同棲生活の始まり
「その、じゃあお邪魔します」
「はい、いらっしゃい。掃除はしてるから大丈夫だとは思うけど、何か足りないものがあったら言ってくれると助かるよ」
公園から離れて数分、ショウに案内されて住宅街からやや孤立した一軒家にたどり着く。大きさとしては周囲にある家とそう大きく変わるものではないが、一人で使っているのだとすればいささか大きすぎるほどだ。
「あの、親御さんとかはいないの?わたしのことを受け入れてくれるのは嬉しいけど、吸血鬼だって事は隠してもやっぱり問題あるんじゃないの?あ、同居人と死別してるとかだったらごめんなさいなんだけど……」
「……っあ、いや大丈夫大丈夫。ちょっと複雑な事情があってね、説明するにはややこしいから流してほしいけど一人暮らしだから気にしなくていいよ。基本人が来ることもないし安心して」
(驚いた、結構人間の文化を理解してるんだな。っていうのは侮辱か、私は吸血鬼の事を何も理解していないんだ。吸血鬼だからっていう考え方はしないように気を付けないとな)
忘れがちではあるが世に存在する吸血鬼のイメージなどその大半がただの妄想の産物、物語の設定上のものでしかない。憶測が当たっている根拠は一切ないので、固定観念で考えることは控えるように自身に言い聞かせる。勝手に吸血鬼とはこういうものだ、と考えていたら碌なことにならないのは目に見えている。
すると当然だが共通認識の構築が必要になってくる、イアもどれほど人間の事を理解しているのか全く分からない以上お互いの常識をすり合わせるべきであるのは言うまでもないだろう。しかしそれをする前に。
(とにかく何か腹に入れないと辛い。そういや昨日の夕食にレバニラを作っていたはず……、血肉になるもの、それと水分を少しでも取らないと)
貧血を通り越して出血多量死間近の体は強烈に飢えとのどの渇きを訴えてくる。ただでさえ正午に昼食を取ってから何も口にしていなかったというのに、時計を見れば既に2時を回っている。無理やりにでも詰め込まなければまたすぐに命の危機が訪れるだろう。
体をふらつかせながら何とか冷蔵庫にたどり着き、入っていたスポドリをペットボトル一本分胃に流し込み蓄えてあった総菜を電子レンジに叩き込む。時間的にカロリーが、などという話は一切気にせず食べられるものは片っ端からテーブルに並べていく。
「そういえば君は物は食べるの?血を飲むしかできない、とかっていう感じなの?」
「えっと、血以外も飲めはするけど固形のものは無理で。食べても消化できずに吐いちゃって意味がなくて」
(ふむ、胃腸とかの消化器官が発達していないってところかな?固形は無理でも飲み物はいけるってことは。飲み物で得られる栄養素なんてたかが知れているし、なるほど血には酸素も栄養素もたっぷり流れているしな。となると栄養剤とかなら血の代わりになったりすんのかな?)
日本では血を飲む文化はかなり少ないが、世界的に見ると実のところ動物の血を使った料理というのは多い。中国では豚や鳥の血を料理に使用したり、ヨーロッパの国々は血のソーセージなど血を使った伝統料理がいくつも存在する。日本でもクマの血を飲む猟師が存在するという。
これらは獲物を少しも無駄にしないように、という精神もあるのだろうが、それ以上に栄養価がとても優秀だからだろう。場合によっては病原菌が詰まっていることもあるが、血は全身に栄養や酸素などを届ける役目をしている以上エネルギー源としては極めて効率の良いものだ。
同じく血を吸う蚊も実のところ血を常食にしているわけではない。メスが出産の際に多量の栄養素を獲得するためにあえて他の生物の周りを飛ぶ、という危険を冒してでも血を吸っている。消化器官の代わりに別の身体性能を引き上げて、栄養補給は吸血で、というのは理にかなっているように感じられた。
他にも考えられる説はあるだろうが、体調不良では碌に頭も回らずショウは思考を停止させる。もしここで吸血鬼の生態を解き明かせたとしても学会に発表できるものでもなし、余裕がある時に、と後回しにして電子レンジから取り出したものを自身の胃袋にねじ込む。
食事をしている最中にイアを観察する。顔の美しさは嫌という程認識したが、体格は服で分かりにくいが見た目通り女子高生のイメージが崩れない程度には華奢に見える。しかし髪はボサボサで服もボロボロ、汚れだらけで所々穴が空いている。公園で寝ていたことから察せられたが、あまり良い生活は送って来れていなかったことは想像に難くない。この家に持ち込んだ荷物も布袋一つ、しかも聞こえる音からしてとても無造作かつ無差別に入っていることが分かるが、それでもパンパンというわけではなくそれどころかかなり隙間があるように思える。
