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第二章:刑事 天利真由

前回投稿からかなり時間が空いてしまいすみません。

ゆっくり投稿していきます。

 実夏子は副部長の梶浦と共に、部室棟の前で待っていた。

 いつも溌溂としていた表情は今日ばかりは厳しく引き締まっており、顔色は若干青白く見える。そんな実夏子だが潤と小鳥居の姿を認めると、気丈に笑みを浮かべて右手を上げて見せた。

「来てくれたんだね。ありがとう」

「ああ、いえ……。ちょうど講義に出るために正門の方まで来ていたので。……それより、本当なんですか。その、安孫子さんの件……」

 無論、冗談でそんなことを言うとは思っていなかったが、それでも他殺だなんて俄かには信じがたいことだ。

「うん……。遺体を発見したの、あたしと梶浦くんなんだ。自殺や事故じゃない。間違いなく安孫子くんは、殺されてたよ」

 そう言うと、実夏子は自らの二の腕を擦ってぶるりと震えた。そんな実夏子の様子を横目で見て、話の続きを梶浦が引き取った。

「安孫子は刃物で何か所も刺されたみたいで、血まみれだった。でもぱっと見た限り、部室には凶器らしいものもなかった。安孫子は誰かに刺されて、凶器の刃物は犯人が持ち去ったと見るべきだろう。……それに」

「それに?」

「いや、なんというか……安孫子が犯人の名前を告発したと思われる血文字も残されていてな。所謂ダイイングメッセージ、ってやつか」

「なんだ。じゃあ、犯人が誰かは分かってるんですね」

 若干声を明るくして、小鳥居が言った。

 だが梶浦も実夏子も、表情を暗くしたまま小鳥居の言葉には答えない。その表情には自分の見たものが信じられない、信じたくないと言いたげな困惑の色が見て取れた。

「……その、ダイイングメッセージ。なんて書いてあったんですか?」

「それは……」

 梶浦は眼鏡を一度くいと上げると、一度溜息をついて、それから観念したように小さな声で言った。

「ミズホ、と。片仮名でそう書いてあった」

 そう言うと同時に、じゃり、と砂を踏む音がして。

 視線を向けると、春川水帆が茫然とした表情で立ち尽くしてこちらを見ていた。


                  *


 潤と水帆の出会いは二人が一年生の頃、さんぽ部に入るよりも前のことだった。

 春、サークルや部活の勧誘活動が活発に行われている時期。

 高校までやっていたバレーボールのサークルに入るか、他のスポーツを始めてみるか、それとも文化系のサークルを選ぶか。大学特有の文化ということで何かしらのサークルには入りたいと思っていたが、決めかねていたときに出会ったのが、水帆だった。


