怪奇談・橋下鬼人
テーマは「帰り道」ということで書いてみました。
私は読書が好きだ。
本は無知な私に、雀の涙ほどの知を分け与えてくれる。だから私は図書館に通うし、近所の書店で新刊を手に取ったりする。
それらは、それなりの頻度で訪れる。具体的に言うと週に三度くらい。そしてその度に私は不思議に思っていることがある。
私が本に出会おうとすると、必然的に橋を渡る必要があった。私の住んでいるところから川を挟んだ向こう側に、図書館も書店も存在していたからだ。
さて、この橋には不思議なことがある。
それは図書館側の橋袂に、いつもおじさんがいるということだ。おじさんの見た目は50代といったところで、清潔感のある身なりをした痩身の男性だった。
彼は曜日をずらしても、時間帯をずらしてもそこにいる。そしていつも欄干から橋の下を覗いていて、そんな彼の姿を、私は橋を渡る度に目撃していた。
ある時、ふと気になって、私から声をかけてみたことがある。彼はいつもそこにいるものだから、やはりその理由が気になった。
「いつもここにいらっしゃいますけど、なにをされているのですか」
おじさんは私の方へ振り向いた後、皺が浅く刻まれた顔に弱々しい笑みを浮かべた。そしてまた欄干から橋の下を覗き込む。だけど私を無視する意図はないらしく、そのままの体勢で口を開いた。
「いつも本を抱いているお嬢さん。僕は決心がつかんのですよ」
彼はそれからめっきり口を利かなくなってしまった。
私はといえば、お嬢さんと呼ばれるような歳ではないだとか。手提げに入らない分を手に抱えているだけなのだとか。とにかく言いたいことはあったけれど、ただ「そうですか」とだけ言って、その場を去ることしかできなかった。
なんの決心がつかないのか。
あの弱々しい笑みが妙に印象深かった。
それからというもの、私は橋を渡る度、おじさんに声をかけることにした。
初めは私が挨拶をしても、此方に顔を向けるだけだった彼も、何日も続けていくと次第に挨拶を返してくれるようになった。
軽く世間話をする程度の間柄になると、おじさんの人となりも知れてくる。
彼は知性に溢れる人間だった。
特に民俗学に精通していて、地方の伝承や逸話というものに明るかった。私は怪奇談を蒐集する身として興味深く、そんな彼の話に耳を傾けることもしばしばあった。
「こんな話を知っていますか」
ある時おじさんがこの橋にまつわる悲劇を教えてくれた。
「今から40年は昔のことです」
40年前というと昭和45年ごろ。
当時、橋の下で女性の遺体が見つかった。
警察は女性が橋の欄干から身を投げて自殺したとの見方を示したが、なぜ投身に川の中を選ばなかったのかは不明だった。
女性の四肢はあらぬ方向へと捻じ曲がり、内臓には折れた肋骨が刺さっていたという。それだけで死の間際まで長く苦しんだことは想像に難くなかった。
「女性は既婚者で夫がいました。2人の間には小学生くらいの息子がいたそうです」
妻である女性は献身的で、夫の言うこともよく聞いたと言う。息子も友達は多く、成績も優秀で、とても円満な家庭だった。
だが夫はそれが面白くなくて浮気をしていたそうだ。女性が亡くなった時、夫は浮気相手と会っていたという証言もあった。
「警察は自殺として処理しました。事実、自殺でしたし、動機も明白でしたから」
しかし話はそこで終わらない。
数日後、死んだ女性の夫と浮気相手の女が亡くなった。そのさらに数日後、浮気相手の女の親族が次々と亡くなった。いずれも獣に貪られたような無残な死に様だった。
「これは僕の推測ですが、女性は橋の上で、自分の夫が浮気している現場を見てしまったのではないでしょうか。そしてそのまま衝動的に身を投げてしまったのだと思います」
この事件は投身した女性が、嫉妬と憎悪に穢れて鬼となり復讐したのだと噂された。警察が保管していた女性の遺体が消失していたことも手伝って、その噂は隣町にまで流れた。
「鬼となった女性の怨みは晴れず、今もこの橋の下にいて、夫やその浮気相手くらいの年齢の人が通ると殺してしまうと言います」
おじさんの話が終わった。
ギョッとした私は、恐る恐る欄干から下を覗き込んだ。しかし橋の下は暗くてよく見えなかったので、すぐに顔を引っ込める。思わず安堵の息を吐いた。見えなくてよかった。
