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ながめせしまに

作者: 貴志埜舞

人間の脳内には誰でも複数の異なる人間となり得る何かが潜んでいると考えていて、それを極端に推し進めて、肉体を持って生まれて来る事が出来なかった双子の妹の魂が宿っていると構成した話です。

          プ ロ ロ ― グ

青春時代は夢見る時代。

 思い切り夢を見て、傷ついて、そして涙をたくさん流せばいい。

流す涙のない青春の思い出など振り返る価値はない。

夢見ることをためらってはいけない。

すぐに夢という言葉すら忘れてしまう時代がやってくる。

この物語は、奇跡の6人組と呼ばれた杉山竜、三木裕、矢島健介、弓田登、児玉秀臣、大野博士の6人と謎の美少女ミキという夢多き若者7人の織り成す青春の物語の断片であるとともに、稀有な運命を背負って生きる竜の半生を、いつも一緒に生きて来た私が記録したものである。

               1

 同じような長い夢をよく見ると竜は言う。この時はまだ夢が暗示する意味を竜は知らない。

一学期の期末試験最終日の昼休みのことである。竜の周りには矢島、弓田、児玉そして大野といういつものメンバーが座っている。三木君の姿は見えない。売店にでも行ったのであろう。クラスの他の生徒は、まだ食事中の者もいるが、ほとんどは次の時間のテスト勉強に夢中である。もうすぐ高校3年生1学期の期末試験が終わる。7月のとても暑い日だった。でも、今日が終われば、終業式までの3日間は事実上のお休みだ。そして夏休みがやって来る。だからみんなどこか浮き浮きしたところもある。そんな中、長くなるよと言って、竜は話し始めた。

―路地裏で小さな男の子と女の子が遊んでいる。同じ柄の服を着ている。どこの街かは分からないし、二人の顔もぼんやりとしか見えない。でも、男の子は僕自身だと思う。女の子は,いつも一緒に遊んでいる子だ。名前は知らない。辺りはもう薄暗くなっている。

母親の呼ぶ声が聞こえて、男の子は急いで地面に広げていた宝物一式を袋に入れて、家に戻る。-

「女の子はどうした、どこに隠した。ここはとても大事なところだ。ゆっくり話を聞こうじゃないか、杉山君。」

そう言って矢島君は、テレビドラマでよく見る刑事が職務質問する際に警察手帳をかざす仕草を真似た。

でも、大野君が、おい!静かにしろよと言って怖い顔で睨んだので、矢島くんはまるで亀のように首を竦めて黙ってしまった。

大野君はこういう夢の話に大変に興味を持っていて、昼休みなどはしばしばフロイトの本を開いて読みふけっていた。せっかく竜が面白そうな夢の話を始めたのだからお前は静かにしていろと言いたげな目だった。

竜のほうは、いかにも矢島君らしいユーモラスな鋭い突っ込みに苦笑いしながら話を続けた。

―玄関を開けると、家の中は真っ暗で何も見えない。それだけではない、眼を開けることすらできなくなる。眼を開けようとしても瞼が鉄の扉のように重い。

 手探りでようやく探し当てたスイッチを押してみる。確かにスイッチを押したはずなのに、手には何の感触もなく、勿論、部屋の灯は点かない。

それを何度も繰り返すが結果は同じだ。

母親が家にいる気配も全く感じられない。

 闇の世界に閉じ込められた、そう思って、助けを求めようとするが、いくら大声で叫ぼうとしても、どうしても声にならない。

すると、どこからか「まだなの?」という男の子の声が聞こえてくる。「もうすぐよ。だからおとなしく待っていてね。」その子のお母さんのようだ。声に聞き覚えがあるような気がするが、自分の母親の声とはずいぶんと違っている。母親は元気がよく、低く太い声であるが、聞こえてくる女性の声は、少し高く、やさしい感じがする声である。

何を待っているのだろう。どうしてそういう会話が誰もいないと思った家の中で聞こえて来たのだろうと不思議に思うけれど、とにかく人のいる気配がしたことに僅かながら希望の光を感じ、声が聞こえてくる方向に近づこうとする。

しかし、暗闇の中では思うように進むこともできない。もがいているだけである。

何かに躓き、ひっくり返る。何とか立ち上がり、またひっくり返る。仕方なく這って進む。そんな感じだ。

突然、嘘のように世界が明るくなる。眩しいくらいの明るさだ。

 よかった、夢だった。

 そう安堵するが、よく見ると、そこは行ったことも見たこともない見知らぬ家の居間である。

家の人に見つかったら大変だ。見つからないうちにこの家から出ていかなければと焦るが、その気持ちは、自分が、まだパジャマ姿であることに気が付くことで見事に裏切られる。

その辺にあるシャツを着て、ズボンを穿いて靴下を探す。しかし靴下が見つからない。

そうやっているうちに、いつの間にか、自分の家の自分の部屋にいる。しかも、小さな男の子ではなく、今の自分、つまり、高校生の自分になっている。

自分の部屋で、ようやく靴下を見つけてやれやれとそれを履こうとすると、今度は履いたはずのズボンを履いていない、シャツも見当たらない。

ここでも何度も同じことを繰り返すうちにどんどん時間が経ち、夕闇が迫ってくる。間に合わない、間に合いそうもないと気ばかり焦る。何を急いでいるのかは分からない。そのうち、どこかの建物から人がぞろぞろと出てくるのが見える。やはり、間に合わなかったと諦める。

 だいたい、このあたりで今度は本当に目が覚める。自宅のベッドで寝ている自分を確認してほっと胸を撫で下ろす。

 こういう夢を何度となく見る。多少のバリエーションはあるが、基本的な流れは同じ様なものだ。―

 ようやく竜が語り終えたとき、はっきりと目覚めていたのは大野君だけだった。

 蒸し暑い七月の昼下がりである。昔のことだから教室には冷房などない。その気怠さの中で竜が語る夢の話は睡魔を誘う。

どうせ作り話さ、という思いは聞いている者に睡魔との闘いの武器を与えてくれない。

矢島君と弓田君は、睡魔に完全に圧倒されて白旗を揚げたようだ。

児玉君も眠そうな眼をしながら、よくそんな風に夢のことをはっきりと覚えているものだなあと感心した風に言った。いや、あれは感心したのではなく、呆れたという顔だ、間違いなく。

夢を反芻するからだろう、つまり、目覚めた後で、見たばかりの夢のことをあれこれと考えて頭の中で再現しているのではないか、大野君はそう言って竜の顔を見た。

そのとおりだった。竜は、朝起きてから、しばらくは夢と現実の間を彷徨する。その儀式を終えてから漸く一日が始まるのだった。

竜が頷くと、大野君は、夢には根が生えている。何もないところから、突然、夢が生まれることはない、夢の花には必ずその花を咲かせる現実という根があるのだ、と言う。

「と言うことは、完全変態の大野ハカセの説によれば、杉山竜君17歳は女の子と遊んで暗い部屋に入った現実があるということになるな。」

矢島君が覚醒した。退屈な話だと思ってほとんど眠っていたのだが、急に、頭が高速回転し始めたのだろう。顔を少し赤らめ、いかにも嬉しそうに目を輝かしている。

「しかも、他人の家でズボンまで脱いでいることになる、大変だ、これはもう事件だ。おかみさん、事件ですよ!」

 弓田君も続ける。こちらも矢島君と同じように顔が生気を取り戻している。二人はいつだっていいお笑いコンビなのだ。

そんな矢島君や弓田君が言ったことは全く無視して、大野君は、現実に体験したことと夢に現れることが一対一では対応するわけではないと言った。

 大野君は、そう言ってから矢島君や弓田君を黙っていろという目で牽制したが、矢島君は、数学の参考書は、一対一の対応なのだ、と悪戯っぽく呟いて、大野君に睨まれる前にさっと横を向いて寝たふりをしてしまった。

そんな矢島君得意のギャグにも構わず大野君はさらに話を続けた。彼にしてみれば、サッカーに例えると、竜の夢の話は自分にとっての絶妙なパスだ。キーパーとそれこそ一対一、一番の見せ場なのである。

それなのに、いきなり、矢島君や弓田君が横でバットをブンブン振り回し始めたので機嫌を損ねている。お前たちはそのまま寝ていろ、とでも言いたげだった。

「過去に起こったこと、経験したことが記憶として残り、あるとき、記憶の底からプクプクと浮かんでくる。しかし、経験したことそのままではなく、姿や形が変わって現れる。変形させる力は、おそらくエゴだろう。心の中にある欲望や恐怖などのどろどろとした塊だ。変形の仕方はそのときに優勢な感情により左右されると思われる。」

こう言って、大野君は、さらにフロイトについて語り出した。

もう誰も大野君の話をまともに聞いていない。矢島君や弓田君はまた眼を閉じてしまった。フロイトの話は別のところでやってくれ、ということなのだろう。

「俺は夢など見ない。」

いつの間にか教室に戻ってきていた三木君が、突然はっきりとした口調で大野君の話を遮った。

「誰だって夢を見るさ。夢を見ない人間なんていないよ。」

大野君の口調は、少しむきになっているそれだった。それで三木君も、見ないものは見ないんだから仕方ないだろう、と強い口調で応じたので、二人の間に険悪なムードが漂い始めた。  

こんなときこそ、矢島・弓田コンビの出番だ。のんびりと寝ている場合ではない。

矢島 エゴ!

弓田 江戸?

矢島 フロイト!

弓田 古井戸?

矢島 潜在意識?

弓田 洗剤一式!

二人揃って 江戸の古井戸で洗剤一式、長屋のおかみさんたちの井戸端会議!