 色々なサークルの見学に行ってみようと講義後にキャンパスをぶらぶらしていたところ、財布を落としてしまった。

 やけに軽い尻ポケットに気づいたとき、さあっと顔から血の気が引いていくのを感じたのを今でもよく覚えている。

 ぼけっとしているとよく親に注意されていた潤はやたらと落とし物の多い子供だったが、それが矯正されないままに大学生になってしまった。

ノートやボールペンを落とすのとは訳が違う。潤は必死にリュックの中身をひっくり返したり、事務室に落とし物を問い合わせたりと奔走したが、結果は振るわず。

 いつまで財布があったのかもよく覚えていなかった潤は、その日朝から辿った道のりをトレースしながら探す羽目になった。

「あの……どうかしました?」

 そんなときに声を掛けてきてくれたのが、水帆だった。

 よほどひどい顔色をしていたのだろう。地面に這いつくばった体勢の潤を覗き込むように、心配そうな顔がこちらを見ていた。

「え……いや、あの……」

「何か、お困りですか?」

 優しい声色に、少しだけ心が落ち着くのを感じた。

「実は、財布を落としてしまったみたいで。な、情けないですよね、はは……」

「そんな、大変じゃないですか! どんな財布ですか? よければ私も探しますよ」

「え、そんな悪いですよ。僕が不注意だったのが悪いんですし」

「そんなことないですよ。『困ったときはお互い様』って、よく言うじゃないですか」

 そういった水帆の笑みが、とても優しくて。

 柔らかな春の陽光を浴びて、輝いてさえ見えた。

 その瞬間にきっと、恋に落ちてしまったのだろう。


 結局、財布は食堂の机に置きっぱなしだったのを水帆が見つけ出してくれた。

中身が全部無事だったのを見て、潤は安堵のあまり力が抜けて椅子に座り込み、水帆はそんな潤を見て笑っていた。

「本当に、ありがとうございました。お礼と言ってはなんですけど、飲み物くらいは奢らせてください」

 清楚そうな見た目に反してジャンクな飲食物も大好きらしい水帆のリクエストがコーラだったのが意外だった。

 そうして一緒に飲んだコーラの味を、潤は今でもよく覚えている。

 喉を通り過ぎていく炭酸と独特な甘さが心地よくて。

 潤がさんぽ部に入部したのも、このときの雑談で水帆が入部を検討していると言っていたからなのであった。


                  *


 現場から運び出されていく若い男の遺体を横目に、天利真由は小さく溜息をついた。

 大学内の部室棟の一室。

 そこで被害者は惨殺された。

 広範囲の床と壁の一部にまで血が飛び散っており、遺体の状況から見ても、被害者は何度も何度も身体を刃物で突き刺されたものと見られる。犯人の強い殺意を感じる。

 二十二歳。

 ―――まだ若い。死ぬには、早すぎるほどに。

 遺体となった顔も血の気が引いて恐怖と苦痛に歪んではいたものの、生前は端正であったのだろうと感じる面影はあった。異性にも、さぞ人気があったのであろうに。

 だが、それがそもそも彼が殺される原因になったのかもしれない。

 天利の視線の先には、遺体が転がっていた近くの床に書かれた血文字。

 ミズホ、とそう読める。

「この部室を使用していたのは『さんぽ部』と呼ばれるサークルですが、そのメンバーの中に、ミズホという名前の女子学生がいました」

 天利が血文字に視線を向けているのに気づき、部下の来生聖が声を掛けた。

「教育学部二年生の春川水帆です。もうこれは、この女子学生が犯人で間違いないですね。ずばり動機は痴情のもつれってやつでしょう!」

「余計な先入観は捜査に禁物。いつも言っているでしょう。それで、被害者の死亡推定時刻は?」

「はい、昨夜の午後十時から十二時頃のようです」

 ずいぶん遅い時間だ。

 そんな深夜に、被害者と犯人はこの部室で何をやっていたのだろうか、と天利は眉根を寄せる。これからの事情聴取でそのあたりの情報が明らかになればよいのだが。

「もうサークルの関係者は集めてあるわね?」

「はい、勿論です!」

「なら、ここはあとは鑑識に任せて、私たちは取り調べに移るわよ」

「はい!」

 天利真由。

 彼女こそは警視庁捜査一課に所属する叩き上げの女性警部である。


                  *


「湯川実夏子、経済学部の三年生です。さんぽ部の部長です」

 取り調べ用に借りた空き教室に、最初に呼び出したのは湯川実夏子だった。

 艶やかな黒髪を後ろで一つに纏めており、露出した広い額は活発さと同時に聡明さも感じられる。

 だがその表情も今は暗く沈み、本来持っているであろう彼女の魅力を減衰させてしまっているようだった。

「あなたと副部長の梶浦行智くんが、安孫子くんの遺体の第一発見者だったわね?」

「はい。部室のドアの調子が気になって」

「ドア?」

 聞き返す天利に、実夏子は小さく頷いた。

「昨日もさんぽ部の活動があったんですけど、その直前にあたしと梶浦くんは部室で打ち合わせをしていたんです。そのときにあたしがちょっと壁にドアをぶつけてしまって。それで建付けがおかしくなっちゃったみたいなんです」

