久しぶりの温かさ(物理)
「ふう~~」
時刻は七時、いくつかの追加の買い物も終わり数か月、数年ぶりの温かい湯船に浸かりホゥ、と息を漏らす。芯から体が温まる感覚に思わず倒れるまで居ついてしまいそうになる。
今までは川や湖で汗を流したり、ごくまれに拾ったお金を貯めて銭湯に行く程度だった。身だしなみを気にできるような生活ではなかったから頑張って無視していたが、吸血鬼は五感も人間より優れている。自分の匂いも辛く感じるのは中々に嫌な気分だった。
ピンク色の入浴剤が入って綺麗だったのに、一回入っただけで目に見えるほどに汚れが浮いてきている。自分の体がそんなに汚れていたのは女としてはやはり思うところがある。早々に湯船から上がり、念入りに体をこすって身を清める。
隅々まで洗い終わって改めて湯に戻りリラックスしながら彼のことを考える。
(ショウ君って本当に何考えてるんだろう)
倒れてしまう程に血を吸ってしまっただけでかなりの恩を作ってしまったのに、それにつけ入ることなく寧ろ家に招待されて色々とお金をかけて準備してもらって風呂を借りて、それで女の子が倒れているのを見過ごせない、なんて言われても正直信じられなかった。
確かに良い人なのかもしれないけど、それでも自分の考えをほとんど教えてくれないのでどうしても信用しきれない、というのがイアの偽らざる本音だった。
出会って一日も経っていないし、会話したのなんて更にその半分の時間もないので人格を理解するもクソもないのだがそれでも少し喋っただけで、とても広く気配りができて知能が高いことは理解できている。
なのに初対面の印象最悪のはずなのに見知らぬ女を家に連れ込むなんて何か考えているとしか思えない。これがそこいらの正義漢ぶった考えなしならばイアも多少は安心して気を許せていたのかもしれない、だが中途半端に頭の良い片鱗を見せられて逆に腹の奥に隠しているものを邪推してしまっていた。
(だって変だもん、五人ぐらい簡単に住めそうな家に一人暮らしで、しかもたった一日で色々私用に準備してくれて、大学生ってそんなにお金を持ってるんだっけ?)
実際のところは急すぎてまだ想像がついていないだけで、親が金持ちだったり既に両親と死別して遺産を持っている、など考えられる可能性はあるのでイア自身もそこまで気にすることではないと考えているのだが、それでも直感的に何か隠されているという感覚が拭えずもやもやとしている。
これに関してはイアの地頭が人間と比較したら決して高い方ではないことも一因ではあるが、胸に宿る不安の原因を言語化できずしかし劣悪な環境によって鍛え上げられた第六感が警鐘を鳴らしているため一層不安感は募っていく。
いっそのこと一目惚れをしただの、体が目当てだのと言ってくれたのならまだ信頼はできずとも気は楽だった。それならば親切にしてくれる理由は分かるし期待に応える気持ちはこれっぽっちもないが、多少はお礼に返せるものも思いつけただろう。
そんな風に頭を悩ませている間にどれほど時間がたったのか、どうやら湯の中でかなりの量の汗をかいてしまったようでのどが水分を欲してやまない。名残惜しい気持ちはあるが風呂場からあがり水気を拭いて用意してくれた服に腕を通す。
ちなみにだがここにあるものは流石に女性用の下着を男一人で買いに行くのはキツイと言われ、近所の服屋に連れられた際にイアの見た目に集まってきた何人ものお洒落させたがりの女性店員に囲まれて無理矢理押し付けられたものだ。あまりの熱量にショウも断ることができず、かなりの時間と金額を消費させてしまったのは正直申し訳なく思っている。
なんとかアクセサリーや化粧品などは財布事情を理由に断って、下着類と上下1セットだけで済ませたというのにそれでも軽く五桁に突入したのは目がくらむ思いだった。綺麗な服というものに年頃の少女として相応の憧れはあるものの、厳しい生活をしてきた身としてはどうしても高額な代物には気後れしてしまう。
だが値段の分がある、と言い切れるかは分からないが良い服を着たのは久しぶりなのでやはり嬉しいものがある。フリルやキラキラの装飾があるものにも気が惹かれたが、それらは更に値段が値段だったので選んだのは簡素な白のブラウスに黒のチノパン。
運動の邪魔にもなりにくいし良い素材なのか丈夫で軽い、シンプルながら所々の刺繡などで地味な印象はない。火照った体で敏感に感じてしまう秋の冷ややかな空気もこの服を着ればまったく感じない、性能に関しては値段に見合ったものがあるようだった。
見違えるほどに清潔になり気分上々で、一度風呂が空いたことをショウに報告しようとリビングに向かうと食欲のそそられる良い匂いが感じられた。
(そっか、もう七時だから普通なら夕食の時間か。昨日はじっくり見すぎちゃって食べづらそうだったし、サッサと部屋に戻った方がいいかな?)