二人の即興の掛け合いのダジャレの羅列の馬鹿馬鹿しさにみんながお腹を抱えて笑ったところで、ちょうど昼休みが終わった。

               2

「大野も洒落が通じないからなぁ。」

三木君は、そう言いながら苦笑いを浮かべた。

彼の家のリビングで二人は「珈琲」を飲みながら寛いでいる。二人が飲んでいるのは、正確には、珈琲のようなもの、と言うべきかも知れない。砂糖とミルクをたっぷりと入れてある「お子チャマ仕様」だ。これを珈琲と呼ぶのは珈琲に対し失礼というものだろう。

それでも二人は「珈琲」を飲むことで、少しだけ大人になったような気がしている。

「いくら現実派と呼ばれる俺だって眠っているときは夢くらい見るさ。」

三木君は竜と違って、極めて現実的で、自分の現在の立ち位置に敏感である。

ボーとしていて、夢ばかり見て、流されるままの竜とは好対照だ。

正反対な性格なので、かえってぶつかり合う面もないせいか、二人は馬が合う。中学に入って間もなく親しくなり、それ以来、竜は頻繁に三木君の家に遊びに行くようになった。

「期末試験、終わったんでしょ。」

 三木君のお姉さんの葉子さんがいきなり顔を出した。美人である。

 竜が、葉子さんと初めて会ったのは、中学に入って間もなくだった。三木君に誘われ、土曜日の放課後、初めて三木家に寄り道したときだった。

葉子さんは何時だって突然現れる。そのときも、突然だった。

竜は、急に現れた葉子さんを見て少し興奮する自分に驚きながら、覚えたての難しい熟語を使ってみた。

「才色兼備タイプなんですね。」

即座に、「タイプは付けなくていいのよ。才色兼備ってだけ言えばいいの、マイシスター。」と切り返された。

 マイシスターという言い方にびっくりして三木君のほうを振り返ったが、全く何の反応も示していなかった。

 あるとき、葉子さんに聞いてみた。当たり前のように、妹みたいなものだから、という答えだった。 葉子さんは、見た目は少し冷たい感じもするが、竜に対しては、いつも優しいお姉さんでいてくれた。会っていると、まるで、おくるみにくるまれた赤ん坊のような心地よさだった。

 竜は一人っ子、兄弟姉妹がいない。小さい頃から兄弟姉妹というものに憧れがあった。親友と優しい姉が揃っている三木家に頻繁に遊びに行ったのも当然である。

「さっき、大野変態博士がどうのこうのって言ってたわね。」

 葉子さんは、耳もいい。

 三木君が昼休みの出来事をかいつまんで説明し、最後に、大野変態博士なのではなく、完全変態の大野ハカセだからね、と訂正した。

「高校生って、自分の得意な話になると、そのことばかり考えてしまって、周りのことなんか見えなくなるのよね。」

「何しろサナギだから、何も見えなくて当り前さ。あっ、芋虫でも見てないか。」

 竜がそう言うと、二人は、芋虫になった大野君の姿を思い浮かべて、涙を浮かべるほど笑い、しまいには苦しい、苦しいと叫び出すほどだった。

 大野君は、中学に入学するのが、家庭の事情で10年遅れた、というデマが信じられるくらいに老け顔だった。高校生になって、無精髭もかなり目立ち、白髪まじりで定年退職後の人のような雰囲気さえ出て来ていたのだが、ぬうーっとしている様は、サナギというより芋虫と呼ぶのがぴったりだった。

―小学生は卵だ。真っ白な純真さを持っている。中学生になると卵から芋虫になり、純真さを失う。そして自分の醜さに気づかず、あちらこちらを勝手気ままに這いずり回る。わざと大人が嫌がることをしては面白がる。たいていは、高校の途中で、サナギへと変化して、騒々しさが薄れ、少しずつオトナに近づいていく。成長過程において、このサナギの段階を経ることを完全変態と呼ぶ。そしてサナギはいつか蝶になる。芋虫は、暗黒の世界の生き物であるが、蝶になるためには、どうしても避けて通れないステップなのである。僕たちは今、その芋虫なのだ。-

 大野くんが中学校の卒業記念文集に載せた「僕たちは芋虫だ」の概要である。

 中学を卒業するといっても、中高一貫校なので、単に3年生から4年生に進級するだけという雰囲気がある。卒業式さえ行われなかった。

 だから、卒業文集など真面目に読む者もほとんどいなかったのだが、ここに現代の平賀源内、矢島健介がいたのである。

矢島君は、「大野ハカセ完全変態説」とネーミングして、あちこちで大野君の「僕たちは芋虫だ」の話を面白おかしく脚色して話して回った。大野君の名前は「ひろし」と呼ぶが矢島君は「はかせ」と読んで、話を広めた。話の内容から言っても「おおのひろし」では面白さが足りない、「おおのはかせ」でなくっちゃ、矢島君はこの辺りも抜かりがない。

まさにウナギの蒲焼を広めるのに「土用の丑の日にはウナギの蒲焼を食べるとよい」という宣伝文句を考えだした平賀源内のような存在だ。随分とスケールは違うけれど。

この矢島君の話が大受けに受けて、あっという間に完全変態の大野ハカセの存在は学校中に知れ渡った。

もっとも、大野君自身は、からかわれていることに気づいてはいても、俺も随分と有名になったものだと意に介さないどころか、本当に喜んでいるふしさえ見られた。

 それは、大野君が、好評につき第2弾と言って、高校の卒業記念文集には、性懲りもなく「幼稚園児の防衛」というタイトルの短文を載せたことでも分かる。

―男は、いくら歳をとって外見が大きく変化しても、なかみは変わらない。こどものままだ。大会社の重役さんが高そうなスーツに身を包んで、これまた高そうな椅子に座ってふんぞり返っていても、その精神年齢は、幼稚園児のときと変わってはいない。それを見破られないように、無意識のうちにやたらと目下の者に強い態度をとるのである。あれは幼稚園児の防衛本能の為せる業なのである。-

 おおよそ、こんな感じのものだったが、大野君の期待に反し、全く話題にすらならなかった。

矢島君が、受験で忙しく、文集が配られたその日に読みもしないで、ごみ箱に捨ててしまったからである。

平賀源内がいなければ、江戸の鰻屋も店じまいするしかないのである。

               3

 大笑いしたその腹の痛さも治まって、三木君の部屋で、最近凝っているというクリームのライブのLPを聴いた。レコードである!何しろ、昭和40年代のことであるから。

 三木君は、かなりボリュームを上げた。エリック・クラプトンとジャック・ブルースが互いに張り合って大音量で演奏したので、相当大きな音にしないと雰囲気が伝わってこないというのだ。

 竜は、ロックを聞きながら昼寝をする、これが趣味だ。趣味というのも変ではあるが、集中して聞いているといつの間にか眠ってしまうのだった。最後まで起きて聴いていられるのは良い作品ではない、いつしかそう思うようになった。

「お能もそうなのよ。」

 ミキちゃんが少し恥ずかしそうに言った。

「そうなの?」

「そう。何回か、お能に連れて行かれたけれど、いつも途中で居眠り。」

「なんだ、そういうことか。」

「違うの。偉い先生が、優れた能は、眠くなるって本当におっしゃったの。」

「始まる前から鼾をかいて寝ているっていうのは、あれは、違う、よなあ。」

「なんだよ、それ。」

「ほら、春にみんなで日比谷に映画を見に行ったときさ。明日に向かって撃て。」

「ああ、ああ、あの人か、思い出した。あのサラリーマン風の人、最後まで眠りこんでいたね。」

「疲れていて、眠るために映画館に入った、そういう感じだった。」

「勿体ないよね、いい映画だったのに。」

「でも、最初は映写機が壊れているのかと思ったわよね。」

「うん、いきなりだからびっくりした。」

「あれが芸術性ってやつなんじゃないか。どうせ、今までキングコングとか、そういう映画しか見たことなかったんだろう。」

「ひどいな。本当だけれど。駅裏の汚い映画館の3本立てのチャンバラ映画とかね。映画が始まる前にニュース映画があって、プロ野球の映像なんかが流れるんだ。」

「いつの話?」

「小学校に上がった頃の記憶。家にまだテレビもなく、メンコやベーゴマに夢中になっていた頃さ。ベーゴマを探して近所の工場に忍び込んだりして。」

 ミキちゃんの目が丸くなった。

 軽蔑されたかな、竜は、少し調子に乗りすぎたことを後悔した。

「それはそうと、俺がポール・ニューマンでいいよな!」

「じゃ、僕が『俺は泳げないんだ』のロバート・レッドフォード?」

「いいじゃないか。背が高いんだし。」

「私は、キャサリン・ロス?それともそれは葉子さんかしら。」

「姉貴は出て来なくていいよ。」

「『明日に向かって撃て』も勿論よかったけれど、『卒業』のキャサリン・ロスもよかったわ。」

「見たの?」

「見た。サイモンとガーファンクルのサントラ盤も買っちゃった。」

「サウンドオブサイレンスやミセスロビンソンだね。」

「教会の窓を叩くシーンは最高だね。」

 三木君が窓を叩く真似をする。

「私は最後のシーン。」

「バスに二人で乗って逃げていく、あれ?」

「そう。ダスティン・ホフマンは、花嫁を奪って、してやったりの表情だけれど、キャサリン・ロスは違うのよ。」

「どう違うの。」

「もう、明日からの生活を考えている、そういう感じ。夢と現実、男と女の違いを表情だけで表現しているのだと思ったの。」

「同じ映画でも見ているところが随分と違うんだなあ。」

「そうだね。そういうところって全然気が付かなかった。僕らやっぱりまだ子供なのかなあ。」

「それはそうと、受験が終わったら、今度はオーストラリアだーって言いたいね。」

「その前にボリビアで蜂の巣にされないように気を付けてね。」

 竜は、目覚めた後、大きなあくびをして、それじゃあまたねと言って、三木家を後にした。

               4

「竜、三木君だよ。」

竜の母親はとても嬉しそうだった。

中学3年のときだった。電車を降りるときに、三木君が間違って竜の鞄を持って降りてしまい、途中で気が付いて、家まで鞄を取り換えにきたのだった。それが、三木君が家に来た最初だった。それにしても三木君が来るまでカバンの取り違えに気が付かない竜も竜である。

