第一章:紅園大学さんぽ部
紅園大学は東京都紅園市に本部を置く私立大学である。
総合大学として六学部十五学科を持ち、偏差値の割りには就職がいいと評判で、サークル活動なども盛んに行われている。ユニークで珍しいサークルが多いのが特徴で、デニム同好会、虫取りの会、アイドル研究会、新米を愛する会、超能力研究会など枚挙に暇がない。
そんな中で考えれば、自分の所属する「さんぽ部」などというのは特別珍しいものでもないのかもしれない、と倉敷潤は思っている。
さんぽ部の活動内容は単純明快で、その名の通り週に一回、ぶらぶらとその辺を散歩するという緩いサークルである。それでも九州の片田舎から単身上京してきた潤にとって東京とは全くの未知の場所であり、ぶらぶらと散歩がてら色々な場所を案内してもらえるというのは、意外に実用面でも悪い話ではなかった。
そして今日もまた、潤はさんぽ部の活動で紅園市の南部、赤迫と呼ばれる地域へとやって来ていた。
「この辺りは駅から遠いからちょっと不便だけど、いい古書店が結構揃ってるんだよね。あたしは『ミニ神保町』とか密かに呼んでいるけど」
「湯川に古書を読む趣味があったとは意外だな。漫画くらいしか読まないと思っていたが」
「うん、そうそう。あたしは専ら中古の漫画ばっか漁ってるよ」
けろりとした表情で舌を出してそう言ったのは、このさんぽ部の部長、湯川実夏子。艶やかな黒髪を後ろで一つに纏めた活発な女性だ。何事もテキパキとして手際が良く、さんぽ部の散策コースもいつも彼女が決めている。
そんな実夏子に軽口を叩いていたのが、梶浦行智。鋭利そうな印象を受ける銀フレームの眼鏡が印象的な堅物そうな男で、このさんぽ部の副部長を務めている。工学部の秀才で、試験前には彼の纏めた授業ノートが高値で取引されるのだとか。
湯川実夏子と梶浦行智。
この二人をトップとして、さんぽ部は計十名の部員を抱えている。
「俺も古本屋じゃ漫画くらいしか買わねぇなー。でも潤は本好きだし、古書とかも買ってるんじゃね?」
手を頭の後ろで組みながら明るい声でそう言ったのは、辻丸翼。入学以来、潤が最も親しく付き合っている友人である。
「単純に中古の本ってことならよく買ってる。ただ、本格的な古書となると僕もちょっと出を出しにくいな。そういうのって結構高かったりするし、単純に読みにくいし」
同世代の人間に比べると、それなりに読書量はある方だとは思うが、それでも買うのは比較的新しい小説ばかりだ。実用書は読むのが退屈で、ある程度以上古いものは読みにくくて目が滑ってしまう。潤にとっても古書店というのはやや縁遠いものではあった。
「ここら辺、カフェとかもいっぱいあるんだよ。私は駅前の『銀灯』っていう店が好きで、偶に行ってるんだ」
涼やかな声。
高く柔らかい声は聴いているだけで心地よく。その声が聞こえてきただけで、潤の心拍数は一気に跳ね上がった。
人懐っこく微笑みながら潤と翼の会話に入ってきたのは、春川水帆だった。艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、色白の肌は雪のよう。薄茶色の瞳は他人より色素が薄く、その分澄んで美しく見える。
水帆が微笑んでいる。それだけで潤は彼女から目が離せなくなるのだ。
「おーい、倉敷さんや?」
急に黙り込んだ潤の目の前で手をひらひらさせながら、翼が揶揄うような声を掛ける。
「春川さんに見惚れるのはいいけど、ちゃんと会話はしような?」
「そ、そんなんじゃないって!」
潤は顔が紅潮するのを感じながら、必死になって否定した。
水帆の方を見ると、もう友人の坂巻奈々と別の話をし始めていた。確かに水帆と会話するチャンスをみすみす潰してしまったようだ。今更になって悔いる気持ちが沸き上がってくる。
「奈々は赤迫とは反対方向に住んでるんだよね」
「うん、田霧の辺り。こっちの方より家賃安いからさ。和田ちゃんも田霧だよね?」
「はい! でもその割に坂巻さんとはあまり駅とかでお会いしないですよね」
「あはは……あたしは朝遅いから……」
奈々は苦笑いしながら頭を掻く。
水帆の親友でありながら奈々は水帆とはだいぶ性格が異なり、よく言えばおおらか、悪く言えばややズボラである。
その奈々と同じ最寄り駅に住んでいるというのが、一年生の和田樹里香。一年生らしく甘え上手で、明るく元気なムードメーカーだ。