当然のことだがガチガチに緊張しているようで一挙手一投足をジッと見てきて食べにくいことこの上ない。空腹が上回っていたためそれでも平然と食事は続けるが、平常時ならばほとんど喉を通らなかっただろう。
ようやく食べ終わってもそれは止まらず、皿を片付けようと立ち上がるとビクッと体を震わせ怯えた様子を見せる。同じ状況ならば誰であろうとそうなっただろうから特に気を悪くすることもなく、できる限り好奇の視線を控えて冷静な態度をとる。
「とりあえず、君って本物の吸血鬼なの?吸血衝動のある人間とかそういうのじゃなく?」
「あ、うん。血を飲まなきゃ生きていけないっていうのは本当だし、人間じゃないのも事実だけど、本物かって言われると多分って感じ、かな」
「というと?」
「吸血鬼って人間が付けた名前だから。もしかしたらご先祖様とは違うのかもしれないし、ハッキリとは言えないから、多分」
「なるほど、それは道理だね」
当たり前すぎて忘れがちだが、この世に存在するほぼ全ての名称は元からそういう名前がついていたのではなくて人間がそう名付けたから呼ばれているだけの話だ。何なら人間も、勝手に自称しているだけの話で人間という名前に最初から決まっていたわけではない。
少々細かい話ではあるがイアの言葉は的を得たものだろう。カエルが自分の事をカエルだと自称しているわけではないように、あくまで彼女たちも自身を吸血鬼とは名乗っていない。本物であるか、という話は大して意味をなさずあくまで血を飲むことで生きている、という事実だけが存在しているのだろう。
「あとこれは分かり切ってることかもしれないけど、別に血を飲み干さなきゃいけないってわけじゃないんだよね?多少は自分の意志で量をコントロールできるって認識で大丈夫?」
「うん、さっきいっぱい飲みすぎちゃったのはここ二週間以上一滴も血を吸えなかったからで。いつもはむしろわたしは小食な方だよ、二日に一回飲めればいいぐらいで。血を一滴残らず吸うのはわたし達にとって儀式的な意味合いを持つんだ、大切な相手の一部を自分の中で生かし続けるって」
その一回がどれほどの量なのかは今後確かめる他ないが、少なくとも人間よりはよほど燃費が良いことが伺える。一日三食食べてもなおお腹が空く者は普通にいるのに対して、二日に一回とは個人によるだろうがそれでも吸血鬼全体として人間よりも高性能だ。
血を飲むと精がつくとはよく言うが、血を飲むことに特化した身体構造をしている吸血鬼はその部分も人間とは比にならないのだろうか。何にしてもうらやましい限りである。
(他にも聞きたいことは山のようにあるけど、今の体調とか時間を考えるとこれ以上は辛いか。明日が土曜なのが唯一の救いか)
次は何を聞こうかと頭を回していると、突如グラリと視界が歪んだ。食べたものが即座に体に吸収されるはずもなく、現状体は死にかけのままなのだろう。体は痛烈に休息を求めている。
仕方なく質問は後回しにしてこれからの話に移る、どれだけ体が怠かろうがこれだけはしておかなければこれから何時間も放り出してしまっては申し訳ない。
「もしこれから行き場がないんだったら、このままうちで過ごさない?見ての通り部屋は余ってるし、嫌なら私から積極的に関わったりはしない。最低限衣食住は保証するし悪い話ではないと思うんだけど」
「……何でそこまでしてくれるの?もしかしてわたしの体が目当て?それなら嫌だよ、血を吸っちゃったのは悪かったけどわたしそういうのは好きな人としかしないって決めてるからね。それするぐらいなら、また公園暮らしの方がいい」
イアのその言葉にショウはパチパチと目を瞬かせて数秒理解に時間を使うと、クスリと笑いを零した。
「全然そんなことは期待してないよ、ただ単に行き倒れた女の子が可哀想だな、って思っただけさ。まあそれと吸血鬼っていうのにシンプルに興味があるからかな、もしよければこれから吸血鬼ってどういう生活をするのか、とか聞きたいんだけど駄目かな?やっぱり怖い?」
最大限好意的な笑顔を顔に浮かべて手を伸ばすと、イアはおずおずとその手を掴んだ。
「その、じゃあよろしく」
「うん、よろしくね。ひとまずは、そこのソファーを使ってもらって良い?起きたら部屋の用意はするから。もし眠れないんだったら、リビングにあるものだったら好きに触ってくれて構わないから。悪いけどもう私寝るんで、今晩はちょっと我慢してね」
「ああその、ごめんなさい。気にしなくてもいいので、ゆっくり休んでね」
「ありがとね、んじゃおやすみ」