「というと?」

「ドアを閉めていても、ひとりでに開くようになってしまって。鍵をかけていれば大丈夫なんですけど、開錠すると開きっぱなしになってしまうんです。それで業者の人に頼んで直してもらう必要があるねって話になって、もう一度ドアの状況を確認するために、一限の講義の前に部室に立ち寄ることになって、それで……」

 安孫子佳孝の遺体を発見することになったというわけだ。

「安孫子くんはその部室のドアのことを知っていたのかしら?」

「あたしは言っていません。あたしと梶浦くん以外の部員は誰も知らなかったと思います。梶浦くんが話していたのであれば知っていた可能性はありますけど」

「部室にはいつも鍵をかけているのよね? 部室の鍵は誰が管理しているの?」

「大学側の事務室で一つ管理しています。あとは合鍵をひとつずつ三年生で持っていました。あたしと梶浦くん、それから安孫子くんですね」

 つまり、鍵のかかっていた部室に侵入することは誰にとってもそう難しくなかったわけだ。被害者の安孫子佳孝の鍵を使えばよかったのだから。遺留品から部室の鍵は見つかっていない。犯人が持ち去ったと考えるべきか。

「昨夜の十時から十二時の間の行動を説明してもらえる?」

「その時間なら家にいましたけど。あたしは実家暮らしですけど、その日はたまたま家族が出払っていて……証明はできないですね」

 実夏子は無念そうにため息をついた。


                  *


「工学部三年の梶浦行智です」

 続いて呼び出したのは、もう一人の第一発見者、梶浦行智だ。

 短く切りそろえた髪に鋭い眼光。銀フレームの眼鏡が更にその鋭利さを助長しているように見える。

「湯川さんと共に、安孫子くんの遺体を発見したのよね? そのときの状況を教えてもらえるかしら」

 天利に促された梶浦の答えは、実夏子の証言とそう違わないものだった。

「ドアの建付けが悪くなったこと、あなたは誰かに話した?」

「いいえ。本当はさんぽ部の活動の際に湯川がみんなに連絡事項として共有するはずだったんですけど、彼女、それを忘れてしまいまして。……ちょっと抜けてるところがあるんですよ、あの人」