「よくウチが分かったね。」

「素晴らしい勘だろう。嘘、駅前の交番で聞いてきた。」

「三木君は、綺麗なお姉さんがいるんですって?」

カルピスを作りながら、母親が葉子さんのことを話題にした。

「いつも竜に優しくしてくれるって聞いているのよ。一人っ子だから、三木君が羨ましいって。」

「竜は特別ですよ。僕にはちっとも優しくない。それに竜は、年上の女性から可愛がられる何かがあるみたいで、母も竜のことをすごく気に入っているんです。」

「お母様が?」

「ええ。矢島や児島のところもおんなじようですよ。クラス写真を見て、竜が可愛い、可愛いって言っているみたいで。矢島なんか、うちの親は目が悪いか、審美眼が狂っているかどっちかだなんて。あっごめんなさい。」

「いいのよ。親から見ても、竜は男っぽさに欠けるところがあるから、矢島君なんかは、どうして、って思うんじゃないの。」

竜は反論しない、いや、できない。小さい頃から、近所の男の子と走り回るようなこともせず、一人でいじいじと粘土を捏ね回して遊ぶ子だった。何かと言うと、すぐに涙が出てきてしまい、男らしくないと父の機嫌を損ねることもしばしばだった。

「男子校に入って大丈夫なのかと、随分と心配だったのよ。」

「そう言えば、入ってすぐは、一人でぼんやりとしていました。おとなしい奴だなと思ったけど、本当はそうでもなかった。意外でした。みんなと話すようになったらペラペラペラペラとうるさいくらい。あっ、またごめんなさい。」

これまた、竜は黙って聞いているしかなかった。そのとおりなのだから。

「赤ちゃんの時もね、なかなか言葉を話し出さなくってね。みんなで心配をしていたの。大丈夫だろうかって。そうしたら、一旦話し始めたら、それはそれはうるさいくらい。私にまとわりついて、あれはなんだ、これはなんだって。毎日なのよ。家族で出かけたときにもね、駅の看板を見て、それを始めたものだから電車に乗り遅れてしまって。」

竜の母は、昔を思い出して笑いながら話した。

竜もそのときのことはよく覚えている。父が本当に激怒したことも一緒に。小学校に上がる少し前だった。

「そんな子だから、三木君、よろしく。」

「こちらこそ、です。」

このとき、三木君は、あることを話そうかどうしようかと迷っていたという。

矢島君が、竜に「リン」と渾名をつけたことだ。竜の肝と書いて「りんどう」と読む。竜は肝を欠いているから「リン」と読むと言うのがその理由だ。度胸がないと言うのと、文字面で肝がないというのを上手に掛けている。いかにも矢島君らしい。竜も、リンという響きが好きだと言って、このあだ名を結構気に入っていた。三木君は、今、ここでこのあだ名のことを話せば竜の母親も笑ってくれるかも知れないとは思ったけれど、竜のことを貶してばかりいるみたいになるので、迷っていたのだそうだ。

結局、そのことを話すのは止めにして、とっておきの自分の母親の名前の話をした。

「うちの母は、幹子という名前なんです。木の幹です。ミキミキコです。」

一瞬、竜の母の顔が凍りついたかのように見えた。

それに気が付かずに三木君は続けた。

「結婚前は、桜木だったんです。桜木幹子。桜の幹は毛虫だらけだって、小学校の頃に随分とからかわれて嫌だったって。それで、結婚して苗字が変わるのをとっても楽しみにしていたそうです。でも、好きな人ができて、つまり、ぼくの父ですが、気が付いたらミキミキコになっていたんです。」

竜の母の表情から強ばりが消え、感心するやら、笑いを堪えるやら、と言った顔になった。

この話は、勿論、作り話である。本当は三木君の母親の名前は、君子であり、結婚前の姓は桜木ではなく桜田である。あるとき、「キミコ」を「ミキコ」に並べ替えると「ミキミキコ」になることに気が付き、それ以来、あちこちで受けを狙って話す三木君の十八番になっている。

お母さんの名前の話で竜の母親を笑わせることができたので、三木君は任務完了という顔をして帰って行った。来る途中から、どのタイミングで話そうか、ずっと考えていたに違いない。

「帰っちゃたね、三木君。」

竜の母は少し寂しげである。

「反対だったら良かったのかなあ。」

「どういう意味だい?」

「だって、三木のお母さんは僕のことを気に入ってくれているし、葉子さんも優しくしてくれる。それで、お母さんは三木のことを気に入っているみたいだし、お父さんは僕に厳しすぎるから。」

「馬鹿言うんじゃないの。竜はお母さんにとってもお父さんにとっても大事な、大事な一人息子なんだよ。そんなこと言ったらバチが当たるよ。それにお父さんが厳しいって言うけれど、何とかお前を早く一人前にしたくて仕方がないんだよ。」   

竜の両親は、ひと回り以上も年齢が離れていた。結婚してからも子どもができず、竜を授かったときには、父は四十代半ばを過ぎていた。竜が本当に一人前になるまで、自分が生きていられないかも知れない、父はそう考えて、竜を厳しく育てている、竜の母はそう語った。

               5

 昭和45年春、竜たちは高校三年生になっていた。大阪で万博が開かれ、日本中がある種の興奮に包まれる中、ハイジャック事件が起きて世界の現実に引き戻された、あの春である。

竜たちの学校は下町にあって、進学校ではあるが、やんちゃ・腕白が知性を覆い隠しているタイプの生徒も数多くいた。言葉遣いも荒々しく、普通の会話でも、それを文字にすると、まるで喧嘩をしているようだ。

稀にではあるが、山の手の言葉を使う生徒もいたが、そういう言葉を聞くと、体がムズムズしてしまう、そういう生徒が多数派だった。

また、中高一貫の男子校なので、まわりは男ばかりが山のようにいて、学校の中では、異性を意識して気取った振る舞いなどする必要もなかった。実際には、校内に僅かながら女性もいるにはいたが、残念ながら生徒たちの眼には入らないようだった。

だから何かあると、たちまち脱線、暴走、決まってお祭り騒ぎになってしまう。芋虫の盆踊りかカーニバル、そういう感じだった。差しさわりがあるので具体的には書けないが、今だったら社会的大問題になるような悪戯もやっていた。まだまだ若者への優しさ、将来性に対する社会の期待といったものが残っていた時代だからこそ許されたのだろう。

教師はよく、持て余し気味に、君たちは詰襟を着た幼稚園児の集団だと嘆いていたが、まさにその表現どおりの賑やかすぎる、荒っぽい男の子の大集団なのである。

さすがに、高校三年生ともなると、最上級生という立場から、それまでのようにバカをしているわけにはいかなくなる。やんちゃ坊主の次男坊・三男坊が長男の立場になって自分の立ち位置を少し意識し始める感じだ。

まして、彼らにとっての最大のイベントである運動会、いや、その運動会の華、高三棒倒しが終わると、やがてやってくるはずの大学受験を意識し始め、自然と口数も少なくなってくるようだ。大野ハカセが言うところの芋虫からさなぎへの変化である。

いくら期末試験があと一科目で終わるといっても、昼休みにのんびりと夢の話をする竜や、それを聞いてなんだかんだと騒がしくしている矢島君、弓田君、児島君、大野君そして三木君は少し他の生徒と違っていたと言える。

この6人は、奇跡の6組と呼ばれ、中一から高三まで6年間同じクラスだった。成績順に機械的にクラス分けをする学校で、6人が6年間同じクラスになるというのは、文字どおり奇跡なのである。

 葉子さんに言わせると、竜以外の5人は竜の護送船団の役割を負わされているのだそうだ。そう言われるとそんな気もする、そういうグループだった。

 三木君の家から帰り、竜はローリングストーンズのベスト盤、初めて自分の小遣いで買ったL Pをかけた。

「マイナー派なのよね。」

 ミキちゃんに言われたことがあった。

 確かに、小学校のとき、長調の曲と短調の曲を聴き比べ、どちらが好きか、手を挙げさせられたことがある。50人以上もいるクラスの中で、短調に手を挙げたのは竜を含めてたった3人だった。数の上でもマイナーだったのである。

