武力
「九位?脱走?政府って、まさかショウ君のこと?」
どう考えても不穏な言葉に思わず警戒心丸出しにして、両手を握りしめながら胸元に寄せてファイティングポーズに近い姿勢を取ってしまう。イアとしては完全に無意識的にしてしまった行動なのだが、これによって相手側も戦闘の意志があると判断してしまったようで剣呑な空気が一気に広がった。
隣のショウにチラリと視線をやると、呆れたようなひどくつまらなそうな、イアの語彙力では表現できないとにかく微妙そうな顔をしていた。なんならわざとらしくため息をついて、やれやれとでも言いたげに肩をすくめる。露骨に挑発的な態度にイアには場の空気は更に数度下がったように感じられた、フード男がゆっくりと一歩ずつ近づいてくるごとに心拍数が加速度的に跳ね上がっていっているような気さえしていた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ!」
過呼吸気味に息が荒れ、冷や汗が噴き出る、口内の唾が干からびて呼吸するたびに喉が乾く。戦闘を好んでするわけでも専門家でもないイアだが、六十を超える生涯の中で危機察知能力と五感の鋭さは獣のそれと比較しても遜色ない。だからこそ彼女の本能は目の前の彼に対してけたたましく警鐘を鳴らしていた、戦うなど論外、さっさと逃げてしまえ、と。
狩刃やショウのような小細工や搦め手、人間由来の知恵と卑劣さを用いた理解不能の力とは違い、言うなれば野性的で根源的な力を感じている。膂力、速力、運動神経、子供も大人も原始人も文明人も等しく理解できる極めて数値化しやすい純粋な暴力、数多くの戦闘を乗り越え血を浴びた者のみが出せる覇気を漂わせていた。
(けど、今ここで逃げたら……)
彼の正体は分からないが、恐らくその目的はショウだろう。自転車がある以上最終的な速度、持久力では徒歩の彼は勝ち目がないだろうし吸血鬼のイアならその自転車にすら勝てる、追いかけっこなら問題はない。だが自転車は加速するのにほんの数秒だが時間がいる、彼がこの間合いでその数秒を見逃してくれるとはイアには到底思えなかった。
ショウのことを見捨てられないという理性と、今すぐ逃げなければという本能、その二つがせめぎ合い先ほどとは全く別の状態で頭はパニックになり立ち尽くしてしまった。
「女性を傷つけるのは趣味じゃないがね、邪魔するというなら一切の手加減なく頭蓋を砕くが、どうする?」
そう言ってギラリとイアを睨み、手に持った鉄パイプを肩にトントンと当てた瞬間、イアの体は気づけば前に飛び出していた。
「う、うわあああ!」
地面を蹴った瞬間襲ってきた痛みを叫び声をあげて誤魔化し、拳を握りしめて顔を撃ち抜かんと振りぬく。少女らしく可愛らしい声と雑なフォームとは裏腹にプロボクサー顔負けの速度の右ストレートだったが、軽く首を逸らしただけであっさりと躱されてしまう。
そこから更にその勢いのままに左後ろ回し蹴りを放つ。吸血鬼が人間よりも優れている部分は筋力や五感の鋭さだけではない、骨の硬度も消化器官以外の内臓機能も反射速度さえも高度なものを備えている。フィギュアスケート選手ばりの体幹と柔軟性による鞭のようなしなやかさと、キックボクサー並みの筋力と石のように硬い踵によるハンマー並みの威力をもったそれは誰もない空間を素通りし、フード男はイアの目の前から影も形も消え失せていた。
「あれ、いない?どこに……」
「驚いた、話に聞いてた吸血鬼は君か。そんな酷いフォームでそこまでの速度が出るとはね」
片足立ちで蹴りの勢いが残って回転したまま呆けた声を出した瞬間、下からそんな声が耳に届く。
「え……、きゃっ!」
無理に体勢を変えることができず、目線だけ落とそうとした瞬間地面についていた右足に何かが触れる。と思った直後、勢いよくひっぱられほんの一瞬無重力を感じ固いアスファルトの地面に腰を強打し痛みで目をつむりうめき声がもれてしまう。