 それは実夏子の証言ではなかった話だった。

 自分の失敗をわざわざ証言するのが憚られたのだろうか。

「じゃあ、安孫子くんはドアのことは知らなかったわけね。じゃあ、彼はあんな夜にどうして部室にやってきたのかしら」

「さあ、それは俺からは何とも。忘れ物でも取りに行ったんじゃないですか」

 淡々と答える梶浦。

 証言はしっかりしていながらも動揺が見て取れた実夏子とは対照的に、梶浦は遺体を発見してしまった関係者であるとは思えないほどに落ち着き払っていた。

「昨夜の十時から十二時頃の行動を説明してもらえる? それを証明できる人がいるかどうかも」

「その時間なら家にいましたね。十一時頃にはもう寝ていました。一人暮らしなので、証明と言われても難しいですが」

 アリバイがないことに対しても、後ろめたさも焦りも感じられない淀みない口調だった。

「安孫子くんが殺害される理由に、何か心当たりは?」

「……さあ」

 梶浦が答えるまでに、一瞬の間があった。

「想像もつきませんね」


                  *


「坂巻奈々です。教育学部の二年生です」

 険しい顔でそう名乗った彼女は、短い髪を指先で落ち着きなく弄りながら、眼だけは睨みつけるように天利の方へ向けていた。

「あの、言っておきますけど、水帆はこの事件に無関係ですから」

 硬い声でそう言う奈々に、天利は逆に柔らかな笑みを浮かべて見せた。

「私たちはあらゆる可能性を考えます。何か、春川さんが疑われる心当たりがあるのかしら?」

「そんなの、警察の人ならわかっているはずです。あたしもさっき梶浦さんから聞きました。部室の床に血文字で『ミズホ』って書いてあったって」

「ええ、その通りよ」

「そんなの、犯人の偽装に決まってます。それか、安孫子先輩が何か勘違いをしていたか。いずれにせよ、水帆は殺人なんてできる人間じゃないですから」

 真っ直ぐに友人を信じる目をしている。

 天利はそれを個人的には好意的に思いながらも、警察官としてそれを表情に出さずに奈々に反問した。

「それでは、昨日の午後十時から十二時頃の春川さんのアリバイを証明できるかしら。あなた自身のアリバイも教えてほしいのだけれど」

「それは……」

 奈々は目を伏せた。

「昨日はさんぽ部の活動の後、水帆と倉敷くんと辻丸くんと四人でボウリングしてて。それが解散になったのが午後九時ごろなんですけど、その後は解散になったので……」

 水帆のアリバイも、自身のアリバイも証明できないというわけか。

「それでも、水帆は人殺しなんてしません。それだけは言えますから」

 親友の潔白を、奈々は繰り返し訴えていた。


                  *


「辻丸翼、経済学部の二年生っす」

 髪をくすんだ茶色に染めた、明るそうな男子学生がそう名乗った。

 坂巻奈々によると、事件当日、夜九時まで春川水帆とボウリングをしていた人物の一人だ。その件を問うと、翼は何度もうなずいた。

「そうっす。初めは安孫子さんに春川さんが夕飯に誘われてて。その誘いを断るための方便で俺たち四人でボウリングに行く予定だって坂巻さんが言ったんですけど、せっかくだから本当に行くことにしようかって話になって」

「安孫子佳孝くんが、春川水帆さんを誘ったのね? 何故嘘をついてまで断って、あなたたちはそれに協力したの?」

「安孫子さん、女性関係であまりいい噂を聞かないんで。坂巻さんが『話を合わせろ』って感じで目配せしてきたんで、そういうことかなって思って」

 安孫子佳孝の異性関係については既にいくつか話が入ってきている。

 現在特定の恋人はいないようだが、複数人の女子学生に手を出してトラブルになっていたようだ。その中に、春川水帆も含まれていたのか否か。

「昨日の午後十時から十二時の間、どこで何をしていたか、証明できる?」

「お、アリバイって奴ですか?」

「そう思ってくれて構わないわ。一応、関係者全員に確認しているの」

 天利の返答に、翼は「うーん」と唸った。

「昨日は夜九時まではボウリングしてて、その後は潤と二人で近くのファミレスで夕飯食べたんですよ。それから最寄り駅まで電車に乗って移動して、ちょうどこの大学付近で潤とは別れました。俺たち二人とも、この辺りに住んでるんで。別れたのが大体十一時ごろですけど、そこから後のアリバイってのはないですね」

「この付近で別れたって話だけれど、この部室棟の近くも通ったの?」

「はい、通りました。……あ、そういえば」

 そこで翼がぽんと手を打った。

「昨日の夜十一時ごろ、ちょうど通りがかったときに、この部室の中に明かりを見たんすよ」

「明かり?」

 思わぬ有力証言に、天利は腰を浮かせた。

「部屋の照明は暗くなっていたんですけど、なんというか、小さな光の玉がぽわっと浮かんでいるような感じで。人魂だ心霊現象だって、潤とは盛り上がりましたけど、今思うと……」

翼は楽天的な締まりのない顔を引っ込め、真面目な顔を作った。

「あれって、犯人が懐中電灯か何かで現場にとどまっていた場面だったのかも。……あのとき、光の正体を部室まで確かめに行っておけば、何か変わったんですかね」

 その問いに、天利は答える術を持たなかった。


                  *


「倉敷潤です。経済学部の二年です」

 どこか思いつめたような表情で名乗ったのは、どこにでもいそうな平凡な顔立ちの青年だった。

これまでに聞いた関係者の証言によると、彼は昨日、さんぽ部の活動を終えた後は春川水帆、坂巻奈々、辻丸翼とボウリングをしていたはずである。それが解散となった後は翼とファミリーレストランで夕食をとり、十一時ごろに翼と別れた。本人の証言もその通りであった。