「明るい曲は苦手なんだ。落ち着かない。」

「竜は、家で昼寝するときは、押し入れに頭を突っ込んで寝るんだってさ。」

 三木君が横から言わなくてもいいことを言った。

「そんなに暗いと女の子に嫌われるわよ。」

 これは葉子さんが言ったのかも知れない。

 そう言われてもどうしようもない。何しろストーンズで一番好きなのが「黒く塗れ」なのだから。     

「バッハとモーツァルトで、どっちが好きかというのもあるぞ。」

 これは三木君が持ち出した。

「どっちも良くは知らないけれど、どっちかと聞かれればバッハの方だね。モーツァルトって頭が痛くならない?」

「ならないだろう、普通。ま、俺もバッハ派だけれど。」

「これもメジャーとかマイナーとか、そういう話?」

「いや、バッハ好きは論理的、モーツァルト派は情緒的なタイプ。」

「適当に作った話じゃないの。」

「そうかも知れない。でも俺ではない。」

「私はショパン。」

「ショパンは知ってる。別れの曲でしょ。あの曲は好きだ。」

「やっぱり、ね。竜は根っからのマイナー派だということがはっきりした。」

「そう言えば、バッハで、これはいいなと思ったのは、トッカータとフーガ二短調ってやつだった。」

「それって、あれだろ。ウォーカーブラザーズのインマイルームの出だしの部分、そうだろ。」

「バレたか。本物のクラシックの曲は聞いたことがない。」

「どうせ聞くなら、ジャック・ルーシェトリオのジャズが良いわよ。プレイバッハ!」

 これも葉子さんだったかも知れない。

               6

「どうする?」

「京都!」

「京都?お寺しかないでしょ。」

「そのお寺を廻ってみたいんだよ。」

「修学旅行で廻ったでしょ、結構。」

「そうだけど、銀閣のあの寂れた感じなんか最高だと思う。何度でも来てみたいと思ったんだ、あのとき。」

「大野らしいなぁ。」

「矢島はどうなんだ?」

「やっぱり北海道しかないでしょう。」

「北海道か、冬の寒いのが辛いな。春や夏はいいけれど。」

「そんな年寄りみたいなこと言うなって!パウダースノーはいいぞ。去年のスキーツアーは一生忘れられないよ。サッ、サッ、サササッとね。」

「パウダースノーとかで雪だるま作るとそんな音がするのか?」

「滑ってる音に決まってるだろ!」

「滑って転んでサッ、サッ、サササッ。」

「お前らいい加減にしろよ。」

「ところで弓田はどうなんだ。」

「俺はさ、九州に行ってみたいんだ。」

「コンビにしては、矢島と南北正反対の場所だな。」

「古代史が好きだから、九州で幻の邪馬台国を探したいと思ってさ。一応、ライフワークにしたいと思っているテーマだから。」

「僕は仙台。」

「児玉ン家は、もともとあっちのほうの出だっけ?」

「うん、親戚もいっぱいいるし、何てったって美人の従妹が待ってるんだ。」

「待ってないって!」

「そう、待ってない、待ってない。そんなものは待っていない、ソクラテスもそう言っている。」

「プラトンだろう。」

「ハイ、ハイ、ユアリーカ、分かったよ。後になって、あの美人の従妹を紹介しろ、って言ったって、ダメだからな。」

大野君の京都、矢島君の北海道、弓田君の九州そして児玉君の仙台。

卒業旅行の話をしているようにも聞こえるがそうではない。受験のことである。いわゆる第一志望の話である。

 聞きようによっては傲慢に聞こえなくもない。受けると決めれば合格すると言っているようなところがあるから。

しかし、三木君の観察によれば、大学名を直接出さないでいるのは、受験のプレッシャーのなせる業なのだという。

「すこし震えてるんだよ、あいつら。」

三木君に言わせると、彼らの意識はこうだ。

―具体的な大学の名前を出すと、目の前に受験という巨大怪物が立ちはだかっている現実を意識せざるを得ない。それで少し斜に構えたふりをして、現実の圧力を正面から受け止めるのを避けようとしている。-

「竜君は東大に決めたの?」

ミキちゃんが遠慮もなく聞いてくる。

「うん、他に適当なところがないから。」

「おいおい、随分と偉くなったものだな、竜くんも。」

これは、三木君の話し方を真似たミキちゃん。三木君のほうは、ミキちゃんに先を越されて黙っている。

「そういうわけじゃないよ。我が家の財政状態を考えると、できれば私立は避けたいし、国立でも下宿する必要があるところは厳しいと思って。」

「ま、案外と穴場だぞ、東大の文系は。」

三木君は冷静に分析しているらしい。

「誰でも東大は難しいと考えているから、ボーダーの辺りの連中は、ぎりぎりになると、ごそっと他に逃げる。1点差、いやコンマいくつで天国と地獄に分かれることになるこの辺の層がかなり薄くなる、すなわち狙い目ということだ。」

「いつ決めたの?」

「あの時だよ、ほら、ぼくら高校一年の冬に安田講堂の上をヘリコプターが廻っていたじゃない、東大紛争で。ぼくは学校の音楽室から見ていた。実を言うと、あのときまで東大がどこにあるかも知らなかった。名前は勿論知っていたけれど、何か遠い、遠い存在だった。誰かが、あそこが東大だ、と言うのを聞いて、随分と近くにあるものだな、歩いても行けるくらいだ、ひょっとしたら入れるかも、そう思った。あ、笑うなよ、ここだけの話だ。」

私も見ていたとミキちゃんは嬉しそうだ。

実は、ミキちゃんも竜と同じようなものだったという。私もここだけの話といって、少し恥ずかしそうにしながら1年前の冬の思い出話をする。

その日、ミキちゃんは友達と学校の屋上にいた。その友達が、あそこがトウダイよと言ったので、あんなところにトウダイ!?と驚いた。

だって、あの辺りはまだ陸地でしょうと言うと、その友達は少し考えてから、急に笑い出した。ミキちゃんがトウダイを灯台と取り違えているのに気が付いたのだ。その後、二人で涙が出るほど大笑いしたそうだ。

「早稲田だけにしておけ。」

試験休み中の進路相談で、クラス担任の宮本先生はそう言った。

東大がダメだったら浪人するつもりだと竜が言うと、それなら私立は一校だけ受ければいい、受験料が勿体ないというのだ。

本当は、慶応の入試は少し特異なところがあるので、「何となくオールラウンダー」の竜は危ない、本番前にショックを受ける可能性がある、宮本先生はそう判断したのだそうだ。後になって母親から聞かされた。面談の後で家に電話をくれたらしい。

「東大に決めた理由は?」

宮本先生のその質問を聞いた途端に、竜の頭には、例のヘリコプターが浮かんで、思わず、 

「自宅から通えるからです。」

と、答えた。

宮本先生は、一瞬固まったようにも見えたが、少しして、

「そうか、それなら大丈夫だ。」

そう言って、竜の肩をぽんと叩いた。

これだけで面談は終わり。

竜は少し拍子抜けの態だったが、それでも足取り軽く教員室を出た。

これも後で聞いた話だが、先生は、竜が大学受験のことで何か思い詰めているのではないかと少し心配していたそうだ。 

それが、志望理由に少しとぼけたようなことを言ったので、こんな冗談を言えるくらいなら大丈夫だと思ったのだそうだ。

一方、竜は、大丈夫という言葉を聞いて、先生に合格可能性が結構あると言ってもらえたものだと誤解していた。よく考えれば、話の流れから、合格可能性について言っているわけではないことくらい気が付きそうなものだけれど。

実のところ、竜にとって、高三の夏になっても、大学受験はまだ現実性のないものだった。すぐそこまで来ていることは、頭では理解していた。しかし、なかなか実感が湧いてこないのだった。

ベテランの宮本先生もその辺は読み違えていて、運動会が終わり、毎日、何かぼんやりとしている竜を見て、少し受験ノイローゼなのかと思ってしまったようだった。

「竜は150年も生きるつもりか?」

三木君にそう言われた。

明日から頑張ろう、そう言ってその日は寝てしまう、そんな竜のことを一番理解し、そして心配してくれていたのは、やはり三木君だった。

校内の実力試験の結果から見れば、竜はいわゆるボーダーラインのあたりをウロウロしていた。それなのに計画を立てて受験勉強に打ち込む姿勢が竜には全く見られないようなので、それを見て、すこしイライラしていたそうだ。

本人は、いざとなれば神風が吹くさ、とあくまでのんびり構えている。

中学受験のときもそうだった。試験前に風邪を引いて何日か学校を休んだとき、たまたま教育テレビで見たことがそのまま試験に出ていた。

そういうことが今度も起きるに違いない。竜は、こういう何の根拠もないことを結構真面目に信じるタイプだった。

 それにヤマを掛けることに関しては、天才的だった。だから、隅から隅まで丁寧に勉強することはしない。そして結局、ヤマを掛けざるを得なくなる。

この悪循環なのだが、それなりの成績なので、本人はそのことに無頓着・無反省で高校三年の夏まで来てしまっていた。

               7

 一学期が終わった。終業式のあと、教室に戻って帰り支度をしていると、矢島君が、夏休みに行われる予備校の講習の話を始めた。弓田君や児玉君も同じ予備校の夏期講習を受けるのだという。三人で、受講予定の講師の話題で盛り上がっている。

大野君は、高原の涼しい民宿に行って、一人で勉強すると言う。そこは大学生も多く来るので刺激になるのだそうだ。

「そんなところでフロイトの本なんか開いちゃだめだぞ。そんなことしていると、大学の先生と間違われるぞ、ちゃんと受験参考書も持って行けよ。」

矢島君は冷かしているのか、心配しているのか、どちらか分からないようなことを言ってニヤッとしているが、これが友情表現の矢島スタイルであることは大野君にも十分伝わっている。

受験戦争などという言葉があるが、それはマスコミが無責任に煽っているだけである。本来、大学受験は、受験生同士が戦う場ではない。社会が用意した社会人になる過程のハードル、それも幾種類もあるハードルの一つであるに過ぎない。

合格することが勝利ではなく、不合格者が敗者になるものでもない。

目標を定め、それに向かって準備を怠りなく行う。そのためにはある程度自分の欲望を抑えることも必要である。その過程で大人に近づいて行く。

竜たちの学校には、公立校ならとっくに定年に達している高齢の先生も多くいて、この先生方に、中学入学時から教わっているうちに、自然とそういう考えが身についたようだった。だから、同じ大学を受けるからといって、ライバルだなどという意識を持つことなど全くない。ほとんどの生徒はそうだったと思われる。

「現役で予備校に通うなんて思ってもみなかったよ。あそこは浪人したら仕方なく通うところだと考えていた。」

三木家に向かう途中で竜が驚いたように言うと、気休めさ、と三木君はあっさりとしている。

「だって、そうだろう。夏休みに予備校にちょっと行っただけで効果があるなら、浪人生は一年も通うんだ、合格者は全員浪人生ということになってしまうだろう。」

 三木君は、現役生も多数参加する予備校の夏期講習を知っていて、それでも自分なりの考えで、行かないと決めている。そういうものがあることすらも知らなかった竜とはやはり違う。

