覚悟を決めた。
「ユリウス……」
そっと名前を呼ぶ。
それは、彼女の想いのすべてが込められた一言だった。
そして――そっと、口づけを交わした。
夜の風が、二人の間を通り過ぎていった。
月がただ静かに、祝福のように光を落としていた。