「翼と別れた後は近所のコンビニに寄って雑誌を買って帰りました。下宿先のアパートに着いたのは十一時半ごろだったと思います。それ以降はずっと部屋にいました」

 つまり、潤のアリバイも完璧とは言えないものであった。

「帰り際、現場となった部室の近くを通ったそうね。その際、何か見たり聞いたりしなかった?」

 潤は少し緊張しながら人魂のような明かりを見たことを証言する。

 その内容に、翼の証言と矛盾するところはなかった。

 二人が見たその明かりというのが、翼が分析していたように犯人が使用していたものである可能性は十分にある。もしくは、殺される直前の安孫子佳孝か。

 倉敷潤の証言はこれまでに聞いたものをなぞって補強するくらいで、特に目新しいものはなかった。それでも、天利はこの倉敷潤という関係者に他の者とは異なる関心を寄せていた。

「あなたは、夏に新郷家で起きた殺人事件にも関係していたそうですね」

「え……」

 潤は虚を突かれたように天利の方を見た。

「ええ、そうです。もうそこまで調べているんですね。警察って凄いや」

 実際には、この事件のために潤を調べて知ったのではなく、元々天利は新郷家での事件のことを知っていたのだ。事件の担当をしたわけでもないのにその事件のことをある程度把握していたことにはある理由があるのだが、その理由はここでは割愛する。

「こんなに立て続けに殺人事件に巻き込まれるなんて珍しいことですね」

「ええ、本当に……。あの、本当に、ただの偶然ですからね?」

 二つの事件を結び付けて自分が疑われているのかと感じたらしい潤は、少し焦ったように付け加えた。

 天利とて二つの事件を結び付けているわけではない。新郷家での事件は既に犯人も逮捕されていて、解決されているのだから。

 ただ反応を見てみたかっただけだが、潤の反応におかしな点も特に見受けられない。

 ―――この子はシロ、かな。

 余計な先入観は禁物だと自分に言い聞かせながらも、天利はそんな印象を、かの実直そうな青年に抱いたのだった。


                  *


「伊藤美沙都、です。工学部の二年生……です」

 顔を俯かせながらぼそぼそと喋っている女子大生。

 さんぽ部に所属の伊藤美沙都は、肩あたりまでの細い黒髪を僅かに揺らしながら、天利と決して目を合わせることなく自己紹介をしていた。

「緊張してる? 慣れないだろうけれど、知っていることを話してほしいの。ゆっくりでいいから」

「あの……はい……」

 刑事という立場上、相手が必要以上に緊張してしまうことはままある。美沙都は元々が内向的な性格であるようだが、殺人事件の関係者となってしまった戸惑いと恐れというものも、この沈んだ態度には関連しているだろう。

「昨日、さんぽ部の活動が終わった後のこと、話してもらえる?」

 なるべく優しい声色で天利が話しかけると、美沙都は小さく頷いた。

「解散になった後、一年の和田樹里香さんと一緒にアルバイトに行きました。田霧の『あさひや』というスーパーマーケットなんですけど……。そこで夜十時まで働いた後、帰りました。家に着いたのは十時半ごろだったと思います。『あさひや』を出た後からはずっと一人だったので、アリバイというのは特にありません……」