いや、竜が情報に疎すぎるのだ。大学の過去問が一冊になっている、通称赤本と呼ばれているものの存在も知らなかったくらいで、大学ごとに特定の出題傾向があるなどということなど思いもしないのである。

 いつものようにミルクと砂糖をたっぷり入れた「珈琲」をスプーンで掻き回し、

「この渦のようになっているのを見ると、ああ『珈琲』っていいなって思うんだ。」

「そうそう、このこげ茶色と白のコントラストが綺麗だよな。」

 恥ずかしいほど食に対して鈍感な二人である。こういう連中のお勧めの店や料理は信用してはいけない。ひどい目にあうこと間違いない。

「閑話休題、それはさておき。」

 三木君がそう言って、少しだけ古ぼけたノートを出してきて竜に渡した。

「姉貴の知り合いが受験のときに作った数学のサブノート。理系で、今、四年生なんだってさ。」

「えっ、葉子さんのボーイフレンド?」

「そいつは知らない。一度、サークルの写真を見たけれど、どことなく竜にも似ているようなタイプだった。だから、姉貴の好みなのかも知れない。それはともかく、このノートは絶対役に立つぞ。俺は、春にもらって、何度も何度も読み返した。」

 確かに、最近、三木君の数学の成績はかなり上がっていたのである。

 秘密兵器、そんな言葉が竜の頭に浮かんできた。

               8

 長い夏休みも、受験生にとっては、頼りないほどに短い。

二学期が始まった。久しぶりに会うクラスメートの顔は少し大人びたように見える。それぞれがそれぞれの方法で、この夏を過ごして、何がしかの自信をつけたせいだろう。休み前と比べてさらに口数も少なくなってきている。

竜も三木君から借りたノートをまじめに読み込み、虫食いだらけだった数学に一本芯が通った、そんな気になっていた。

真田ノートと三木君は呼んでいたが、その真田ノートには、定義・定理・公式がくどいほど丁寧に説明されていた。

例の七面倒くさい三角関数の公式など、竜は、サイタコスモスコスモスサイタなどと口ずさんで丸暗記しようとしていたが、ノートでは、一つの公式の証明から始まって、それを変形して他の公式を作っていく、その過程はもちろんのこと、その基本にある考え方が丁寧にメモされていた。

勿論、学校の授業でもやっていることだ。ただ、竜は目を開けながら「気絶」していたので、頭の中に残っていなかったのだ。「気絶」は口の悪い矢島君の表現である。

とにもかくにも、受験本番に向けて竜は順調に飛び立てた―はずだった。

 問題は秋の長雨であった。

気が滅入って何も手が付けられない、そういう日々が何日も続いた。

学校では、受験対策の講習もいくつか行われていたが、とても出席する気にならなかった。自分がいることで場の雰囲気を壊してしまう、そんな気がした。

一人、家に帰り、参考書などを開いてみるが、ほとんど頭に入らず、仕方なくぼんやりと雨を眺めているしかなかった。

ワガミヨニフルナガメセシマニ

小野小町が何度も何度も現れた。

ひょっとしたら、これから毎年こんなことの繰り返しで、年老いていくのだろうか。

万婦ことごとく小町なり

芭蕉まで出てきた。

どんな女性でもオールカマー、そういう女性好きの言い回しなのだと思っていた。

誤解だったようだ。

その美貌を謳われた小野小町でさえも、年を重ねるにつれて、その容色が衰えていくことに逆らえなかった。すべての女性についても同じことが言える。

本当はそういう意味なのだ、と大野君が教えてくれた。

三木君にそんな話をしてみると、わざとらしく大笑いしながら大丈夫だ、大丈夫、いつまでも長雨が続くわけではない、青空が広がれば、一気に解決さ、と言ってくれた。

確かに、降りやまぬ雨はなし、と言う。

竜は、すこし気が楽になった。

               9

 ドアを開けて部屋に入ると、中は暗く、ホワイトボードだけに照明が当たっている。

 椅子が二つあり、右側にランが座り、左にリンが座った。

ドアが開いて、レンが入ってきた。そしていきなり、ホワイトボードに数式を書き始めた。

ランとリンは、予期していたかのように、何も言わずに、ホワイトボードをじっと見つめる。レンの顔は薄暗さのせいではっきりとは見えないが、しかし、レンであることは分かる。

 ランとリンは幼馴染だ。いや、そう言うと正確さを欠くことになる。ある意味、生まれる前からお互いを知っていて、ずっと一緒に育ってきた。それでいて、リンにはランの顔はよく分からない。分からないがランであることを間違うことはない。

ランは良心の塊のようなもので、少し付き合いづらい面があるが、それはそれで、リンのふらふらしたところとバランスがとれていた。リンが事あるごとに右や左に傾いていこうとすると、ランの良心の重さが、中央に引き戻してくれる。二人揃って一人前、そんな気もする。

 レンが現れてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。果てしないほどに感じられもするし、一瞬のようにも思える。その間、ランはリンであり、リンはランであったし、一人になり、また、二人になる。そのことに気が付いてもレンは一向に驚いた様子を見せないで数式を書き続けている。

レンは全てを理解しているのだろうか。ランが心の中で、オニイサンと呼んだ。声には出していないが、リンにははっきりと聞き取れた。レンもそうだったのだろうか。二人を見て、微笑んだ。それは可愛い弟と妹に対するそれであった。

突然、完全な暗闇が訪れ、すぐに明るくなった。三木君がレコードの針を持ち上げて戻すところだった。

 竜は、すっきりした気持ちでいる自分に気が付いて驚いた。外はまさに台風一過の青空だ。空気中の塵は勿論、全てのモヤモヤが綺麗に洗い流されていた。

 竜は家に帰ると、まず、机の上の地理の参考書を手に取った。少し読んでは閉じ、しばらくして、また、はじめから少し読んでは閉じ、の繰り返しで一向に読み進められなった本だ。まるで源氏物語のような存在だった。竜は、その参考書をびりびりと破いて捨ててしまった。

地理を参考書で学ぼうとするほど間の抜けたことはない。そう、竜は思った。

世界はこうしている間にもどんどん動いている。それを過去の一断面を静止画像で取り出して解説している本で学べる訳はない。     

参考書を破り捨ててしまうことに後ろめたさはなかった。目の前にあればやはり気になってしまう。しかし、無くなってしまえば、何も気にする必要はない。竜は、ようやく、本当に飛び立つことができた。

10

 年が明けると、時間の経つのが一段と早くなった。光陰矢のごとし。歳月不待人。少年老い易く学成り難し。

 何もしないのであれば、人生は退屈なほどに長すぎるものであるが、何かを成し遂げるには余りにも短すぎる。

 文明が発達して、種の保存という本能に基づく行動とは異なる、自己の存在意義や価値等を意識した活動に目が向かうようになってから、人類は常に与えられた時間との闘いに明け暮れ、それに伴う苛立ちを感じてきた。

 例によって、大野ハカセが語っていた話である。竜は、そういうことは一切頭に浮かばない類の人間である。

だから、年が改まっても、竜に慌てる様子は見られない。どうしても必要と思えることだけを確実にこなす、これを徹底していた。しかも、無意識のうちに、である。

竜の行動パターンは、悲観的に考え、楽観的に行動する、つまり、ペシミスティック・オプティミストであって、これは、小さい頃から全く変わっていない。

朝5時過ぎには起きて、午前中は集中して勉強した。もっとも、サリーちゃんの再放送は欠かさず見ていた。頭を休めるのに最適だという言い訳を自分で見つけて。実際は、サリーちゃんに葉子さんを重ね、カブちゃんに自分を重ねて楽しんでいた。最終回で少し涙が出ていたのはいかにも竜らしい。

午前に集中した分、午後と夜は流す程度にしか机の前にいられない。「勉強体力」が不足しているのである。

全科目満遍なくというには時間が足りないことは竜にもわかっていたが、慌ててペースを変えることはしなかった。変えられなかったといったほうが正確だが。

手を抜いたところは試験には出ない、そういう自信があった。一般的にはヤマをかけるというが、重要なところを押さえているからこそヤマが当たるとも言える。竜はそう信じようとした。

 二月に入り、担任のアドバイスどおり私立を一校だけ受験して、東大の一次試験を迎えた。

この年は東大入試が大きく変わった年だった。一次試験において、英国数以外に、文理共通で、社会二科目選択、理科二科目選択が課せられた。その代り、二次試験では、文系の理科、理系の社会が無くなった。

竜は、例によって情報に接するのが遅く、また、そのことを知った後も、すぐに切り替えられず、しばらくは理科二科目のうち化学だけを勉強していた。もう一科目は生物と決めていたが、年が明けてから、薄い参考書をさらっとやれば足りるだろう、そう暢気に構えていた。

当時は、センター試験の前身である共通一次もなく、この一次試験が足切りに用いられていたが、倍率の関係でよほど失敗しない限り切られることはない、そう思える状況だった。

問題は二次試験だ、竜だけでなく、たいていの受験生はそう考えていたのではないか。実際は、合否は、二次試験の点数と一次試験(圧縮した点数)の合計で決まるのだから、ボーダーすれすれの場合、この一次試験の点数の一点違いで合否が分かれたこともあったのだろう。

しかし、当時は、受験産業においても、あまり細かな分析等なかったような気がする。何しろ、偏差値すら一般的ではなかった。

竜が受けた有名予備校の模試では、合格可能性何パーセントという表示になっていた。

勿論、日本全国、どこでもそうだったのかは分からない。予備校によっては、既に偏差値を導入していたのかも知れない。ただ、当時、東大受験においては、圧倒的と考えられていた予備校では、可能性何パーセントという表し方だけだった。

