第115話 セシリアの独断
その夜、天幕の灯りが静かに揺れていた。
セシリアは机の前で、丁寧な筆致で手紙を綴っていた。宛名は「ミリへ」。
──今、言えば必ず止められる。けれど、誰かが行かねばならない。
彼女はインクが乾くのを待ち、文を折り畳むと、自分の魔導鞄に忍ばせていた髪留めの小箱に入れた。それをミリの私物の工具箱の中へ、そっと滑り込ませる。
天幕を出たセシリアは、誰にも気づかれぬよう馬へと向かう。星の見えぬ曇天のもと、ただ一人、彼女は北の戦線へと馬を走らせた。
その背を、誰も見ていない──はずだった。
「……セシリア様」
リィナは、遠く高台の見張り台からその姿を認めていた。声をかけることもなく、ただその背が夜の闇に消えていくのを、ぎゅっと胸元を押さえて見送った。
翌朝、ミリは工具箱の中にあった手紙に気づいた。
封を切り、読み進めるにつれ、眉がひくつき、涙がこぼれ落ちる。
《ミリへ。あなたが私を呼び止めてくれたから、私はここにいられました。ありがとう。ごめんなさい。どうしても私にしかできないことがあると信じたいのです──セシリア》
それがなにを意味するのか、ミリは即座に理解した。
手紙を胸に抱きしめるミリは、嗚咽まじりに言葉を絞り出す。
「バカ……っ、バカだよ……!」
天幕の外では、仲間たちが静かに作業をしていた。誰も笑っていない。ただ、撤退の準備が進められている。
ミリは涙を袖で拭き、手紙を胸にしまい込むと、大きく息を吸った。
「……あたしがやらなきゃ。セシリアの意志、無駄にしない……!」
いつものように手袋をはめ、指を鳴らす。彼女の目には、もはや迷いはなかった。
ライナルトの本陣。かつてこの地を治めていた貴族の城にそれはあった。
セシリアは、荒れ果てた廊下を引きずられるように歩かされ、薄暗い広間に突き出された。
背筋を伸ばし、必死に気丈な態度を保つ彼女の前に、黒い軍装に身を包んだ男が立っていた。
ヴァルトハイン公爵、ライナルト。ユリウスの双子弟であり、今は冷酷な征服者として恐れられる存在。
セシリアはユリウスと同じ顔のライナルトに、ユリウスとは全く違う冷たさを感じていた。
「なるほど。噂に違わぬ才女――だが、それだけか」
椅子にもたれたライナルトは、セシリアを値踏みするような目で見た。
だが、その声には感心や敬意の色はない。まるで、使えない道具を手に取った時のような、淡々とした失望があった。
ライナルトは部下からグランツァール帝国の皇女と名乗る女が来ておりますという報告を受け、捕縛した後に連れてこいと命じた。
セシリアはまともな交渉すら出来ないと、自らの甘さに舌打ちするも、拘束されそれ以外にはなにも出来なくなっていた。
「皇女だというのは本当か?」
勿論ライナルトはセシリアがユリウスの陣営にいるのは知っていた。敢えて訊いたのである。
セシリアは頷いた。
自分の価値をアピールし、何とか時間を稼ごうと口を開く。
「はい。ヴァルトハイン閣下。どうか、軍を引きこの争いをやめてください」
ライナルトはここでまたも劣等感を抱き怒りがわく。
目の前の女はユリウスのために時間を稼ごうとして、命の危険を省みずにこの場にやってきたのだ。
自分にはない人望、それが羨ましく、憎かった。
「ふん。帝国の皇族など、今やただの飾りにすぎん。……ならば、お前に価値はない」
ライナルトは指を鳴らし、部下に命じる。
「地下牢に放り込め。使い道があるとすれば――ユリウスを引きずり出す餌として、だ。皇女殿下がこうしてやってきたということは、あの出来損ないはまだ生きている」
セシリアの瞳がわずかに揺れた。
ライナルトはそれを見逃さなかった。
「そうだ。君を盾にすれば、あの甘い兄上はきっと出てくる。自ら破滅に向かってな」
そのままセシリアは引き立てられ、石造りの地下牢へと投げ込まれた。鉄の扉が重く閉ざされる音が響き、そこに残ったのは、湿気と黴の臭い、そして圧倒的な孤独。
セシリアは壁にもたれ、震える手で胸元を押さえる。冷たい石の床の上で、意識を保とうとするたびに、感情の波が押し寄せてくる。
「……私、何をしているの……」
希望を持って来たはずだった。ユリウスを救えると信じて。
でも、結果はこの有様だ。
ユリウスの顔が脳裏に浮かぶ。その笑顔。真剣なまなざし。ふいに湧き上がるのは、自分の決断が彼に重荷を背負わせたという後悔だった。
「ごめんなさい……ユリウス……」
その小さな呟きは、誰に届くこともなく、冷たい石壁に吸い込まれて消えていった。




