産声
ミサキは警察署のロビーで腕時計をちらちらと見ていた。
AM09:05
ロビーの入り口が開くたびに手に持っているファイルを開き、ため息をつく。
ふと思い立ちロビーの外に出て、深呼吸をする。
心地よい空気が自分の肺の中に吸い込まれるのを感じた。
アスファルトの上にはさきほどまで天空を彷徨っていた桜の花びらが積もっていた。
道の両側に整然と並んだ木は、桃色と緑色がまだらに彩り、生命の息吹が物悲しげに光る吐息を発しているかのようだった。
一つ、また一つと桃色の光が天空に舞い、風の向くままに彷徨い続け、まるで運命であるかのように、力なくそっと地上へ落ちる。
そしてまた、一枚の桃色の光が天空へと吸い込まれた。
スクランブルを描きながら舞い上がる桃色の光は、今度は波に揺られるように高度を下げ、ミサキの肩に静かに着地した。
「新人君。初日から遅刻?」
ミサキは悪戯っぽく笑うと花びらを慎重に摘んだ。
「こいつめ」
目の前に花びらを翳して寄り目をする。
「あの!シイナさんですよね?」
急にばかでかい声をかけられ、そのままの体勢で振り向く。
ゆっくりと寄り目が治っていくと、花びらの向こうに写っている青年の顔にピントが合った。
汗だくの顔は微妙に引きつっていた。
<走ってきたのか>
両肩を激しく上下させていた。歳のわりにはまだ幼さが残っていて、細めの目にキリッとした眉。
歌舞伎俳優が似合いそうな面持ちをしていた。
<まあ悪くはないわね>
ふとそんなことを思った。
ミサキは軽く咳払いをすると花びらをファイルにしまいこんだ。
「いいえ。違いますけど」
わざと涼しい顔を作ってやる。
「えっあっ違いました?すっすみません!人違いしました!申し訳ありません!」
青年は自分の膝にまでくっつきそうなくらいに深々と頭を下げた後、大慌てでロビーの中へ駆け込んでいった。
自動ドアがのんびりと開くのを待てずに身体を滑り込ませて通ろうとしている。
無事に自動ドアを通り過ぎた後は何もない所でつまづいていた。
ミサキは苦笑いを浮かべながら、再びファイルに目を落とした。
「これからのこの街の治安が心配ね……」
独り言を言うと、青年の後を追う。
ロビーの中に入ると、青年が落ち着かない様子で辺りをキョロキョロと見渡していた。
再びミサキと目が合った。
「人探しですか?」
「え?あっはい!ここで上官と待ち合わせしてたんですが……」
青年は腕時計を目の前までもってきて時間を確認している。
AM09:10
「どうやら向こうのほうが遅刻のようですね。助かったー」
白い歯を見せて屈託のない笑顔を見せた。
<まあ悪いけど、悪くはないわね>
「それはよかったですね」
ミサキも笑顔を返す。
青年は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにもとの笑顔に戻った。
「えっええ!配属初日でいきなり遅刻するところでした。やっとこさ念願の部署に配属になったのにいきなり『クビッ』なんて言われたら、もうショックで切腹するところですよ」
青年はわざとらしく腹を刺すフリをしている。
その顔には充分似合っているように思えた。
「面白い方ですね、サクラギさんって」
「へっ?失礼しました。突然ベラベラと。ところであなたはどこの部署の方なんですか?これも何かの縁かもしれませんので、お名前だけでも」
ミサキは急に真顔になって首を傾げた。
<そろそろ勘弁してやるか>
「ミサキです。シイノ、ミサキです」
「ミサキさんですかー。いい名前ですね!どうも始めまして!わたくし、サクラギと申し……シイノ?」
「・・・」
サクラギの顔から血の気が引いていくのがわかる。
「ワタシの所属がどこかは言わなくてもわかるわよね?」
ミサキは思いっきりの笑顔を浮かべた。
「……はい……なんとなく……」
サクラギは苦虫をつぶしたような表情をする。
「遅刻した挙句に署内でナンパとは実に肝が据わってるわねー。サクラギ君」
「申し訳ありません!」
サクラギはまた膝に頭がつくような姿勢になっている。実際ついていそうだった。
<イジメ甲斐のある奴>
ミサキは心で笑うと、黙って後ろに振り向き、腕組みをする。
しばらくの沈黙。
「あのー先輩……怒ってますよね。ぼっ僕どうなっちゃうのでしょうか?」
「クビっ!」
「・・・・・」
返答がないのでミサキが振り向くと、サクラギが自分のお腹を擦っている。
「ぷっ!」
ミサキは思わず吹き出して笑った。
「え?」
サクラギは呆然とした表情をしている。
「あははは!面白いわね!サクラギ君は!」
「……」
「今日からあなたの教育係に任命されましたシイノミサキです!
まあ、厳しい現場だけど、楽しくやりましょう!」
ミサキはカチッと敬礼をすると、左目だけを瞑ってみせた。