私は代わりにひとつ気になったことを質問することにした。
「その、残された子供はどうなったのでしょうか」
「子供は親戚に引き取られて、不足なく育てられました。頭が良く、大学まで出させてもらったそうです」
「それは優秀だったのでしょうね」
「とても利口な子でした」
その子供を知っているような口ぶりが気にはなったが、おじさんのどこか遠くを見るような目を見れば、さらに質問できるような雰囲気でもない。
その日はそれで終わってしまった。
だけど別のある日。
真夏の日差しも和らぐ晩夏。
昼下がりに独りで図書館へと向かう私に、これは大変珍しいことなのだが、おじさんの方から声をかけてきた。
「僕は決心がつかんのですよ」
おじさんは突然にそう言った。
あの日と同じことを言い、けれどあの日と違うのは、話の続きがあることか。
「母に会う決心がつかんのです」
おじさんの家族の話は、これまで聞いたことがなかった。
私は自然と足を止め、額から流れる汗をハンカチで拭うと言葉の続きを待った。何か彼にとって重大かつ重要な秘密が打ち明けられようとしていることを半ば確信しながら。
「母とは小学生のころ以来、会っていませんでした。別れていた理由は複雑なので話しませんが、僕はいつも会いに行くべきか否か、それを考えていました」
どんな理由なのだろう。
気にならないと言ったら嘘になる。けれどそれを聞く前に飛び出したのは、おじさんから私への感謝の言葉だった。
「それで最近やっと迷いが晴れました。お嬢さんのお陰です。ありがとう」
「どうして、私にお礼を……?」
「お嬢さんにはこれまで散々よくして貰いましたから」
「私は何もしていません。それよりも、お母様に無事会えるよう祈っています」
おじさんの顔は凪のように穏やかで、本当に決心がついたんだと信じることができた。だけどそのことが私に一抹の不安を抱かせた。
なんだかおじさんとはもう会えなくなるような、そんな気がした。
「これでようやく母のところへと行けます。今まで本当にありがとう」
私も彼もそれ以上は何も言わず、私は当初の予定通り図書館へと向かった。
同じ日の夕刻。
山の影に殆ど隠れた夕日を背にした私は、やや急ぎ足で帰り道を歩いていた。
閉館時間ギリギリまで、ゆっくりと読書に没頭してしまった結果、図書館を出るのが遅くなってしまった。そのせいで今まさに、夜道と呼んで差し支えない薄暗い道を歩く羽目になっている。
この辺りは街灯が疎らだから、東から迫る闇を駆逐できないのだ。
そうこうするうちに例の橋へと差し掛かる。
顔見知りがいると思えば、暗がりにいても勇気が湧いてくる。そうして安心しかけた時、私は信じられない光景を目にした。いや、正確には見えなかったのだ。いつもそこにいるはずのおじさんの人影が。
彼が帰ってしまったとは考えにくい。
そこで昼間の会話が思い出された。
そうだ、彼は母に会うと言っていた。会いに行くのは明日とか明後日だとばかり思っていたけれど、まさか今日のうちに行ってしまうなんて思わなかった。
「今日も居てくれればよかったのに」
心細さから呟きがこぼれ落ちる。
そうこうするうちに常日頃、おじさんが立っていた辺りまで来ていた。おじさんはいつもここから橋の下を見ていたが、彼が見ていた景色を私も見てみようか。
正直かなり怖い。でもそんなに時間はかからないはずだ。
欄干に手をかけて身を乗り出す。
橋の下には…………おじさんが倒れていた。
「えっ」
真っ暗で見えにくいけれど、人の形をしたものが仰向けに倒れていて、その身体的特徴は私が知っているおじさんのものに酷似している。間違いない。下で倒れているのは彼だ。
その瞬間、私の体は何かを考えるよりも先に動いていた。
服が汚れるのも厭わずに、図書館側の土手を転がるように降る。駆けつけた私は全貌を目にして息を呑んだ。そしてなんとか絞り出した声でおじさんに呼びかける。
「おじさん……?」
返事はなかった。
信じられない気持ちが強くなる。
ある確信めいた予感が私の中に広がり、さっと血の気が引いた。じっとりと汗が滲み、指先が冷たくなる。だというのに心臓は早鐘を打ち、脈拍が耳を塞ぐ。
私は、私の心中を表すような足取りで近づいくと、その場にしゃがみ込み、そっとおじさんの手を握った。
「そんな、どうして?」