汗を流した分水分補給だけはしておこうと考え入ると、テーブルにはご飯やおかずが揃って並べられていたが不思議なことにスープのお椀とコップは二つあった。
「お、ナイスタイミングだったね。今丁度出来上がったところだったんだよ、ほら座って座って。飲み物は何が良い?麦茶、牛乳、それともジュースとか炭酸が良いか?」
「え?え?」
唐突に食事の席につくよう勧められて思考がストップしてしまう。正直信用しきれていないこともあって、これからの生活はお互いドライなものになるだろうと想像していた手前、急に距離を詰めようとされて困惑するのは無理のないことだろう。これから同居するので食事を共にしようという考えは分からないではないが、初日から、それも吸血鬼である自分ととは流石に予想できなかった。
「あ、もしかして嫌だった?そういや何も確認取ってなかったしね、ごめんごめん。固形は無理だけど飲み物ならいけるって話だし具なし味噌汁を作ってみたんだけどどうかな?そこそこ栄養価は高いはずだしこれ飲めるならもしかしたら多少は吸血量を減らせるかな、とか考えてたんだけど」
「そう、だね。あんま血を飲みすぎたら悪いもんね、じゃあいただきます」
あくまで自分は今後血を飲ませてもらう立場になる以上、多少の不信感程度で断ることもできず、またせっかく作ってもらったので無下にするのも失礼なので素直に席につく。
「飲み物は水道水で大丈夫、だから」
「ん、そう?別に何か気にしなくてもいいけど、そう言うならそうしとくよ」
イアのしょぼい気遣いにあっさり気付きながらも、その意思を尊重して水を注いで渡してくれる。
「よし、いただきます」
「じゃあその、いただきます」
ショウが席につき手を合わせたのを見て、イアも合掌して用意してくれたものに口をつける。
「!おいしい」
「お、良かった。おかわりは一応あるから、欲しくなったら言ってね」
イアの反応に笑顔を浮かべながら、自分の分の食事を進めるショウ。そんな彼を気にも留めずに、舌に残る味わいにうち震えるイア。
別に血以外の飲み物を飲むのは彼女にとって珍しいことではない。空腹を紛らわすため、単純に味を楽しむため、ごく稀に贅沢として自販機で何か買うこともある。
だがそれらはほとんどが冷たいものだ。血より温かい、ともすれば舌が火傷してしまいそうなほどの熱い飲み物などせいぜいが冬を乗りきるために買うコーヒーやらホットティー程度で量も限られてて味も決まったものでしかない。
金の入手手段が限られている以上、それは効率的に使用されなければならない。故に店でスープを買うなんて経験はほとんどなく、まして具なしのものを探すなんてことは一度もなかった。
両親との生活以来初めての塩気や出汁の旨味、そして椀一杯という十分な量で味わうことができた喜びに思わず涙腺が緩んでしまう。それを誤魔化すために勢いよく残りを飲み干そうとしてあまりの熱さにうめいてしまう。しかしその感覚すらイアには楽しいもので、あっという間に椀の中身は空になっていた。
おかわりをしたい気持ちは山々だが、この楽しみを当たり前にしてしまうのはあまりにも勿体なく、鋼の意思で誘惑に耐え大人しく部屋に戻る。
腹が膨れ体の芯まで温まったため襲いかかったきたまどろみに抗うことなくベッドに横になって目を閉じる。
(やっぱりショウ君って良い人なのかな。料理も上手だし気配りできるし、疑っちゃって悪かったかな)
あまりにもチョロ過ぎて自分でも呆れてしまう程だったが、それでも内心のショウに対する評価が急激に上昇していた。
もうほとんど掠れてしまった父の手料理を思い出してしまったせいか、それとも単純にショウの料理が美味しすぎたせいか。
眠りに落ちる直前、先程まで抱いていた不信感は無くなっているのを感じていた。