夢の続きは何時か
松本大成監督退任のニュースは、それなりの驚きをもって世間に伝わった。サッカー系媒体は当然ながら、スポーツ新聞各紙のサッカー欄、さらには一般紙の地方欄にも顔写真付きで報じられ、翌日には入場制限のある中でサポーターが代わる代わるやってきては指揮官に感謝の言葉を送った。
ユニークなのは、感染対策で前もって録音した音声に手拍子を合わせてコールするという方法だった。選手としてはJリーグ昇格間もないクラブ黎明期を支え、引退後はコーチとして複数の監督の右腕を務めてチームを掌握。2015年途中に現職に就いてからは、6年近くの長きに渡ってチームを率い、財力が乏しい部類に入るアガーラ和歌山というクラブを、国内最高峰リーグの中位以上の順位をキープする手腕も見せた。特に2020年は剣崎という大黒柱を失いながらも、降格なしという特例に救われながら最下位争いにも巻き込まれることもなかった戦いぶりは見事であり、いわばアガーラ和歌山の『生き字引』であった。
そしてそんな指揮官に恩義を感じている選手も多い。その筆頭が猪口であった。
「今の自分…特にプロになってからこうやっていろいろなポジションだとかトレーだとかができるようになったのは、全部監督のおかげだと思ってます。スピードとスタミナだけだった自分に技術をつけてくれたから今の僕があるんで…。なんとか笑顔で送り出したいです」
一方で沈痛な面持ちをしているのが、転落の元凶とも言える大スランプ中の剣崎であった。
「マツさんを男にするつもりで帰ってきたのに、辞めさせる羽目になって…。マジで申し訳ないっす。明日の試合こそ点をとって…なんとか盛り返したいんすけどね」
そして勝ち越しを目指して迎えたホームゲーム湘南戦。けが人も戻ってようやく万全に近いオーダーを組めるようになった和歌山のスタメンは次の通り。
GK20友成哲也
DF32三上宗一
DF5小野寺栄一
DF6カイオ・ロドリーゴ
DF19寺橋和樹
MF38ユン・ソンイル
MF2猪口太一
MF8栗栖将人
FW13須藤京一
FW9剣崎龍一
FW33村田一志
FW登録が3人出場しているが、実際試合が始まると、和歌山の布陣はクラブの伝統と言える、中盤がダブルボランチのボックス型4-4-2。栗栖が右サイドハーフ、須藤が左に入っている。一時はJリーグを席巻したかに見える強力3トップから原点回帰を選んだ格好だが、するとどうか。和歌山は湘南を圧倒するゲームを展開した。
もちろん順位上の格差(といっても現状は僅差ではあるが)は多少なりあるが、むしろチームの血の気は残留争いの渦中である湘南のほうが盛んでゲームの入りもスムーズだった。実際、この試合のファーストシュートは湘南のFWが放っている。
しかし、カリスマ性のある指揮官の退任がカンフル剤となった和歌山はここから試合を支配した。中盤で猪口が的確にパスをつなぎ、左サイドからは須藤が再三中に切れ込むドリブルでチャンスを作る。そして前半18分、剣崎のシュートで得たコーナーキックのチャンス。栗栖のセンタリングをドンピシャリで捉えた村田がネットを揺らして先制点を挙げる。前半はこの1点で折り返したが、後半は怒涛のゴールラッシュ。開始からわずか1分、中盤でボールを奪った猪口がそのままドリブル。センターサークル付近から始まった単独ドリブルは、そのまま誰にも奪われることなく自らシュート。そのままネットを揺らした。さらにフリーキックのチャンスを得ると、栗栖が鮮やかに湘南の選手たちが作った人間の壁を緩やかに超えながら鋭くゴールに突き刺さった。
20分以降、選手交代でフレッシュな選手が投入され、それぞれ結果を出す。まず寺橋に代えて久々に出場した藤井がそのまま左サイドバックのポジションでプレー。すると自らのオーバーラップでチャンスを作り、ゴール前にクロス。それを村田に代わって投入された関が押し込む。とどめは須藤に代わって投入された根島が強烈なロングシュートを叩き込んだ。怒涛のゴールラッシュかつ、それでいて集中力を切らさなかった守備陣が完封。5-0の完勝で泥沼の連敗から脱することができた。
だが、一人微妙な表情を見せていたのは、背番号9だった。