 小さな声ながら、美沙都は順序良く必要なことを話してくれた。声が小さいだけで、頭はいいのだろうと天利は思う。

「では、被害者の安孫子さんが殺害される動機に心当たりは?」

「い、いえ……。分かりません」

「安孫子さんはあまり女性関係でよい噂を聞かないそうですが?」

「あの、私はそういうことには疎いので……。私は安孫子さんに変なこと言われたことないですし……」

 話す美沙都の目元には前髪が垂れており、瞳が隠されている。

 天利には美沙都の言葉の真偽は判断できなかった。


                  *


「文学部一年の和田樹里香ですー……」

 しょんぼりとした様子で話す小柄な女子学生。

 桃色のヘアバンドで髪を後ろで一つにまとめている和田樹里香は、幼い顔立ちも相まって大学どころか中学生といっても信じてしまいそうになるくらいに幼く見える。

 天利が事件当夜のアリバイを訪ねると、あどけない顔をきりりと引き締めて天利の方を見返した。

「あたし、さんぽ部の活動の後は伊藤さんと一緒に『あさひや』っていうスーパーのバイトに行きました。終わったのが夜十時ごろですけど、その後一緒にバイトをしていた野口彩花ちゃんっていう子と晩御飯食べに行きました。解散したのが十一時くらいで、そこからは一人暮らしのアパートに帰りました」

「十一時以降の行動について、証明してくれる人はいる?」

「彩花ちゃんと別れてからはまっすぐ帰ったし、ずっと一人だったんで……。でも、夜も遅かったし、誰だってそんなものですよね?」

 実際、ここまでの事情聴取でアリバイが成立した関係者はいなかった。

 時間も時間であるし、むしろその方が自然なのは確かだろう。

「被害者の安孫子佳孝くんが殺害された理由に、何か心当たりはある?」

「んー、それはぁー……」

 樹里香は少しの間言いにくそうにしていたが、やがて少し身を乗り出して天利の方へ顔を近づけてきた。

「多分みんな知ってることだと思うんで言っちゃいますけど、安孫子さんって女癖がすっごく悪くて。あたしも何度か軽く誘われたことありました」

「誘われた、とは?」

「食事とか、どっか遊びに行こうかとか。安孫子さんってイケメンだし、噂とか何も知らなかったら浮かれて誘いに乗っちゃってたかも。でも最近は春川さんがお気に入りだったみたいで、あたしには声かからなくなってきてましたね」

 遠回しに春川水帆が怪しいと言っているようにも聞こえる言い方だった。


                  *


「小鳥居仁郎。理学部の一年です」

 淡々と名乗ったのは細身に長身な身体に醒めた瞳が印象的な男子学生だった。先ほどの和田樹里香と同じ一年生だが、第一印象から性格は対照的に見える。

 斜に構えた皮肉屋。

 それが天利から見た小鳥居仁郎の第一印象だった。

「早速で申し訳ないのだけれど、昨夜の十時から十二時に何をしていたか、それを証明してくれる人がいるのかどうか、教えてもらえるかしら」

「あるわけないでしょう、そんな時間に。彼女とチャットアプリでやり取りしてましたけど、そんなのアリバイにもならないでしょ?」

 どこか棘のある言い方ではあったが、職業上、これくらいの嫌味には慣れている。あまりは笑顔で受け流すと、次の質問に移った。

「今回の事件の犯人に、心当たりはある? 単なる印象とか何となくとかでもいいから、何かあったら教えてくれるかしら」

「さあ。安孫子サンは女性関係にいい噂はなかったみたいですけど、振った振られたとかそれくらいのことで殺すかな、とは思いますね」

「動機は女性関係とは別にあるんじゃないか、と考えているのね?」

「別にそこまではっきりとは……。もしそういう動機なんだとしたら、理解に苦しむなと思っただけです」

 恋愛感情なんかに振り回されるなんて馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな口調だったが、その一方で、自分は深夜まで恋人と連絡を取り合っていたようだが。それだけ自分も彼女を大切にしているのではないのか。それとも、それも単なるポーズに過ぎないとでも言うのだろうか。

