5.仮面舞踏会
豪商が主催する仮面舞踏会には、数多くの紳士淑女が招かれていた。名門貴族から商人まで、招待客は様々だ。そして正装姿の彼らは皆、一様に顔の半分を美しいマスクで覆っていた。
今宵この場にいる限り、多少の事は無礼講。目にした事も、口外無用だ。暗黙の了解が敷かれた夜会は、世間体に縛られた貴族達のちょっとした息抜きの場として重宝されていた。
「とは言え、仮にも第一王子が紛れ込んで良い場所ではないわよね」
主催への挨拶を終え、ひと心地つけた王子達は、会場の中央でダンスを楽しんでいた。今夜のドレスは王子からの贈り物だろうか。淑女に変身したローズを、王子はステップを踏みながら熱の篭った眼差しで見つめている。王都で話題の彼らは、完全に二人の世界であった。
「庶民派王子って言うのかな。高貴なお方は、よほど下々の暮らしに興味があるみたいだね。よく城を抜け出して王都をふらついてるみたいだし、大方主催の商人ともそこで知り合ったんじゃないのかな」
小声でのやり取りは、オーケストラの楽の音にかき消されていく。二人の世界というのならば、アメリアとミハイルにしても同じであった。
双子たちの間には、他人が迂闊に入り込めない独特な空気がある。威圧感というほど棘々しいものではなかったが、やんわりと外部の干渉を拒むそれに、周囲が少なからず萎縮しているのは事実であった。ダンスを申し込みたくても、声を掛けられぬまま身を引いてしまった者も多い。反面、一定の距離感を保ちながら双子を取り巻く者の数も多かった。
ある意味それは、いつもの光景でもあった。アメリアはさして気にするでもなくソファーに腰掛け、じっとローズの動向を伺っていた。時折取り巻きたちの世間話に相槌を挟み、声を掛けるタイミングを計る。―――と、その時。ローズが一人、会場を抜け出していく姿が見えた。
「リリィ」
恐らく化粧室にでも向かったのだろう。声を掛けるなら今しかない。しかしローズを追いかけようとしたアメリアを、片割れが引き止めた。
「今はやめた方が良い。見て…」
王子の傍らに控える、長身の男。主人同様、仮面を付けた男の腰には、舞踏会には不似合いな剣がぶら下がっていた。王子の護衛騎士である彼は、仮面の下からアメリア達を静かに監視していた。
「…………」
アメリアはチラリと背後を振り返る。壁際に控えたエルマーもまた、静かに首を振った。チャンスではあったが、今は動くべきではない。そういう事なのだろう。
「焦る必要はないよ。この先、チャンスはいくらでもあるんだから」
王子側の監視は、想定内である。ミハイルは悔しがるアメリアとは打って変わって、のんびりとしたものだった。彼は行きかう使用人からドリンクを受け取ると、アメリアへと差し出した。
「それにしても、よ。やり難いったら無いわ」
アメリアは憮然とグラスを傾けた。スッキリとした味わいの白ワインが、喉の奥へ落ちていく。
(…でもミハイルじゃないけど、チャンスはいくらでもありそうね)
王子側もアメリア側も、会場内にいる互いの存在は認識していた。しかしあの護衛を除いて、未だ視線すら合わせることはない。当然、挨拶も交わしてはいなかった。それでもローズがアメリアを意識している事だけは確かだった。
程なくして、再びローズが会場へと戻ってきた。彼女は王子と合流すると、しばらくの間、貴族と談笑している彼の傍らに控えていた。しかしふと、そんな彼女と目があった。
(……来るわ)
彼女は二言三言、王子とやり取りを交わす。そして小さくお辞儀をすると、その場を離れた。彼女が向かう先はアメリア達の輪だ。
ローズの背後から、王子の冷やかな視線が突き刺さる。牽制を込めたそれに、アメリアは気づかぬ振りで取り巻きとの会話を続けた。
「あら、あなた…」
双子を中心に、形成された取り巻きの輪。その中に紛れ込んだローズを、一人の令嬢が目ざとく見つけ、唇を歪めた。仮面を付けていたとしても、相手が誰かがわからぬ訳ではない。
何かと因縁のあるローズが、恥ずかしげもなくよくもこの場に顔を出せたものだ。令嬢の視線は、確かな不快感を示していた。そんな彼女は、熱狂的なアメリア信者の一人であった。
「つまらない事は仰らないで。みなさま、楽しくお話しましょう?」
アメリアはたった今ローズに気づいたかのように、彼女へと顔を向けた。そしてルージュに彩られた唇を弛ませた。
「どうぞ、あなたもこちらにいらして」
飲みかけのグラスを使用人へ渡し、アメリアはローズへと手を差し出す。そうして寛容に相手を受け入れるアメリアに、周囲が不満を飲み込んだ。
「さぁ、遠慮はいりませんわ」