「坂巻サンは朝弱すぎっすよ。朝集合だと絶対に遅刻してくるじゃないですか。この前なんて髪を寝ぐせだらけにして汗だくで集合場所まで来るんですもん。俺、他人のフリしたくなりましたよ」
「うう……ゴメンナサイ」
「はは、小鳥居は手厳しいな」
奈々に苦言を呈しているのは、樹里香と同じ一年生の小鳥居仁郎。愛嬌で生きるタイプの樹里香とは対照的な毒舌家だ。
そんな小鳥居に苦笑を向けている安孫子佳孝は、さんぽ部随一の色男である。百八十センチを超える長身に整った顔立ち。バドミントンサークルにも掛け持ちで所属しているそうだが、そちらでも女子に大人気らしい。
散歩をしながら、目につく店に入ってみたり、それぞれ思い思いに雑談に興じてみたり。
それがさんぽ部の活動であり、この緩さが潤はとても気に入っていた。
「…………」
そんな彼らを、無言で見つめる部員が一人。
伊藤美沙都だ。
話し好きの者が多いさんぽ部の中にあって異色のメンバーある彼女は、人付き合いが苦手そうに見えるし、会話にもほとんど入ってこない。
それでもさんぽ部の活動にはほぼ休みなく参加しており、出席率は部員の中でも随一である。つまらなそうに見えて、案外活動を楽しんでいるのではないか、というのが潤の印象であった。
活動自体が緩いものなので、参加も強制ではない。そんな状態だと幽霊部員なども出てきそうだが、不思議と居心地がよく、どのメンバーも一定以上の活動参加率があった。
そんな中でも、今日は久々に全部員が揃っている。
湯川実夏子。
梶浦行智。
安孫子佳孝。
春川水帆。
辻丸翼。
坂巻奈々。
伊藤美沙都。
小鳥居仁郎。
和田樹里香。
そして、倉敷潤。
この十人が、紅園大学さんぽ部のメンバーである。
*
赤迫駅周辺の散歩を終え、潤たちは喫茶店に入り乾いた喉を潤していた。
水帆の行きつけと先ほど会話に出ていた、喫茶「銀灯」。床や天井、机に椅子など全て温かみのある木製で、心地よくリラックスできる空間となっている。
さんぽ部のメンバーが揃って腰掛けている中央の大机の脇には「フィカス・ウンベラータ」とネームプレートのかかった大きな観葉植物が鎮座していた。一番近い席に座っている小鳥居がつまらなそうなその葉を弄っている。あまりマナーがいい行為とは言えない。
「さて、とりあえず部としての今日の活動はここまでね」
飲み物やスイーツをつつきながらひとしきり雑談に興じた後、部長の実夏子がぱん、と手を叩いて言った。手を叩くのは部員を仕切るときの彼女の癖だった。
「あとは各自流れ解散ね。あたしはこれからバイトだから、もう行くね。―――あ、そうそう、今度のキャンパス祭で何やるか、今度ミーティングやるから考えといて! それじゃ!」
実夏子は一方的に捲し立てるようにそう言うと、足早に店を出ていった。予定を詰め込むことが好きな彼女はいつでも忙しそうである。
「あ、あたし達もバイトなんで失礼しまーす! 行きましょ、伊藤さん」
「あ、うん……」
バイト先が同じらしい樹里香と美沙都が連れ立って出ていく。共通点の少なそうな二人ではあるが、案外相性は悪くないらしい。
それから次々に部員が席を立つ中、潤の正面に座っていた水帆の元へ誰かが近寄っていた。安孫子佳孝だ。
「やあ、春川はこれから予定あるの? よかったらどこか別のお店に行かない?」
「え……」
「駅の反対側にいいイタリアンのレストランがあるんだよ。どう? 奢るよ」
「ええっと……」
水帆は少し困った顔で隣に座る奈々に視線を向けた。女子人気の高い安孫子だが、水帆はあまり乗り気ではない様だ。水帆の態度に、潤はどこかほっとしてしまっていた。
「あー、すみません、安孫子さん。あたしたち、これからボウリングに行く予定なんです。……そうだよね?」
水帆の肩を抱きながら、隣に座っている奈々がこちらに視線を向ける。いきなり話を振られた潤は驚いて咄嗟に反応が出来なかった。勿論、そんな約束はしていない。
「そうなんすよ! 俺と潤と、春川さんと坂巻さんの四人で。安孫子先輩も来ます?」
思わず硬直してしまった潤に代わり、翼が朗らかに応じる。
「ああ、いや……。今日はボウリングって気分じゃないからいいや。予定があるなら、俺はもう帰ることにするよ。それじゃ」
バツが悪そうな顔をして、安孫子がそそくさと店を出ていく。その背中を見送って、水帆がほっと安堵のため息を漏らした。
「ごめんね。話を合わせてくれてありがとう」
「いやいや! これくらいなんでもないって。な?」
「ああ……うん」
結局咄嗟に気の利いた対応が出来なかったことを情けなく思いながら、潤は小さく頷いた。