この日、剣崎は90分フル出場し、シュートも両チーム最多の6本を放ったが、いずれも枠にすら飛ばなかった。後半20分過ぎにこぼれ球を押し込みにかかったが、ボールには不自然な回転がかかってしまい、高く浮き上がってクロスバーに弾んで彼方に飛んでいった。
「無様だな。エースのくせに全然ゴールに飛ばねえじゃねえか」
ゴール裏へのあいさつを終えて引き上げていく道中、友成が剣崎に話しかける。いつものように毒づきながら。
「ケッ。好きで外してんじゃねえよ」
対して剣崎は見下ろしながらぼやく。その後にポツリとこぼす。
「でもなあ…なんで入んねえんだろうなあ。練習じゃ入るのに、全然感覚が戻ってこねえんだよ」
ため息交じりに屈める背中には、どこか哀愁すらあった。
「…重症だな。目が死んだまんまじゃねえか」
友成は首を傾げながら、剣崎の不調が根深いことを感じた。
息を吹き返した和歌山は、続く神戸戦も相手の攻撃に耐えて1-1のドローに持ち込む。その1点は竹内のクロスを剣崎がシュートを放ち、相手DFに当たってこぼれたボールを、猪口が押し込んだものだった。剣崎はこの日も5本のシュートを放ったがまたも無得点だ。
「どうしたんだ剣崎。日本代表のエース、俺が代わりにやってやろうか」
「ざけんな。エースは俺だ。…でも出口が見えねえからマジで取られそうだけどな」
試合後の整列の最中、西谷の茶化しに剣崎は一度は噛みつくも、そのまま弱音もこぼした。
「らしくねえな。今のお前」
「だろ?どうも血の気が戻り切らねえんだよ」
案じた西谷にぼやく剣崎。西谷もまた、その苦しみように驚いていた。
(あいつが弱音?…珍しいこともあるもんだ。それですみそうにねえけどな)
しかし和歌山のカンフル剤もそうそう効き目が永続的に出るわけでもなく、続く仙台戦ではまさかの2-3で逆転負けを喫し、徳島との紀伊水道ダービーも2点リードを守れずドロー。この間も剣崎は一度もゴールを決められず、いよいよホームで迎える清水とのシーズン最終戦を迎えることになる。
(あー…やってらんねえ…)
その前日、自宅のベッドにて剣崎は大の字になって天井を見上げていた。
この日の練習も、シュートの足応えは悪くなかった。むしろ、感覚は徐々に戻ってきている。だが、なぜか試合ではまるで決まらない。シュートする直前までは練習で磨いたイメージ通りのタイミングでボールを振り抜くのだが、足に当たった瞬間に何かが狂う。あるいは、蹴られたボールが剣崎を拒んでいるかのように、あり得ない方向に飛んだり、ボテボテのボールすぎて簡単にクリアされたりの繰り返しである。練習通りに行ったなら、剣崎的には4点は決まっているはずなのである。
(いったい何だってんだ?どうすりゃゴールが決まるんだ…。もうわかんねえよ…一生決まらねえんじゃねえかって思っちまう‥‥)
その時、彼のスマホが鳴った。
「誰だ?」
見慣れぬ番号からの着信。だが、剣崎はためらいなく出た。
「はいもしもし?誰だ?」
『誰だって何よ。幼馴染の声を忘れちゃった?』
「ん?あ?…玲奈か?」
『せーかーい。声だけでも情けない状態ってのがわかるわね』
声の主は、剣崎の幼馴染であり、女子サッカー選手でもある相川玲奈であった。元日本代表FWであり、海外や日本の強豪クラブでのプレー歴を持つ。現在は古巣でもある和歌山県の女子サッカーチーム、南紀飲料セイレーンズに籍を置く。
『川崎戦でやらかしてからというものの、何やってんのあんた。いっちょ前に悩んじゃってさ』
「るせえな…。いいだろ悩むぐらい。俺だって人間なんだよ」
『人間離れした結果ばっか残してきたあんたのセリフじゃないわね。は~、海外行ってかえって腑抜けちゃったのかしら』
「…久々に声を聞かされたと思ったら罵倒の嵐かよ」
『罵倒もしたくなるわよ。あんた“一応”あたしの恋人でしょ?なのに全然連絡来ないんだから。ウというかムッツリというか、どうやってもわかんないんだったら恋人に愚痴の一つでも吐きなさいっての!』
幼馴染からの『恋人』というフレーズに、剣崎は思わず飛び起きた。
「んな!?ば、バカ、お、おれはお前とそんな仲…」
『アハハ!めっちゃ照れてんじゃん!』
「…てんめえ…人をおもちゃにするんだったら切るぞ!」
