第105話 エリザベートの心
報告を聞いた瞬間、エリザベートの心は強く揺れた。
口元はわずかに震え、両の手を腹に重ねながら、静かに目を伏せる。
――彼が、生きている。
それが、何よりも嬉しかった。
ユリウスという名前を口にすることはもうできない。彼に寄り添う未来も、子を成す未来も、すべて失われた。
けれど、あの穏やかで、誠実で、決して人を見捨てぬ男が――死なずに、まだどこかで戦っている。
その事実が、エリザベートの心を満たした。
だが、同時に胸が痛んだ。
自分はいま、ライナルトの子を宿している。公爵家の正妃として、帝国の未来を担う立場にある。
(私は……裏切ったのよね。ユリウスも、自分自身の誇りも)
父を守るためだった。婚約を解消され、無理やり嫁がされる道を選んだのは、そうするしかなかったからだ。
妥協で築かれた現在に、愛などあるはずがない。
けれど――
腹の中で動き始めた小さな命だけは、誰よりも愛おしい。
(この子に……私はどんな顔を見せればいい?)
その問いに答える間もなく、雷のごとき足音が廊下に響いた。
入ってきたライナルトの怒気に満ちた顔を見たとき、エリザベートは悟る。
――安堵の表情を、見られていた。
(……どうして、あなたはそこまで、兄を恐れているの? 憎んでいるの?)
彼女は知っている。ライナルトが、ユリウスの存在を意識しすぎていることを。
――あの男は、兄の幻影と戦い続けている。
だからこそ、エリザベートがユリウスの無事を喜んだことが、彼の怒りを呼ぶ。
(あなたの“勝ち”が欲しいだけなら、私は必要ないでしょう)
冷たい視線を向けることもできず、ただ子を庇い、口を閉ざす。
しかし、ライナルトが去ったその瞬間――
彼女の胸に、かすかな恐怖と、それ以上の悲しみが残された。
――この家の未来は、この子に託される。
(どうか……どちらの名も、憎まずに育って)
それが、かつての恋と、今の現実の狭間で揺れる母の、ただ一つの祈りだった。
そしてライナルトが去る。
怒声の余韻が、石造りの室内にじわりと残っていた。
扉が閉まる音は雷鳴のように響き、沈黙だけが残る。
エリザベートは椅子に腰を下ろしたまま、震える指先で唇を押さえた。
その表情は蒼白で、だが涙は浮かんでいなかった。
そんな彼女に、侍女マルティナがそっと近づく。
静かにひざを折り、羽織を肩に掛ける。
「妃さま……どうか、お身体を大事に。冷えます」
「……ありがとう、マルティナ」
声はかすれ、どこか遠くのもののようだった。
「怒っていたわ。私が……ユリウス様の無事を喜んだことに」
「妃さまは、ただ人として当然の反応をされたまでです」
マルティナは静かに応える。
その口調に迷いはなく、ただエリザベートの胸に寄り添っていた。
「……あの人の目は、まるで炎だった。すべてを焼き尽くすような。
あれが、公爵家の後継者の目なのかしら」
「殿下は勝ち続けることでしか、自分の価値を証明できないのでしょう。
それを脅かす存在に――どんなに近しい人であっても――剣を向ける」
エリザベートは視線を落とした。
そっと腹に手を添える。
「……この子が、父親と同じ道を辿るのだとしたら。
私……耐えられないかもしれない」
マルティナは数秒だけ沈黙し、やがて静かに口を開いた。
「そのために、妃さまがいらっしゃるのです。
お子さまに違う未来を見せるために」
「でも、私は……何も選べなかった。
ユリウス様を守ることも、愛を貫くことも」
「違います。妃さまは、民のために、公爵家の未来のために、自らを差し出された。
誰よりも――戦われたのです」
エリザベートの瞳が揺れた。
その瞳には、言い訳でも慰めでもない、マルティナの言葉が真っ直ぐに届いていた。
「……ねえ、マルティナ。
もし、ユリウス様が――この城まで来られたら。
私は……何を言えばいいのかしら」
「……そのときは、こうお伝えください」
マルティナは、エリザベートの指をやさしく握った。
「“あなたを忘れた日は、一日もありません”と」
エリザベートは小さく息を呑み、そして微笑んだ。
痛みをたたえたその笑顔は、どこか誇り高くも見えた。