「安孫子さんにはよく誘われるの?」
「うん、最近ね。ただ、あんまり女性関係でいい噂を聞かない人だから、私はちょっと……」
そう言った噂は聞いたことがなかったため、潤は少し意外に思った。顔が良いし物腰も紳士的なため、人気があるんだろうとは思っていたが。
「バドミントンサークルの方ではもう何人にも手を出しちゃって修羅場状態なんだって。さんぽ部でもかつて、湯川さんと梶浦さんと三角関係が繰り広げられていたとか」
「湯川さんと梶浦さんと!?」
奈々の語ったエピソードに驚きの声を上げる。
湯川実夏子、梶浦行智、安孫子佳孝の三人は、さんぽ部の最上級生である三年生だ。慣例的に四年生にあがるとサークルを卒業するため、三年生が部長等の役職を務めることになる。
「梶浦さんと安孫子さんがどちらも湯川さんにアプローチかけてて、お互いに仲が悪かったんだって。でも湯川さんは恋愛的にはどちらにも興味なくて、二人とも振られたみたいだけど」
奈々はゴシップ好きの一面もある。先輩方のかつての三角関係を楽しそうに語っていたが、不意に眉尻を下げた。
「ただ、最近になって興味が湯川さんから水帆に移ったらしくて。結構しつこく誘ってきてるんだってさ。それとは別にバドミントンサークルの女の子にも手を出してるのにさ。ありえなくない?」
そんな男と結ばれたところで、弄ばれた挙句に捨てられるだけだ。それが見えているから、水帆も頑なに拒んでいるのだろう。
「巻き込んで言い訳に使っちゃってごめんね。よければ、本当にボウリングにでも行かない? まだ時間があればだけど……」
すまなそうな顔でそう言う水帆に、潤はまたどきんと胸が高鳴った。
「おお、いいなあそれ! 俺は大丈夫だぜ。潤も平気だろ?」
「ああ。もう今日は予定何もないから。僕たちで避ければ是非」
「よし、じゃあ決まりね!」
水帆は詰まらない話はこれでおしまい、とばかりに手を叩くと、微笑みながらそう言った。
*
「いやー、三ゲームやると手がだりーな。二の腕パンパンだわ。潤は?」
ボウリングを終え、帰路につきながら翼が言った。ダルそうに左腕をぶらぶらさせている。彼はさんぽ部で唯一の左利きだった。
「僕もだよ。それにしても翼は本当にボウリング下手だよな。三回連続ガーターは流石に笑ったよ」
「なぬぅ! 悪いのは俺じゃない。勝手に横に逸れていく球が悪い!」
あんまりな言い分に潤は思わず笑ってしまった。
正直ボウリングが始まってしばらくは少し気持ちが沈んでいた。
安孫子の良くない噂についてよく分かっていなかったうえ、機転を利かせた奈々の話にも咄嗟に合わせることが出来なかった。それに合わせたのは、横にいた翼の方だ。
よくぼうっとしているとか、気が利かないとか、最近ではとある男に「馬鹿」を連発された苦い思い出がある。それは紛れもない事実なのだなと再認識させられた。
せっかく水帆とボウリングという夢のような状況だというのに、それを十分楽しめず。
そこを盛り上げてくれたのが、翼だった。
楽天的でムードメーカー。周りの空気を読む力にも長けていて、そんなところに潤はいつも助けられているのだった。
「安孫子さんのこと、翼は知ってた?」
「ん? まーな。バドミントンサークルの方にも知り合いいてさ。同性の後輩として付き合う分には別に悪い人じゃないけど、困った人だよな」
左腕をぶんぶんさせながら翼はこともなげに言う。
これまで安孫子に対してそこまで悪感情を抱いていなかったので、潤も同じ感想だった。男か女か、先輩か後輩か。人は立場によって態度も変えるものだ。ある人にとって無害な人物が、別の立場の人間にとっても無害とは限らない。
「―――あれ?」
そんなことを考えていると、不意に翼が声を上げた。
翼の視線は斜め上―――道沿いに建っている建物の二階部分に向けられていた。道に面している窓。午後十一時という遅い時間ということもあり、室内は消灯されているようだが、その向こうにまるで人魂のように、小さな明かりがユラユラと揺れていた。窓は擦りガラスになっているため、中の様子はよく見えない。
「あそこ、さんぽ部の部室だよな」
「ああ、間違いない」
潤と翼が今歩いているのは、紅園大学のキャンパス沿いの道であった。二人とも大学キャンパスから徒歩圏内の場所に下宿しているから、駅からの帰りにはいつもこの辺りを通りがかるのだ。
視線の先の建物は部室棟と呼ばれ、大小三十近いサークルの部室が集まっている。その三階建ての二階部分の一室が、さんぽ部の部室である。