どうして試験の方式を変えるのだろう。

竜には、これが理解できなかった。

表向きは、いかなる場合でも、よりよい選択、選ばれるべき受験生が選ばれる可能性が高い方式への変更と発表される。

眉唾ものだと竜は思っている。

利益を上げるため原料の質を落とした新商品でも、従来の商品より、「美味しくなりました」などと宣伝しているのと同じ類のにおいがする。

だいいち、これでは今までの入学試験は、やり方が余りよろしくなかったので、必ずしも当大学に相応しいとは言えない受験生が相当数合格して入学しています、と言っているようなものだ。

これまでの合格者に失礼だろう。そういう入試を行ってきた大学関係者を否定するという無礼さだ。

そもそもが、自分たち自身もそういう欠陥入試のお蔭で合格できたのではないか。

それなのに「改革」できると考えるのはいかにも傲慢ではないか。

竜は、一人でこういう事を考えて過ごしていた。なにしろ、受験シーズンが始まってからは、こういう雑談をする相手がいないのだから仕方がない。

11

 3月3日、4日の二日間、東大の二次試験が行われた。一次試験は駒場キャンパスを使用したが、二次試験は本郷キャンパスを使って行われた。

家を出るとき、母親は、お前は合格する実力がある、もし不合格だったら、そんな人を見る目のない大学など、こちらからお断りだよ。だから、堂々と受けてきなさい、そう言って送り出してくれた。

母は、中学受験のときも同じことを言って励ましてくれた。有難かったし、心強くもあった。

竜は、初日午前の国語を可もなく不可もなし、といった感じで終え、昼休みを迎えた。

キャンパス内の芝生にビニールシートを敷いて、弁当を広げた。ミキちゃんと並んで座り、手作りの乙女チックなお弁当を二人で食べて、他の受験生たちから羨望の眼差しで見られる。その視線を感じ、顔を赤らめながら、しかし、最高の悦びを感じる。  

そんな夢のようなことが起こるはずもなかった。これは現実である。竜の周りでまるでピクニックにでも来たようにパクパクと弁当を食べているのは、矢島君であり、弓田君であり、そして児玉君であった。結局は、彼らも思い切って東京を出て行くことは出来なかった。

北海道のスキーはどうした。パウダースノーは最高なのではないのか。

幻の邪馬台国探しは諦めたのか。ライフワークが聞いて呆れるぞ。

仙台の美人の従妹は大丈夫なのか。心配ではないのか。

竜は心の中でそう思いながら、母親が作ってくれたゴマをまぶし、海苔を巻いたおにぎりを口の中に詰め込んでいる。食べやすいように小振りにしてある。腹が減っては何とやらで、竜は空腹では反って頭が働かないのだった。目の前をいろいろな好物がグルグル回り出して考えるどころではなくなってしまうのだ。

大野君だけは、初志貫徹、京都に行った。

三木君は私立の医学部に合格し、今は家でのんびりとしているはずだ。

二人はいなかったが、いつものメンバーで昼食をとっているので、皆リラックスしている。会話だけを切り取ってみれば、およそ大学受験当日のものとは思えないほどのんびりとしたものだった。この雰囲気は、竜にとっては大いに幸いした。元来が小心者である。一人で受けに来ていたら力を発揮することは困難だったろう。

 昼食を終え、竜にとっては最大の難関、数学が始まった。

夏以降、力がついたことは確かだが、果たして、それがどこまで通用するのか、ペーパーテストに関しては大楽天家の竜もさすがに心配なところがあった。

 問題の冊子を開いて、ざっと眺める。文系は大問が四つある。どれもこれも解けそうになかった。頭が働いていない。これはまずいな、少し焦りを感じた。

 目を閉じろ。

レンの声が聞こえた。

言われるままに目を閉じると、レンがホワイトボードを背にして立っている。

出題の意図を考えよう。何が試されているのか、定理や公式の原点に戻って考えてみよう。

そう言って、レンは微笑んだ。

その前の机にリンとランが座っている。二人ともレンの言葉に大きく頷いた。リンが横を見ると、ランはいつの間にかリンの姿になっていた。

三木君の部屋で、「珈琲」を飲みながら、三木君とミキちゃん、それに竜の三人で映画と音楽の話に夢中になっている。三木君が教会の窓を叩いて叫ぶ真似をして遊んでいる。

そんな情景が次から次へと心に浮かんできた。

 目を開けると、竜は完全に落ち着きを取り戻していた。

もう一度、第一問を見る。この問題は何を聞いているのか、冷静になって考え見ると、あっけないほど簡単に解法の筋道が見えてきた。あとは計算をして、答案用紙に丁寧に書くだけだった。  

 一問解けると、さらに心が落ち着き、竜の頭脳は高速回転を始めた。第二問、そして第三問と立て続けに解き終え、第四問を残すのみとなった。第二問などは、竜の実力からすれば、歯が立たないような問題であったが、ヒラメキが正解に導いてくれた。火事場の馬鹿力と言ってよい。

残り一五分。最後まで解き切るためには、少し時間が足りない、竜はそう思ったが、焦る気持ちはなかった。おそらく、ほとんどの受験生は一問完答がやっとだろうと思えたから。

微分を知っていれば、誰でも書ける第四問の前半部分を書き終えて、後半を考え始めたが、どうも何かキーが一つ足りない。これが最後に取り組んだ問題でよかった。

堂々巡りを始めてしまったので、早めに諦めて、第一問から第三問までをさっと見直し、勇み足をしていないことを確認して、ゆっくりと目を閉じた。 

12

 合格発表の日、竜は早めに家を出て、久しぶりに三木家を訪ねた。

「護送船団も解散だな。」

 三木君は何とも明るくそう言った。

 そのとおりなのだ。

 三木君は、私大医学部進学が決まり、矢島君、弓田君そして児玉君は理系だ。大野君は京都に行くことになるだろう。奇跡の6人が一緒になることはもうないのだ。

 しばらくは、例によって、「珈琲」を飲みながら、受験のときの出来事を二人で面白、可笑しく話した。

「竜はスポーツ新聞を読んでたんだって?」

 さすがに三木君だ。情報が早い。

 私大を受けたときのことだ。

 初めての大学入試なので、緊張し過ぎないように、駅の売店で買ったスポーツ新聞を読んで落ち着こうとしていたのだった。中学受験のときは、母親が漫画の週刊誌を買ってくれて、教室に入る直前までそれを読んだ。それに倣ったのだった。

「田舎から一人で受けに来ていて必死になってる連中からしたら、相当嫌味な奴だって思われたんじゃないのか。」

 三木君の言い方にも東京の受験生の厭らしさがチラチラと見えている。

 そんな話をしているうちに、三木君が思い出したように、机の上に置いてあった一枚の写真を持ってきた。

「片付けをしていたら、こんな物が出てきたよ。」

三木君はそう言って、その写真を竜に手渡した。

 ビルの屋上に子供たちが並んでいる。最後列の端に竜が恥ずかしそうに写っている。一年ほど通っていた進学教室で、中学受験直前の一月終わりごろにクラスで撮った記念写真だ。

当時、中学受験を目的にした大手の塾は、進学教室と呼ばれていた。

竜の一人置いた隣に三木君が立っている。反対側の端には、お世話係のおそらく大学生のアルバイトのお兄さんが立っているが、その隣に、まるで同じお世話係のように見える大野君がいた。

大野君の前には、矢島君がいるし、一番前の列にいる幼い感じがするのは児玉君だ。その隣には弓田君がいる。知らなかったが、6人は、このときから同じクラスだったのだ。

「大野がいたことは覚えているだろう。」

三木君は覚えているのが当然であるかのように言う。

それはそうだ。

あの風貌で、しかも、いつも先生に小難しい質問をしてはてこずらせていた大野ハカセなのだから。

最後のほうは、先生のほうでも、 

「はい、大野ハカセ、何か質問は?」

と半ば冗談で、大野君に話を振るようになっていた。

たまに、大野君が、質問はありません、なんて言うと、クラス中がえーっ、と声を合わせて驚くふりをしてふざけていた。

「あれは、面白かったね。」

竜は、6年前の自分に戻っていた。

とにかく誰も知っている子がいない、話し相手がいない教室に毎週通って、試験を受ける。それだけでも苦痛だった。

試験が終わると前の週の答案が返されて、先生の解説を聞く。

一杯一杯だった。だからクラスに何人いたかも覚えていなかったが、こうしてあらためて写真を見ると、せいぜい30人程度だったようである。

「なんか、100人とか200人とかいるような気がしていたよ。」

「確かにね。教室の後ろのほうは、お母さん方でぎっしりだったから、余計に大人数のクラスのような気がしていたんじゃないか。あのお母さんたちは熱心な人たちで、先生の話をノートに一生懸命メモしているお母さんが多かったって、うちの母親が言ってたよ。」

「三木君のところは、お母さんがついて来てくれてたんだ、いいなあ、うらやましい。僕の母は最初のうちだけ一緒に来てくれたけれど、途中からは僕だけだったから少しだけ心細かった記憶がある。」

「それはそうとさ。」

三木君はそう言って、写真の真ん中あたりを指差した。

女の子が何人か固まって写っているが、一際目立っているのが、ミキちゃんだった。

天使の笑顔と言っていい。避暑地の涼しげな白樺の林の中で、白いワンピースに麦わら帽子をかぶり、にっこりと微笑む、そういう情景が目に浮かぶ。

それにしても、あのミキちゃんが同じクラスだったとは。

 そのとき、竜はハッとした。

矢島君や児玉君、それに弓田君がいたことに気が付かなかったのは不思議ではない。

でもミキちゃんがいたことに全く気が付かないのは有り得ない、そうではないかと竜は思った。

ミキちゃんの周囲に並んでいる女の子たちには何となく記憶がある。それなのに飛び抜けて可愛いミキちゃんだけ気が付かない、そんな不思議なことがあるのだろうか。

「ミキちゃん最高に可愛いよね。」

 三木君は、親しげに、「ちゃん」付けで呼ぶ。

「矢島なんか、この頃から、大きくなったら絶対にミキちゃんと結婚する、何としてでも結婚するって大騒ぎだったよ。」

 竜の頭は混乱し始めた。

 本当の名前もミキなのか?

