プロローグ
「アイリス・ヴィオレット! 本日ここにあなたとの婚約破棄を宣言する!」
「わかりました」
学園のプロムにて、開幕早々その茶番劇は始まった。
目の前にいる長年の婚約者、ウィリアムに向かって間の抜けた声で告げる。心底どうでもいいから早く帰らせてほしい。
わたしのあまりにも素っ気ない反応が面白くなかったのだろう、ウィリアムの腕を掴んでいた少女が声を上げる。
「ウィリアム様、私、本当に怖くて……今だって本当に怖くって……」
今日はいつも以上にぶりぶりしている。その無駄に甲高い声はどこから出てくるのか、と声帯を心配せずにはいられない。
ほら、あなたの大好きな彼女が泣いてるよ。早く退出でも追放でもなんでもいいから何か言ってよね。あなたの許可がない限りわたしはここを動くこともできないんだから。
そう文句を垂れつつ、笑顔は絶やさない。一応、公爵令嬢として最低限の振る舞いはしようと心に決めていた。
「アイリス・ヴィオレット。あなたの行いは貴族として到底許されるものではない。魔法を彼女に向けて放ったというその行動からも学園で魔法を学ぶにはふさわしくない」
ウィリアムはつらつらとありもしない罪状を列挙していく。それを隣でぶりぶり女こと、ウェンディは愉悦に塗れた顔を必死に抑えながら聞いている。
わたしはというと、裏口に隠してきた自分の荷物のことを考えていた。茂みにねじ込んできただけなので、衛兵にバレたら捨てられてしまう。
「……よって、学園からの追放を命じる」
「承知いたしました」
やっと言ってくれた。校長先生かの如く長い話だった。
わたしは最後に優雅にカーテシーをしてみせるとパーティ会場を後にした。
そのまま急いで裏口へ回る。
衛兵が何人かいるだろうと思っていたけれど、裏口は奇妙なほどに静かだった。首を傾げつつ荷物の場所まで進んでいくと、裏口の階段付近で衛兵が全員眠っていることに気がついた。
「寝てる……?」
けれどこれは好都合だと、わたしは荷物を茂みから取り出した。革のスーツケースには傷一つついていない。バレなかったらしい。
これで一安心。そう、一息吐くと。
「お久しぶりですね、アイリス」
綺麗でびっくりするほど心地いい低音だった。けれどすぐさま衛兵か何かだと察知し、杖を構えて振り返る。
そこには銀髪で青い宝石のような瞳をもつ美青年が立っていた。
暗がりではっきりとは見えなかったけれど、彼の服装が彼が何者であるかをしっかりと伝えていた。
――魔塔主。帝国で最高の魔法機関とされている魔塔のトップ。
黒いローブを着て、銀髪で碧眼と言えば最近噂で耳にした『歴代最年少魔塔主』しかいないはずだ。
けれど、そんな彼がなぜ弱小王国の一公爵令嬢などを知っているのだろうか。まさか、わたしの悪評が帝国まで広がっているとか?
「アイリス、会いたかったんですよ。とっても」
「申し訳ありませんが、わたしは魔塔主様とは初めてお会いすると思うのですが……」
「初めてなんかではありませんよ。まさか、僕を忘れてなんていないですよね……?」
不安げに眉を下げたその表情にはどこか見覚えがあった。
銀髪で青い目。幼い日の少年が脳裏をよぎっていく。鋭い目つきや粗野な口ぶりはかけらもなくて、少しだけ混乱する。
「まさか、シアン、なの?」
そう問いかければ、彼は幸せそうに微笑んだ。
その笑顔は今までに何度か見た笑顔よりもずっとずっと、綺麗で。
驚きで声が出なくなったわたしをシアンは軽々と抱き上げる。もちろん荷物も容易く宙に浮かべて。
「お迎えに上がりました、ようやく一緒になれますね」
一体急にどうしたんだろう。
急に姿を消して、戻ってきたと思ったら魔塔主になっているなんて。
聞きたいことは山ほどあったけれど、途端に襲ってきた眠気はその質問をさせてはくれなかった。