ぐったりと力のない手は柔らかく、また僅かな温もりが残っていて、しかし手の甲には紫色の斑点が小さく疎らに浮き出ていた。
それが死斑であると知っていた私は、抱いていた予感が現実となったことで、暫し茫然とした。その間も手の中の温もりが失われていくのを傍観する。
受け入れ難い現実を拒絶することに失敗するたび、ぐちゃぐちゃになった思考を取り戻していく。おじさんだったものを直視できるようになった頃には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「もうこんな時間……とりあえず警察に通報しないと」
暗闇の中、私は手提げのポケットからスマートフォンを取り出そうとして、不意に足音を聞いた。音がしたのは橋の下の方だった。それ以外の音が忽然と姿を消す。
緩慢な視線移動と共にそちらへと顔を向けると、暗闇を何か揺れ動いている。それは段々と私の方に近づいてくる。
「あ、ああぁ………………」
ついには暗闇でも朧げに輪郭が分かるまでになる。私は腰を抜かしてしまった。逃げなければと思うのに力が入らず、立ち上がることはおろか足を満足に動かすことも、そして後ずさることもできない。
その間にも『それ』は、どんどんと近づいてくる。そして次の瞬間、私は確かに見た。暗闇に浮かび上がる般若——恐ろしい形相をした鬼神の顔を。
はっきりと恐れ慄いているはずなのに、揺れる瞳は釘付けとなり、否応なく観察を余儀なくされる。
まず鬼神は女性のようだった。
額から伸びる2本の角。大きく裂けた口から見える鋭い牙。乱れてぼろぼろになった着物を纏い、その千切れた袖からは筋張った右腕が見えている。しかし腕はおかしな方向に捻じ曲がり、また肘からは骨が突き出している。指先の爪は黒曜石の矢尻のようだ。これまた見てわかるほどに捻れた左脚を庇うようにして、鬼神は幽鬼の如く揺れ動いていた。
もう目と鼻の先にいる。
ここにきて体の震えは頂点に達した。
歯の根が合わず、がちがちと嫌な音を立てる。頬を伝うのが汗か涙かも分からない。
そんな私の方へと腕が伸ばされる。
「……!」
私は咄嗟に両腕を顔の前へと掲げた。
焼け石に水だとしても、せめて頭を庇おうとしたのだ。ほとんど生存本能と言ってもよかった。
そのまま目を瞑り、次に来るであろう痛みに備える。
「……?」
しかし、やってくると予想した痛みは、いつまで経っても襲ってこなかった。
不思議に思った私が恐る恐る目を開けると、どうやら鬼神は私の方へと腕を伸ばしたわけではないらしかった。
ではどこに向かって腕を伸ばしたのか。それは鬼神がおじさんの頬を撫でているのを見れば一目瞭然だった。
怒り顔のまま瞳に悲哀を宿している。
優しい手つきは母を思い出す。
風邪で寝込んだ私に寄り添い、看病をしながら頭を優しく撫でてくれた母。
目の前の鬼神が私には母親という存在そのものに見えた気がした。
「もしかして」
私の中で何か繋がった気がした。
しかし、それが形を成すよりも早く鬼神は動いた。おじさんを両手にひょいと抱え、背を向けて歩き出す。
鬼神は橋下まで達すると、静寂と暗闇の中へと姿を消した。
あっという間の出来事だった。
急に音が溢れてくる。りんりんりんと虫の声が聞こえたかと思えば、湿気を孕んだ温い風が空気をかき混ぜる。遠くではバイクがエンジンを吹かしている。
現実に戻ってきたんだ。そう実感した。
ふらつく足でなんとか立ち上がった私は、そのまま這うようにして土手を上がり、家へ帰ることにした。家に着いて、シャワーも浴びずにベッドへ倒れ込むと、すぐに深い眠りへと落ちていった。
後日、私は日を改めて今回の出来事について整理してみた。その結果、私なりの回答を導き出したが、それは憶測の域を出ない。なので私の胸中にしまっておくことにするけれど、これだけは言える。
あれは鬼神ではなく鬼人であったと。
それからもうひとつ。
私は毎年、決まった時期に花を供えることにした。
生花店でアセビを鉢ごと買ってきて。
丹念に世話をして。
5月くらいに白い小さな花を咲かせたら、あの橋の欄干まで持っていって。
そして供える。
いつもおじさんが立っていたあの場所に。
花の香りが届くように。
読んでくださった方々ありがとうございます。
アセビの花言葉……清純な心、献身、犠牲。