部室棟はアパートのような構造になっており、部室の外はすぐに外廊下になっているが、部室への入口は窓がある道沿いとは反対方向に設置されているので、潤たちのいる位置からは見ることが出来ない。
潤と翼は少しの間じっと小さな明かりの光る部室の窓を見ていたが、その小さな光は、不意にがちゃん、と何かが落ちたような音が聞こえると同時に、ふっと消えてしまった。
「あ、消えた」
潤は呟きながら更に少しの間部室の窓をじっと見てみたが、あとはそのまま、何の音も聞こえず、光も見えず、辺りは不気味に静まり返っていた。
「人魂ってやつ? 心霊現象じゃね!?」
「い、いやまさか……はは……」
何だかうすら寒いものが背中をぞぞと這い上がる感じがして、潤は思わず乾いた笑みを漏らした。
「い、行こうか。多分見間違えか何かだって。うん、きっとそうだ」
「あれ、潤サンもしかして怖がってます?」
「いやいやいや、怖がってなんかないって。でもこんなところで突っ立っててもアレだし、時間も遅くなっちゃったし。は、早く帰ろう」
「潤ってほんとーに分かりやすいよなぁ」
翼が苦笑いを浮かべながら同調し、潤は翼と共に若干早歩きでその場を去った。きっと何かの見間違えか、そうでなればどこかの光が反射したか何かだろう。
そう、自分に言い聞かせながら。
*
翌朝、下宿先のアパートを出ると、空は雲一つない青だった。
昨晩は若干風が強かった気がするので、雲はみんな飛ばされていったのかもしれない。一晩明けた今日は、それもぴたりと止んで無風である。
大学生になって朝に弱くなった気がする、と潤は欠伸を噛み殺しながら思った。
中高生時代は部活の早朝練習のために早起きすることもさほど苦ではなかったのだが、とそこまで思ったとき、単に深夜まで起きている時間が伸びて睡眠時間が短くなったせいだと思い至って苦笑する。
娯楽のないド田舎で生まれ育った潤は地元にいた頃は早々に床についていた。それが、東京に住むようになった途端に完全に夜型だ。今日も一限から授業があるので眠い目を擦りながら起き出したが、そうでなければ昼頃まで寝ていただろう。
眠気に重くなっていた頭がだんだんすっきりと覚醒してきたころ、ようやく大学キャンパスが見えてくる。
見慣れた場所であるその場所がだんだん近づいてくるにつれ、潤は異変に気付く。
講義棟へと続く正門は閉ざされ、急ごしらえと思われる大きな木の看板が立てかけられている。それを取り囲むように、戸惑ったような顔をした学生たちが屯していた。
「何があったんだ?」
その中に見知った顔を見つけ、潤は肩を叩いて声を掛けた。
潤より年下ながら五センチは身長が高い後輩の小鳥居仁郎。小鳥居は気難しげな顔で振り向くと、無言で看板を指さした。
―――本日の講義は全て休講となります。キャンパスへの立ち入りも控えてください。
「え、何で?」
「理由は何も書いてないんですよ。でも、何か事件があったみたいで」
「事件?」
小鳥居は正門から向かって右の方に視線を向ける。
パトカーが何台も止まっており、何人もの警察官が気難しい顔で歩き回っていた。そしてその警察官たちが出入りしているのは―――部室棟。昨日、潤と翼が正体不明の人魂を目撃したその場所だ。
「部室棟で何かあったのか?」
「そこまでは俺もよく知らないですけど」
不貞腐れたような顔をしながら小鳥居が返す。
何ヶ月かこの後輩と付き合ってみて分かったのだが、別にこれは機嫌が悪いわけではなく、元々の表情がそのように見えてしまうのだ。損な顔立ちだと思う。
そんなことを思っていた潤のスマートフォンが、不意に音を鳴らした。
チャットアプリにメッセージが投稿されたことを示す音だ。同時に小鳥居のスマートフォンも音を鳴らし、潤は小鳥居と顔を見合わせる。
メッセージの主は、さんぽ部部長の湯川実夏子だった。さんぽ部全員が登録しているグループチャットへの投稿である。
いつもはふんだんに絵文字を使っている実夏子のメッセージだが、今回の投稿文はひどく無機質だった。
―――部員全員、これから部室に来られますか。
事務的で、簡潔で、それだけに不気味。
実夏子の投稿文に、何か嫌な予感が潤の背中を這い上がった。
それと同時に、更に追加のメッセージが投稿された。
―――さんぽ部の部室で安孫子くんの遺体が発見されました。他殺です。警察の人が話を聞きたいと言っています。
その文章に、潤の脳裏にあの不気味に揺らめく人魂の姿が蘇った。