 ひょっとしたら、今こうして三木君と話をしているのも、ミキちゃんが出て来るいつもの夢の続きなのだろうか。

 目が覚めたら、昔に戻っていたりして。

 小学生から、またやり直すのは勘弁してほしいな。

「ああ、矢島と俺って、同じ小学校なんだ。知らなかった?」

 竜の混乱した顔を三木君は誤解して、そう言った。

 ミキちゃんが実在した、しかも、いつも夢に現れていたのは、この目の前の写真、つまり小学校6年生のミキちゃんではなく、それから何年か経って高校生に成長したミキちゃんだった。

 それなのに、進学教室の頃のミキちゃんの記憶が竜の頭には全くない。

 この写真は竜だってもらっている。そのときに何回か見ているはずだ。自分が恥ずかしそうに写っていることは分かっていたから。

 それなのに、何故・・・

「お早う、マイシスター。」

 竜の思考は、葉子さんが現れて中断せざるを得なかった。

「しばらくぶりね。元気だった?」

「おはよう、ってもう3時過ぎですよ。」

「いいのよ。芸能界では、何時でも、その日の最初の挨拶はお早うなんですって。」

 葉子さんは、その日が合格発表の日だと知っていて、ミキのことで混乱している竜の顔を見て、合格発表のことで不安になっていると誤解したようだ。 

「大丈夫。それにマイシスターを認めない大学だったら、こっちからお断りよ。」

 母親と同じことを言う。今日、家を出るときも、母はいつものセリフで送り出してくれた。

 二人の気持ちが有難かった。何とか今日を迎えられたのも、二人のお蔭だ、二人だけではない、三木君、三木君のお母さん、矢島君や弓田君、児玉君、それに大野君、みんなで竜がとんでもない方向にそれていかないように守ってくれていた。

 竜の目から思わず涙が流れ出した。

「ほらほら、大丈夫だって。」

 またまた、葉子さんの誤解。

 実は、竜は試験の結果には何の心配もしていなかった。

 この年は、文系数学の問題は、全部理系と共通だった。2日目の昼休み、理系の矢島君や弓田君、児玉君と答え合わせをして、竜の解答は、結果だけでなく解き方まで間違っていなかったことを確認していたから。

 でも、葉子さんが心配してくれているのが痛いほど分かるので、そのことは話さないでおいて、駒場に向かった。この年は、1次も2次も合格発表は駒場キャンパスだった。

13

 桜の花がほぼ散ったころ、駒場での学園生活が始まった。

 学園紛争はまだまだくすぶっており、入学式は行われなかった。

儀式のような肩が凝るものが大嫌いな竜はほっとしたが、竜の母は、入学式がないことを大変に残念がった。

「だって、高校の卒業式だって、お前が来るな、来るな、親なんて数えるほどしか来ていない、母さんが来たら恥ずかしいって言うから我慢したんだよ。中学の卒業式や高校の入学式はなかったし。ほんとうに寂しいよ。三木君のところとか矢島君のところとか、お母さん方は本当はみんな高校の卒業式に来ていたんじゃないのかい?」

 18歳の竜には、こういう母親の気持ちは全く理解できないものだった。

 法学部進学予定の竜たちは、駒場では教養学部文科一類と分類され、同じ第二外国語選択の経済学部進学予定の文科二類の学生と同じクラスであった。およそ3対2の割合で、50人ほどのクラスであった。

 護送船団が解散し、少し不安な気持ちがあったが、それほど親しいわけではないものの同じ高校出身者が他に2名同じクラスにいるのが分かり、だいぶ気が楽になった。

 大学での生活に少し慣れてきた頃、竜はあることに気が付いた。

 地方出身者には、日の丸の鉢巻きを締めた村長以下、村の主だった大人たちの万歳の声に送られ「立身出世」を心に誓い入学してきた、そういう感じがしてしまう学生がどのクラスにも何人かいるということだ。

 そういう学生は、東大に合格したことに異常なまでのプライドを持ち、将来は国家を支える立場となることを意識しているのが明らかに見て取れた。

 それはそれで立派なことだと思えたし、そもそもこの大学はそういう学生のために創設されたのであるから、彼らのほうが大学の望む学生像に近いのであろう。しかし、それは自分の土俵ではないなと竜は感じていた。

 彼らの頭の中にある国家の構成要素には、街中にいる普通の人々は入っていないということに気付いたのはだいぶ後のことである。土俵が違うどころか宇宙が違うのである。

 こういう学生は、大抵は官僚になるのだが、そうなってからも、トゲトゲした雰囲気はそのままで、クラス会などでも、酒を飲みながら仕事自慢の話しかしない、実に退屈至極な集まりにしてしまう。

 勿論、竜のように、東京の高校から、それほどの意識もなく入学してきて、何となく、毎日を過ごしている風の学生も決して少なくはなかったし、関西の超有名進学校出身なのだが、雀荘に住み込んでいるのではないかと思っているうちに、いつの間にかいなくなってしまった学生もいた。

「理系は違うぞ。」

「そう、全然違う。」

「文系はのんびりしているんだよ。」

 竜の話を聞いた、矢島君や弓田君、児玉君の感想である。

彼らに言わせると、二年の後期から始まる専門課程で自分が研究したいと思うところに行くために、みんな懸命に勉強しているというのだ。勿論、自分たちも、というつもりなのだろう。

誰でも自分のことは美化したいものなのである。児玉君がテニスラケットを手にして、新しい仲間たちと楽しそうにしているのをキャンパスで竜は何度も見かけている。矢島君と弓田君が大学近くの雀荘の隣の卓にいたことも一度や二度ではない。

入学してしばらくして、クラスの友人と喫茶店に入って、竜は珈琲をブラックで飲むことを知った。それまでは珈琲はミルクと砂糖を入れて飲むものだと思い込んでいた竜は少しショックを覚えた。その友人が大人に見えた。

14

 新しいことの連続に目を回しながらも、竜は、前期の講義に全て出席した。真面目なわけではない。気が小さいのでサボれなかっただけである。

英語の授業に全く予習しないで出席したところ、当てられてしどろもどろになったこともあった。読み方がたどたどしいのは勿論のこと、「旅路の果て」とすべきところを「旅の目的」と訳したものだから教官は真っ赤になって怒った。正に「ジ・エンド」である。

まだ順番が回ってこないはずだったのだ。そういうときに限って、欠席者が多数いる。何とかの法則だろうか。

そのときの教官は、よほど竜の態度が腹に据えかねたのだろう。試験のときに、わざわざ竜の横にやって来て、いくらテストができても、お前には絶対に優はやらないと言い放ったくらいだから。

 しばらくして、竜の高校の卒業生は英語ができなくて英語科の教官があきれている、という噂が広まった。その責任の大半は竜にあったのかも知れない。

 そんなこともあったが成績表をもらうと優がついていた。顔は覚えていても名前は忘れてしまったのかも知れない。

 かなりのでこぼこ道であったが、なんとか1年生の前期は終わった。他の科目の成績もソコソコだったので、竜もほっとして後期を迎えた。

 ここで事件が起きた。駒場祭が始まる直前に学生がストライキに突入したのである。大義名分はともかく、学生全体がサボるのと同じであるから、サボる勇気がなかった竜も大手を振ってサボることができるわけだ。

 これで少しタガが緩んだ。このときのストライキは比較的短期間で終わり、竜も少しずつ前期と同じような生活に戻りつつあった。何とかピンチを逃れたと思えた。

 しかし、今日から後期の試験が始まるというその日、それは札幌で冬季五輪が始まる日でもあった。今度は無期限ストライキに突入してしまった。

 東京は朝から大雪だった。井の頭線が止まり渋谷の駅にたむろしている連中からストになって試験は行われないと聞いたものの、自分の目で確かめなければと、竜はうろ覚えの道を歩いてキャンパスに向かった。魔がさしたのだろうか。

いつの間にかどこだかわからない街に出ていた。

寒さに凍えながら、歩き回っていると、高校の先輩が呑気におそらく自宅なのだろう、その前の雪かきをしているのが見えた。そのとき、道を聞けばどうということもなかった筈だが、その先輩に不義理をしたことがあって、聞けなかった。

 さらに寒さの中を歩き回り、もう少しで凍死するのではないかと心配になった頃、ようやく渋谷に戻る道が分かった。

あのまま都会の真ん中で凍死していたらマスコミは大喜びで常識に欠ける東大生の典型として書き立て、竜の母などはショックで死んでしまったかも知れない。

そのときは、こういう無茶なことはもうやめようと竜は心に誓ったはずだったが、その後も同じようなことを繰り返している。

人間というものは経験から何も学ばない唯一の生き物のようである。

それは、人間が、自らの知性を過信しているからだろう。

15

 本来ならとっくに2年生の前期が始まっている筈の5月になって、ある日突然ストが終わり、先延ばしになっていた後期試験が行われた。散々だった。

竜は、糸が切れた凧のようになった。全く教室に顔を見せないというわけではないが、喫茶店や雀荘にいる時間がどんどん長くなっていった。

毎日、朝のうちに家を出ていくし、そもそも大学は高校までのように毎日決まった時間に授業が行われるものではないことを竜の母も承知していたので、竜がキャンパスの周辺をふらふらしているだけであることに気が付かなかったようである。

 護送船団は既に解散しており、竜の人生最初の大きな危機を迎えていた。

 そういう夏の日、竜は、珍しく教室に顔を出し、一般教養の政治学の講義を聞いた。久しぶりに真面目な学問の話を聞いたせいか、聞いているうちに眠くなってきた。

思い切って教室を抜け出し、街に出た。

 あの雪の日、迷いに迷ったあの場所に行ってみたくなったのである。

 何となくこの辺りだったかとおぼろげな記憶を辿っていると、あのミキちゃんの姿が見えたような気がした。

 夢?

