8.異常者
室内にふわりと漂う、カモミールの香り。すっかり定番と化したハーブティーは、片腕である男からのささやかな気遣いだ。リヒャルトは淹れたてのそれにそっと息を吹きかけ、ゆっくりと口に含んだ。
(厄年にはまだ早いはずなんだがな…)
仮面舞踏会から日もおかず、弟妹達に第一王子からの召集がかかった。王宮外での、非公式の謁見だ。無論、この事態は想定の内でもあった。しかしいくら予見していた事とは言え、胃痛が増す事態には変わりない。トラブルの絶えない弟妹達に、今回もまたエルマーを同行させたのは、二人のストッパー役を見越してのことだった。
「………という次第でございます」
エルマーから事の次第と、それに付随する報告を受け、リヒャルトは静かに腹部をさする。王族相手に遠慮も配慮も無い、不敬の極みのような弟の言動にシクシクと胃が痛みを訴えていた。
「アレは天使の皮を被った悪魔だ」
ハインミュラーの小さな悪魔。
誰が最初に言い出したのかは知らないが、これに関して皆の意見は正しかった。特にミハイル―――彼はアメリアの事となると途端に加減を忘れてしまう。タガが外れる、と言った方が正しいかもしれない。年を経て、ある程度体裁を整える事を覚えた弟だが、その本質は昔から何一つ変わってはいなかった。
「私は今でもあの日の事が忘れられない」
幼い頃、父の気まぐれにより持ち上がったアメリアの婚約話。自由恋愛主義者の父が、そんな事を言い出したのは、単に彼の旧友にアメリアと年の近い息子がいたからに過ぎなかった。
二人が成長し、別に想う相手が出来た時には、気にする事無く思い人と添い遂げればいい。正式な手続きを一切とらず、両家の口約束だけの婚約としたのはその為だった。その程度の、軽くて緩い婚約だった。しかし当然の事ながら、ミハイルはそれに猛反発した。当のアメリアが全く気にもしていなかったのにも関わらず、だ。
「そうして大反対のミハイルを宥めすかして、いざ顔合わせの時だ」
ミハイルは独占欲と牽制も露に『僕のリリィ』を連呼して、いつも以上にアメリアにべったりとくっついて離れなかった。婚約者は当然、ミハイルのあからさまな態度に驚いた様子であった。しかし彼はミハイルの幼い嫉妬心に苦く笑うと、アメリアへと手を差し出した。
『僕のリリィ…私もそうお呼びしても良いでしょうか』
ミハイルを倣ってのことだった。彼なりにアメリアと仲良くなろうと思っての事であり、そこにそれ以上の意味はない。
しかしその瞬間、ミハイルの目の色が変わった。赤く燃える彼の瞳が、何かを求めてぐるりを見渡す。そうして無言のまま視線を動かす弟を、リヒャルトが羽交い絞めにしたのは咄嗟の事だった。
『ミハイル、落ち着け!』
自分でも、それが何故かは分らない。バクバクと心臓が跳ね上がり、緊張に手先が冷える。条件反射で弟を抱き寄せた後、リヒャルトはようやくその理由を理解した。
「ミハイルの目は確かにあの時、凶器となる物を探していた。ミハイルは…片割れを奪おうとする婚約者を力ずくで排除しようとしていたんだ」
迷う事無くまっすぐに向けられる殺意は幼いながらも本物で、そこには少しの躊躇も加減もない。混じりけのない純粋な憎悪を目の当たりにして、リヒャルトは背筋を凍らせたのを覚えている。
ともあれ、ここでミハイルを放したら終わりだ。リヒャルトは力の限りに小さな弟を拘束した。そして暴れに暴れたミハイルだが、自分の力ではリヒャルトを振りほどけない事を悟ると、今度は火がついたように泣き出した。天才ゆえか、同年代の子供に比べてどこか冷めた態度のミハイル。その弟が、声の限りに泣き叫んだ。
「片割れを取られることは、ミハイルにとっては何よりも許しがたい事なんだろうな」
そして、何よりも耐え難い事なのだろう。リヒャルトの腕に爪を立て、獣の咆哮の如く泣き喚くミハイルを、その場にいた者全てが唖然と見下ろしていた。父ですらも、呆と立ち尽くしていたくらいである。それはもう、凄まじい剣幕だった。
『ごめんなさい。わたくしをそう呼んでも良いのはミハイルだけですの』
凍りついた空気の中、口を開いたのはアメリアだった。小さなレディはそうして可愛らしくお辞儀をすると、リヒャルトの元へやって来た。
『ふふ…。酷い顔』
アメリアは、リヒャルトに羽交い絞めにされたまま、顔をくしゃくしゃにして泣く弟の頬を拭った。
『泣き止みなさい、ミハイル。伯爵家の人間が、そんなに泣いては笑われてしまいますわよ』
アメリアのいつもの調子に、ふと、気が抜けた。そしてリヒャルトの拘束が緩んだ瞬間、ミハイルは目の前の片割れへと飛び込んでいった。誰にも取られまいとギュッとしがみつくミハイルに、アメリアは文句も言わずにされるがままになっていた。
『驚かせてしまってすまないね。恥ずかしながら、ウチの末はまだ姉離れができていないようだ』
『い…いえ』
あの時、ミハイルが何をしようとしていたのか。それを知っているのは父とリヒャルト、そしてアメリアくらいのものだろう。けれど、よほど恐ろしい思いをしたのに違いない。その場を取り繕う父に、幼い婚約者は盛大に顔を引きつらせた。彼の瞳には、隠し切れない恐怖が滲んでいた。
まだ二人が幼かったこと、何ら正式なやり取りを交わしていなかったことから、アメリアの婚約はそのままひっそりと解消される運びとなった。
「ミハイル様は――…、アメリア様の事になると頭がおかし……いえ。なんと申しましょうか…。少々過激な所がございますからね」
「ははは…」
二人の家庭教師として、煮え湯を飲まされ続けてきた男が言葉を濁す。長兄として、彼の苦悩を共感できるだけに、返す言葉がなかった。
「私にはよく分らないが、双子というのは皆そういうものなのだろうか」
リヒャルトはデスクの引き出しを開けると、胃薬を取り出した。小さな瓶を手の中で転がしているだけでも、いくぶん胃痛が和らぐ気がした。
「さぁ…私には双子の兄弟はおりませんので、なんとも分りかねますが。ですが、あそこまで一方に依存される関係も珍しいのではないでしょうか」
アメリアやミハイル以外にも双子を目にした事はある。仲の良い者、反発しあう者、その関係性は様々だろう。しかし弟妹達のようなケースは見たことがない、とエルマーは言う。
『僕のリリィを害する者は、女子供、老人だろうが国王だろうが…僕は容赦はしませんよ』
常日頃ミハイルが口にしているその言葉は、その場凌ぎの脅しでも誇張でもなく、まぎれもない本心だ。アレは首と胴が真っ二つに分かれる事になったとしても、アメリアの盾となり剣となるだろう。
その一途さに心を動かされながら、リヒャルトは時に恐怖を感じる事もある。アレは異常だ。そして自分が常軌を逸した存在である事を、ミハイル自身が誰よりもよく理解していた。
「一等タチの悪い異常者だ」
だが、守るべき家族の一人でもある。
リヒャルトがため息とともに呟くと、エルマーは誇らしげに口角を上げた。
「私は、あなたのその懐の広さに心からの敬意を」
「ありがとう。おかげで幼い頃から胃薬が手放せない体になってしまったがな」
リヒャルトは笑う。
手の中で転がした遮光瓶が、カラコロと軽やかな音を立てた。
(『異常者』 / 終)
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