 そんなことを天利は考えていたが、事件には関係のない問答だと思い、その疑問を封印することにする。

「もういいですか」

 自分には関係ない事件だとでも言いたげに、小鳥居は平坦な声で天利にそう言った。


                  *


「春川水帆です。教育学部の2年生、です」

 これまでの関係者たちと比べてもより一層硬い表情で、彼女はそう名乗った。

 腰まで伸びた艶やかな黒髪に白い肌がよく映える美しい顔立ちの女生徒だ。安孫子佳孝の残した「ミズホ」のダイイングメッセージと同じ名前を持つ彼女は、自分が一番の容疑者であると自覚しているようだった。

「そう緊張しないで。あなたの知っていることを話してくれればいいだけだから」

「……はい」

「それじゃあまず、昨夜の十時から十二時頃どこで何をやっていたか教えてくれる?」

 天利の言葉に、水帆はごくりと唾を飲んで喉を上下させた。

「下宿先のアパートにいました。一人暮らしなので、証明してくれる人というのはいませんが……」

 これでさんぽ部のメンバー全員にアリバイが成立しないことが確定した。

 アリバイだけのことを考えるならば、誰にでも犯行は可能だったと言える。

「あなたは被害者の安孫子さんによく迫られていたそうですね」

「安孫子さんは、誰にでもそんな感じでしたから」

「最近は特にあなたにご執心だったと聞いていますよ」

「ご執心だなんて……。一過性のものだったんじゃないですか」

「あなたの他に、誰か声をかけられていた女性に心当たりはありますか?」

「先ほども言いましたけれど、安孫子さんは誰にでも声をかけていました」

 水帆ははっきりとしたことは何も話さない。

 ただその口ぶりから、安孫子に対して決していい印象を持っていなかったであろうことは察せられた。

 あまりは他の関係者には見せなかった写真を一枚、水帆に見えるように差し出した。

 亡くなった安孫子の手元を写した写真。

 仰向けに倒れたその床に、自らの血で「ミズホ」と書かれていた。文字は安孫子の頭から足元に向かう向きで縦に書かれている。

「この文字に、何か心当たりはありますか?」

「……ありません、何も。安孫子さんの周囲で私の他に『ミズホ』という名前の人がいるかどうかも知りません」

 自分は何も知らないのだというように、水帆は力なく何度も首を振っていた。


                  *


 全員の取り調べを終え、一旦は関係者たちを返すことになった。

 あとは鑑識や司法解剖の詳細な結果を待ちつつ、さらに広範囲に聞き込みをかけていきながら容疑者を絞っていくことになる。

「春川水帆の任意同行はまだ早いですかね?」

「早いわね。被害者の周囲に他に『ミズホ』という名前の人物がいるかもしれないし、そもそも犯人の偽装かもしれない、という坂巻奈々の主張も一理ある。ダイイングメッセージは確実な物証とはなりえない」

「でも、警部だって春川水帆は怪しいと思っているんですよね?」

 来生の言葉に、天利は明確な返答を避けた。

 確かに、水帆は何かを隠しているというか、心当たりがありそうな態度をしているとは思った。だがそれは刑事の勘といえる次元での話である。

 ただ現場の状況からも、天利をはじめとする捜査官の印象からも、現時点で水帆が第一容疑者であることは確かだった。

「その他気になることとしては、辻丸翼と倉敷潤の証言の中に出てきた現場の明かり、でしょうか」

「そうね。被害者が何らかの用事で部室に行っていたのであれば普通に電気をつけるでしょうし、わざわざ部室の電気を落として小さな明かりで作業をしていたのであれば、それは犯人の可能性が高い、でしょうね」

 つまり、それを共に目撃した倉敷潤と辻丸翼は犯人候補からは遠い位置にいると言えそうだ。無論、確実な話ではないのだが。

 ―――いずれにせよ、必ず犯人は検挙する。刑事としての誇りにかけて。

 天利の瞳には鋭い光が宿っていた。


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