『おう!切っちゃえ切っちゃえ。その血の気こそあんただよ。じゃ~ねえ』
時間にして1分前後のやり取り。だが、終わった後、剣崎はほーっと天井を見上げる。何かが自分の身体から抜けていくような感覚があった。そしてこう感じた。
(…なんか明日点取れそうだな)
翌日の試合。アガーラ和歌山のホームスタジアム、県営紀三井寺陸上競技場は、感染対策による入場制限、その上限いっぱいのサポーターが駆けつけた。ゴール裏は退任する松本大成監督への横断幕であふれ、労う文言の書かれた真新しいものから、どこから引っ張り出したのかと言いたくなるぐらいに、古ぼけた現役時代のものまで、さながら展覧会のようだった。そんな試合のスタメンで送り出されたのは次の11人。
GK20友成哲也
DF32三上宗一
DF5小野寺英一
DF3上原隆志
DF19寺橋和樹
MF24根島雄介
MF2猪口太一
MF39榎原学
MF8栗栖将人
FW33村田一志
FW9剣崎龍一
さらにスタジアムを沸かせたのはリザーブメンバー。
「リザーブDF、背番号18。鶴来っ大成!!」
長期離脱していた鶴来が、ラストゲームで今季初のベンチ入り。かつて和歌山の右サイドの看板に君臨し、今は復帰を目指すサイドアタッカーのベンチ入りはこれ以上ない朗報だった。清水サイドにとってやりにくいことこの上ない。試合は出来上がった空気感からすでに勝敗が決まっているようなものだった。これに和歌山サイドが気負ったプレーをするのならまだ付け入るスキはあっただろうが、むしろこの雰囲気を血肉に変える選手が揃っていた。
「うおりゃ!」
「うわっ」
開始早々、清水のパス回しを猛然とカット。気迫を漲らせながらピッチ中を駆け回る猪口を、清水の選手たちは叶わない。磨き上げたドリブルでタックルもいなしながら攻め上がり、左サイドに展開。これを栗栖がダイレクトでゴール前に放り込む。これが剣崎の頭上に迫る。
(なんかいけそうだ。やってみっか!!)
意を決した剣崎は、力強く地面を蹴り、そのまま空中で身体を捻り、豪快なオーバーヘッドボレー!左足で捉えた一撃は、誰もが立ち尽くす中でゴールネットに突き刺さる。実に13試合ぶりの一発はスタジアムに万雷の拍手を巻き起こした。おそらく、感染症対策での制約がなければ大歓声だったろう。
一方で剣崎は、高難易度のシュートがあまりにも思い通りにあっけなく、このトンネルの長さはなんだったのだろうかと思うほど、拍子抜けしていた。その背後から…
「ナイスゴールっすザキさん!!」
「すげえっす!さすがエースっすよ!!」
「うごっ!!」
若い力である村田、榎原が飛びついて祝福。そして徐々に味方が近づき、剣崎と喜びを分かち合う。そんななか、栗栖はふとささやいた。
「玲奈からおせっかいあったか?」
「ん?まあ、そんなとこだな。…お前の裏金?」
「差し金だろ、それを言うなら。んなわけね。なんとなくそう思った。あいつと会話しいた後のお前の顔って、いっつもすっきりしてんだ」
「は?そうか?」
「自覚なしかよ。それぐらいそろそろしろ。お前は自分が思ってる以上に、あいつが好きなんだよ」
「!!?」
グータッチで腹を小突いて栗栖は去っていく。剣崎は、不思議な感覚だった。そしてそれを…理解した。
(そうか…俺はあいつが好きなんだな…)
そこからは、もはや和歌山のゴールラッシュだった。
ノーゴールの呪縛から解けた剣崎が、前半20分過ぎに再びゴールネットを揺らすと、終了間際にもシュートを放つ。これは相手DFが足でブロックしてはじくが、そのこぼれ球に榎原が詰めて3-0で前半を折り返す。後半も、早い時間帯で選手を入れ替える余裕の試合運びで、村田と代わった須藤、榎原と代わった竹内がそれぞれゴールを決める。オウンゴールで1点を失ってしまったものの、最後は猪口が渾身のミドルを叩き込み、一目散に松本監督のところに駆け出し、飛び込んで抱き着く。その目には涙があふれており、そこに選手たちが次々と駆け付け去り行く指揮官と惜別と感謝の抱擁を交わした。
そして、紀三井寺陸上競技場に試合終了を告げるホイッスルが響いた。一つの時代に区切りがつき、夢の続きは持ち越しとなった。
次回、重大情報告知予定。