 あのまま政治学の教室で眠ってしまったのだろうか。

 いや、夢の中でこんなことを考えるというのもおかしいか。

 歩いてみた。歩ける。

夢であれば、こういうときは足が動かないものだ。それは何度も経験している。

 これは夢ではない、現実だ。

 そのときだった。

「りんくん?」

 後ろから声を掛けられた。

 振り返ると買い物帰りらしい中年の女性が立っていた。

「やっぱり、りんくんなのね。よくここが分かったわね。お母さまに聞いてきたの?予め連絡してくれればよかったのに。さ、さ、中に入って。」

 まごつく竜にお構いなく、その腕を優しくではあるが引っ張って、家の中に入ろうとする。

 何が何だか分からないまま、竜もその女性に従って、家の中に入った。

入るとき、「真田」と書いてある表札がちらっと見えた。

 真田?真田ノート?

 思わず心臓がどきどきしてくるのが感じられた。何か予想もできない、とんでもないことが待ち受けている、そんな予感がした。

 居間に通された瞬間、竜は凍りついた。

 あの家だ。何度も夢で見た、あの見知らぬ家だ。

 これはやはり夢の続きなのだろうか。

 逃げ出そうとしてみようか、そう思ったときに、その女性が珈琲を運んできた。

「お砂糖とミルクたっぷり、がお好みのようだったけれど、もう大学二年生だから、ブラックでいいわよね。」

 どういうことだ。なぜ、そんなことまで知っている。そうだ、最初に「りんくん」と呼んでいた。あの渾名は、限られた高校のクラスメートしか知らないはずなのに。

 そう思いながらも、いつかの夢の中で、レン・リン・ランの三人がいたことを思い出した。あの時は目覚めた後でも何も不思議に思わなかった。そのことが今思えば不思議なことだ。竜の頭の中はますます混乱していくだけだった。

 「お母さまに電話しておいたわ。もうすぐ蓮も帰ってくるから、もう少し待っていてね。」

 レン!

  まさか、ランも出てくるのだろうか。

 竜の両手の平だけでなく、首筋からも汗が大量に吹き出し始めた。

                16

  いきなり安っぽい小説の主人公になった、竜は、そんな気持ちになった。

 さっき、ミキちゃんの姿が見えたように思えたのは、この家に入っていくところだったのかも知れない。

 三木君はあのとき、ミキちゃんは可愛いよねと言った。見ていたのは6年も前の写真である。普通なら可愛かったよね、という言い方になるのではないのか。高校三年生のミキちゃんを三木君は知っていたのか?

 ええい、三木君とミキちゃんとで紛らわしい。だいたいミキミキコは三木君がでっち上げた母親の名前じゃないか。

 そんなことを考えていると、竜の口から裏庭には二羽、庭には二羽鶏がいるという例の早口言葉が飛び出してきた。

「鶏がどうしたって。」

 いかにも学生風の男が入ってきた。

 真田ノートを作った人だ。やっぱりそうなんだ。

 一目見て、竜はそう思った。三木君が言ったように、どことなく自分に似ている。葉子さんは、この真田ノートの人と知り合いで、ミキちゃんはこの人の妹に違いない、三木君はそれで高校生のミキちゃんを知っていたのだ。竜はそう理解した。

「これが蓮、ハスの花の蓮、あなたのお兄さんよ。今、大学院生。」

 普通だったら、ここで大袈裟に驚くところだろう。しかし、竜にとっては予想していた言葉だった。夢の中で、ランがレンのことを「オニイサン」と呼んでいた。

「これから話すことに驚かないでね。あなたのお母様とは、あなたが二十歳になったら全部話す約束だったの。誕生日まではまだ何日かあるけれど、さっき電話をしたら、ちょうどいい機会だからお願いします、とおっしゃっていたわ。」

 竜は、これからどんな話を聞かされても、驚きはしないぞ、と思った。

17

「あなたたちの本当のお母さまは美樹さんとおっしゃるの。」

 いきなり、本当のお母さま、と聞いて、竜は、やっぱりびっくりしてしまった。

「あの日、あなたが予定日より少し早く生まれそうになって、美樹さんは、蓮をご近所に預けて、タクシーを拾ってご主人と一緒に産院に向かったの。そうしたら、そのタクシーが交通事故に巻き込まれて・・」

 目から涙が溢れてきて、その先が話せなくなった。

「僕が話すよ。」

 そう言って、蓮が続きを話してくれた。

 事故で瀕死の重傷を負った竜たちの母は、近くの病院に運び込まれたが、竜が生まれるのと同時に力尽きてしまった。

タクシーに同乗していた父親のほうは、即死だったそうだ。

「あなたたちのご両親は戦争で兄弟姉妹を亡くしてしまっていて、身寄りと言えば、美樹さんの従妹に当たる私だけだったの。」

 蓮の母親は少し落ち着きを取り戻して、再び話し始めた。

「真田は子供が大好きな人間なので、二人とも引き取ってもいいよって言ってくれたのだけれど、私はその年の春にミキを生んだばかりで、4歳だった蓮の他に二人の赤ちゃんも一緒に育てるというのは無理だったの。ごめんなさいね。」

 そう言うと、また、涙が溢れてきていた。

「そうしたらね。」

 蓮がもう一度代役を務め始めた。

「今の竜のお母さんが、あ、うちの父の遠縁にあたるんだけれど、話を聞いて、引き取りたいって。

もう、自分たちの本当の子を授かるのは無理のようだけれど、でも、子供はほしい、そういうときだったので、これは天からの授かりものだって思ったって。」  

18

「美樹さんはね、自分の名前が美しい樹と書いて美樹なので、子供の名前は植物の名前をつけることに決めていたの。」

 蓮の母親は、落ち着きを取り戻した声で、竜たちの名前の由来を説明し始めた。

「あなたを身籠ったときにね、美樹さんは、男の子だったら、竜と書いて「りん」と名付け、女の子だったら、蘭と名付けたい、そう決めていたの。」

「竜と書いて『りん』と読むのは、竜胆の花からですね。」

 竜がそう言うと、二人は大きく頷いた。

 「でも、あなたを育ててくれたお父様はね、男らしく『りゅう』と読ませたいって強くおっしゃったの。」

 蓮の母は、これで全部、と言ったが、一つだけ話さなかったことがある。

関係者全員で、これだけは話さないという約束が出来ていた。 

 実は、竜は双子だった。二卵性双生児。

何事もなければ、竜の後から、女の子が生まれて、蘭と命名されるはずだったのだ。

エピローグ

 あの日から、随分と歳月が流れた。

 蓮兄さんと葉子さんは、予想通り、結婚した。葉子さんのウェディングドレス姿は、陳腐な言い方だが女神としか言いようのないほどの美しさだった。それまで、葉子、葉子と呼んでいた三木君が、その日ばかりは葉子姉さんと呼んでいたのがおかしかった。

葉子さんは、竜の本当のお姉さんになってくれた。今でも竜のことをマイシスターと呼んでいる。竜はそれが嬉しくてたまらないようで、いい年をして二人の家に入り浸っている。やはりドラゴンにはなれない。せいぜいゴロニャンとじゃれつく猫である。

 三木君とミキちゃんも結婚した。ミキミキさんが本当に誕生してしまったのである。

二人の結婚式では矢島君が友人代表としてスピーチをしたのだけれど、今からでも遅くはない、考え直してくれと叫んで、式場に予め持ち込んでおいた教会の窓の模型を叩く真似をして、大喝采だった。みんな映画「卒業」の有名なシーンを真似たジョークだと思ったようだけれど、あれは矢島君の本音だったと思う。この時、大野君が矢島君を慰めた言葉が冒頭のセリフである。

その矢島君も、しばらくしてミキちゃんの友人を紹介されて結婚したし、同じ頃、弓田君、児玉君そして大野君も続けて結婚式を挙げた。大野君の奥様は、びっくりするくらい可愛らしい人で、二人は、一緒にいると必ず親子と間違われている。結婚式で、仲人さんが大野君の紹介をするとき、生年月日のところで急に大声になったのが笑えた。この仲人さんは、竜たちのクラス担任だった宮本先生がなさってくれたのだけれど、大野君と二人並ぶとどっちが新郎なのか分からないくらいだった。

 竜だけは、いまだに独身である。

「結婚すればいいのに。」

そう言っても、

「僕には蘭がいるから、それでいい。」

と言って、相手を探すこともしない。

あの日、竜は、はっきりと理解したのだった。真田家で自分の出生について聞かされたあの日。

何故、あの不思議な夢を何度も見たのか。

何故、葉子さんは、自分のことをマイシスターと呼ぶのか。

何故、小学生の頃、現実のミキちゃんが自分には見えていなかったのか。

その理由が竜にははっきりと分かったのだった。

肉体を持ってこの世に生を受けることが出来なかった私、もし生まれてきていたら、自分の妹の蘭と呼ばれるはずだった私が自分の中にいて、時には妹の優しい眼差し、時には恋人のキラキラ輝く眼差しで見つめながら、ずっと一緒に生きてきたからだということを。そして、二人はこれからもずっと、ずっと一緒に生きていくということを。 

                                          完


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