衆目の中、ローズが足を踏み出した―――その時のこと。誰かに押し出されたのか、アメリアの目の前でローズの体が不自然に傾いだ。アメリアは突然の出来事に目を瞠り、周囲はとっさにローズを支えようと手を伸ばす。文字通り、絹を裂く音が響いたのは、その直後の事だった。
「~~~~~っ!!」
甲高い悲鳴と共に、ローズがその場にしゃがみこむ。楽団員は演奏の手を止め、会場中の視線がローズへと集まった。ただ事ではない。事態を飲み込めずとも、誰もがそれを察しただろう。ローズのドレスは下着も露わになるほどに、深い切込みが入っていた。
「リリィ」
凍りついた人々の中で、いち早く動いたのはミハイルだった。彼は素早く上着を脱ぐと、アメリアへ託す。アメリアは受け取ったそれをローズの腰元へ回し、袖を縛った。
(やってくれるじゃない…)
王子の手前というのもあるのだろう。ローズを快く思っていない貴族達も含め、誰も彼もがアメリアに非難の目を向けていた。王都に流れる噂は、刷り込みとなって皆の心に先入観を植え付ける。『また、あのアメリアがローズを貶める真似をした』。周囲の人々が、この状況だけを見て、そう決め付けるのも無理はない。
―――恐らくこれは、アメリアを陥れる為の罠だった。
人々の反応を見越した上で、衆人環視の中、堂々と行われた挑発行為。偶然では、こんな都合の良い展開など起こり得ない。冷えた視線を受け止めながら、アメリアは腹の底が熱く滾るのを感じた。渦を巻くそれは、明確な怒りだった。
「…………」
そんな中、コツコツと靴底が床を踏む音が、アメリアの元へ近づいてきた。それは王子フリードリヒと護衛騎士のものだった。彼らの足音に合わせて、アメリアの心音が高く跳ねた。
恐らく彼の第一声で、この後の筋書きが決まるだろう。アメリアは二人の冷徹な眼差しを見返したまま、細く息を吸い込んだ。足音が、止まる。アメリアは王子が声を発する前に口を切った。
「まぁ、酷い。一体誰がこんな事を……」
無残に大きく切り裂かれたドレス。スリットから覗く足。アメリアは周囲の視線から守るように、ローズをぎゅっと抱きしめた。先手を取られ、一瞬王子の言葉が詰まる。
「君が……やった事ではないのか」
アメリアは意味が分らないという顔で、フリードリヒへ困惑の瞳を向けた。その眼差しは、いたいけな少女のように純真無垢なものだった。
「何故わたくしが、そのような事をしなくてはならないのですか?」
「…………白々しい」
毒づく声は、ごく小さなものだった。本当ならば、彼は頭ごなしにアメリアを叱責するつもりであったのだろう。しかしアメリアが先に始めた子芝居のせいで、話の向きが変わってしまった。フリードリヒがアメリアを責めあぐねているのはそのせいだ。
「気が動転して感情的になるお気持ちは分りますが、あまり滅多なことは口になさらないで下さい」
ミハイルはアメリアの傍らに立つと、ローズのドレスを目で示す。
「綺麗な切り口ですね。これは刃物で切られた跡だ。生憎、僕達には彼女のドレスをこんな風に切り裂く術はもっておりませんよ」
あなた様のお連れのように、特別許可を得ていない限りはね。ミハイルは唇に弧を描く。アメリア達は一介の招待客だ。軍人でもなければ、警護の人間でもない。特別許可を得ない限り、会場内に刃物を持ち込む事はできなかった。
「まぁ、口で言っても仕方ありませんね。疑うのなら、どうぞ」
ミハイルは軽やかな足取りで護衛騎士の前へ歩み出る。両手を広げる彼の体を、護衛騎士が検めていった。勿論、不審な点などあるもずもない。
「ご納得頂けましたか?」
「……………」
護衛騎士の視線が、ミハイルからアメリアへと移る。しかし女性の体に触れるわけにもいかず、彼は苦い顔で口を噤んだ。するとアメリアを取り巻いていた貴族の中から、一人の令嬢が声を上げた。
「僭越ながら、わたくしが検めさせて頂きますわ」
凛と響くその声には、覚えがあった。アメリアは立ち上がると、ミハイルと同じように両手を広げた。
「失礼いたします」
胸元の大きく開いたイブニングドレス。令嬢の手の平が、遠慮がちにアメリアの体の上を撫でてゆく。
「問題はございませでした」
そして一通りを調べ終え、令嬢がフリードリヒへ向かって目礼した。そもそも女性のドレスはウェストをコルセットで固め、ピタリとボディラインに沿わせた作りになっている。得物を隠せるような構造ではない。アメリアが刃物を持ち込んでいない事は誰の目にも明らかだった。
「足元があるだろう」
しかし王子は納得しなかった。腕を組み、尊大な仕草で顎を振る。上半身には隠せずとも、大きく膨らみを持たせたスカートの中ならば、いくらでも刃物を隠し持てるだろうと。淑女相手に、それはあまりに無情な言葉であった。ザワリと周囲に動揺が走る。