フード男はイアが回し蹴りをするために視線を切った一瞬のうちに、地面にへばりつくほどに体勢を低くしてイアからの視界から外れ一本足で不安定になったところを崩して転ばせた、そしてイアが視覚情報を遮断している隙に立ち上がり鼻の先数センチに鉄パイプを突き付ける。
「何か不調でもあったのか、想定よりも大したことはなかったな。とりあえずもう邪魔するなよ」
下手に動こうものなら鼻の骨を砕き端正な顔面を陥没させてやろうという気満々の威圧を放ちながらイアを見下ろしそう吐き捨てる、比喩表現ではなく仮にこれ以上挑みかかろうものなら軽いケガじゃすまないだろう、下手したら後遺症などが残る、最悪死に至る可能性もある。
ただし、今彼女が動けないのは恐怖でも痛みでもまして彼の覇気にたじろいだなどというわけでもない。彼女の体を縛るもの、それは無力感だった。
(あ~あ、なんなんだろうわたし。別に自分のこと強いとは思ってないけど、それでも人間相手に真っ向から、しかもこんなにあっさりやられるなんて……。強い体だけがわたしの取柄だったのに欠片も通じなかった、今までたっくさんのものを貰ってきたって言うのにわたしはショウ君の事を守ることすらできない。情けないありえない許さない、そんなことあらゆる道徳にも理論にも反してる。ご飯も居場所も幸福も命さえもショウ君がいたから手に入れられた、だったらわたしが返せるものは全て使わないと。たかが痛いのが怖い程度で怯んでなんかいられない!)
突き付けられている鉄パイプをつかみ全力で引き寄せ近づいた顔面に拳を叩きこむ、そういう計画で動こうとした。そのはずだった。
何故か掴んで引き寄せる直前、全身に痛みが走り抜け体が動かなくなる。全身が痛み、押そうとしても引こうとしても筋肉が悲鳴を上げ、手を放そうとしてもピクリとも動いてくれない。結果さっきと体勢はほとんど変わらず、寧ろわざわざ無防備な姿を晒すという間抜けな絵面になってしまった。
「ふむ、まあ覚悟だけは認めておこう。あの状態からなお挑みかかろうとする勇気に関しては称賛ものだ、それだけだが。さて、それじゃあ」
「何する気だバカ、毎度毎度目を離したすきにノリで突っ込みやがって。少しも止まれないとかおまえウナギじゃなくてマグロなんじゃないか?」
「あいたっ!」
未だ微動だにできずゆっくりとした動きでイアにトドメをささんとした時、いつの間にやら隣にいた黒髪の謎の青年に頭を殴られうずくまる。つい数十秒前の緊張感はどこへやら、場にはギャグのような軽い空気が満ちていた。
「いや申し訳ない、君がイアちゃんだよね?このバカは取り返しのつくギリギリの範囲内で漫画のような仰々しいふざけた行動をとることがあってね、そのせいで初対面で内心の評価がマイナスになることが何度あったか……。僕の監督不行きのせいだ、どうか許してほしい」
つい数十秒前まで死の恐怖とそれをねじ伏せる強い想いを抱いていたはずが、気づけば片膝をついて丁重に謝られ頭を下げられるという、あんまりにもあんまりな状況に呆然自失となってしまい鉄パイプを放しているのに座りつくしたままになってしまう。
それを見かねたのかショウが傍によって立ち上がるために手を差し伸べながら声をかける。
「大丈夫?よほどの事にはならないだろうと思ったから傍観してたけど、まさか二人してここまでやるとは予想外で止めるタイミングを見失ってしまってね。ごめんごめん」
手を重ねるとグイッと引っ張り上げ、必然胸元に寄りかかるような姿勢になるが全身がボロボロで立つだけでも痛むのに加えて、唐突に過ぎる事態にそんなことを気にできる余裕はイアにはなく胸に手を当てたままパンク寸前の頭で現状を理解しようと頭を回していると更なる衝撃発言が飛び出してきた。
「久しぶりヘビ、ウナギも元気そうでなによりだ。とりあえず後で拳骨一発おみまいしてやるから、覚悟はしておけよ?」
「ウナギだけにしておいて、このバカ制御するには僕じゃ無理だよ、兄様」