「公衆の面前で淑女のスカートの中をまさぐれと仰るおつもりですか?お言葉ではございますが、それは致しかねます。そんな屈辱…同じ女として承服致しかねますわ」
令嬢が静かな怒気を滲ませながら、フリードリヒを睨みつける。同時に、ヒソヒソと囁く声が聞こえ始めた。
「まぁ…なんてハレンチなことを仰るのかしら」
「もしやそういったご趣味のお方なんですの?」
「嫌ですわ…。殿方のいやらしい視線にさらされてお可愛そうに…」
フリードリヒを横目に、アメリアへの同情を口にするのは、勿論双子の信奉者達だ。いたる所で上がり始めたその声に、次第にアメリア糾弾の矛先が鈍り始める。
「わたくしのスカートの中にご興味がおありなら、今、この場で、ご覧にいれてさしあげても構いませんのよ?」
アメリアは人々の視線を集める中で、ドレスの裾をほんのわずか摘み上げる。白く艶かしい足首に、会場がどよめいた。
「…ですが残念な事に、疑わしいのはこの場にいる全員ではありませんこと?ならばわたくしだけではなく、ここにいる淑女全員に同じことをご命じ下さいまし」
「それが良い。それでどなたかのドレスの中から刃物が見つかれば、その人間に僕の片割れを侮辱した責任をとらせましょう。なに…あなた様のお手を煩わせるまでもありません。この僕が、手ずから、この世に生まれた事を後悔させてさしあげますよ」
アメリアの視界の端で、一人の令嬢が真っ青になる。知らぬ女だ。しかし恐らく彼女の仕業なのだろう。人々の視線が双子へ集まっているのに乗じて、女がそろそろと会場を退いて行くのが見えた。
同じくして、ミハイルがどこぞへ目配せをする。それを見届け、アメリアは憂いの篭った息を吐き出した。陰のある微笑みを浮かべたまま、フリードリヒへ恭順を示すように小さく腰を折る。そうして浅く頭を垂れた。
「わたくしは逃げも隠れも、恐れもしません。疑わしいと仰るのなら、いかようにもお調べ下さい。誓って、この身に恥じる行いはしていないと申し上げます」
ですが、と。アメリアは蹲ったままのローズへ、伏せていた視線を流した。
「犯人探しも重要ですが、今はお召し物を台無しにされたご令嬢に新しいドレスをご用意してさしあげるのが紳士の優しさではございませんの?」
もっともな言葉に、グッと王子が押し黙る。その時、エルマーがアメリアの元へとやって来た。彼は従者としての礼をとると、わざと周囲に聞こえる声でアメリアに耳打ちした。
「お嬢様、夫人にお願いしてドレスを一着お借りできるよう手配いたしました」
「ありがとう。さぁ、参りましょう。控え室にはわたくしがご一緒させていただきますわ」
口を閉ざしたままのローズを、気遣う素振りで立ち上がらせる。途端「待て」と、固い声がアメリアの行く手を阻んだ。
「ひとつ、諫言申し上げます」
するとすかさずミハイルが、フリードリヒの声を打ち消す。
「これ以上『ごねる』のは却ってみっともないですよ」
あまりに無礼な言い様に、王子がカッと気色ばんだ。
「きさま…誰にものを言っているのか分っているのだろうな」
主人の不快感を汲んで、護衛騎士が剣の柄へ手を伸ばした。誰もが固唾を飲んで見守る中、しかしミハイルがそれに動じる気配はない。
「おかしな事を仰いますね」
ミハイルは不思議そうに小首を傾げる。
「ここは仮面舞踏会。今宵ここへ集った招待客には、身分も素性も関係ない。――…そんな場所で家名を振りかざすのは無粋というものですよ」
そうして彼は声をひそめ、囁いた。
「どこのどなたかは存じ上げませんが、僕の至宝へむやみに手垢を付けるような真似はお控え下さい。悋気でなにをしてしまうか…自分でも分りませんので」
ゾッと、フリードリヒが青ざめる。ミハイルはそれまでとは打って変わって、ニコリと邪気のない笑みを浮かべてみせた。
「淑女には淑女同士のルールというものがございます。男の我々は、黙って彼女達に従うのが紳士の振る舞いかと」
目礼するミハイルに、アメリアが続く。
「何を危惧なさっておられるのかは存じませんが、どうぞご安心なさって。目の前でこんな事になってしまって、わたくしもとても胸を痛めておりますの。少しの間、おかわいそうなご令嬢をお慰めしてさしあげるだけ…着替えが済めば、すぐにあなた様の元にお返し致しますわ」
フリードリヒは尚も渋っていたが、護衛騎士に諌められ、口を閉ざした。ここでこれ以上アメリアを引き止めるのは、彼にとってあまりにも体裁が悪い。
「それでは、参りましょうか」
アメリアは微笑むと、ローズの肩をに手を回す。そうしてミハイルらを引き連れ、会場を後にした。
(『仮面舞踏会』 / 終)
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