4 噂
『噂』
間もなく、恐れていた事は起こった。
「アメリア、そこに座りなさい」
ある日の午後、サンルームで読書をしていたアメリアは、本から顔を上げると声の主を仰ぎ見た。家の中であっても隙の無いスーツ姿で立っているのは、次期ハインミュラー家の長、リヒャルトだ。セリフとは裏腹に、優しげな笑みを浮かべる長兄の姿に、アメリアは視線を彷徨わせた。こんな具合に始まるのは、十中八九説教だと決まっていた。
「座れも何も、リリィはもう座ってますよ。兄上」
アメリアの向かいの席で、ミハイルがのんびりと口を挟む。長ソファーに足を投げ出し、仰向けに寝そべるミハイルの手には、数字パズルの雑誌が握られていた。怠惰極まりない弟の、わかりきった茶々にリヒャルトが更に笑みを深くした。
「ミハイル。退席させられたくなければ無駄口を叩くんじゃないよ。…お前も、一緒に話を聞きたいのなら、きちんと座りなさい」
アメリアとミハイルは顔を見合わせると、どちらからともなくため息をつく。それから手にした本を一旦閉じ、言われるままに居住まいを正した。リヒャルトはアメリアの隣に腰を降ろすと、手にした新聞をローテーブルへと広げた。
「さて、私の話はこの件についてだ」
双子の視線が、テーブルの上へ落ちる。リヒャルトが持ってきたのは、王都で発行されている小さな新聞社のものだった。その一面を飾るのは、濡れ鼠になった女の写真だ。
『哀れローズ、王妃への道のりに立ち塞がる高き障壁』
でかでかと印字された見出しに続くのは、『またも名家A嬢の命令……か!?』という事実を濁した副タイトル。名家A嬢、とは言うまでもなくアメリアの事を指しているのだろう。
(失礼極まりないわね)
記事を要約すると、こうだ。王子とのデートの為に着飾っていたローズが、道中で何者かに盛大に水をかけられた。せっかくの支度を台無しにされたローズは、犯人の思惑通りデートをキャンセルせざるを得なくなった。しかし後にそれを知った王子が彼女の元へ駆けつけ、慰め、そして結果二人の愛はより一層深まる事となった。という事らしい。
庶民に対する上流階級の洗礼、それを乗り越え愛を育むローズ。そんな論調で書かれた記事には、関係筋の話として『今回もA嬢が裏で命じてやったものではないか』とある。そして『実現すれば建国史上初となる、庶民妃ローズ。しかしその道のりは長く険しい。本紙は彼女の健闘を祈りつつ、これからも見守って行きたい』そう安っぽい言葉で締めくくられていた。
「有り得ないわね。第一こんなゴシップ紙を真に受けられても困るわ」
ロクに事実確認もしないまま、ある事無い事を好き勝手に書き連ねるような三文記事だ。その内容を本気で信じる者などいまい。そんな事は、リヒャルトとて百も承知のはずだった。
「問題は、内容の真偽ではないよ」
「……どういう事?」
アメリアは怪訝そうに兄を見やる。リヒャルトは難しい表情で、こめかみを揉んでいた。
「リリィに良からぬ噂が立っている……、兄上が真に憂いているのはそっちさ」
ミハイルが手持ち無沙汰に新聞を拾い上げる。紙面を眺める彼の目は、心底つまらなさそうに見えた。
「新聞や雑誌には書かれていないけど、王都の人たちの間である噂が広がっているんだ」
例の夜会でクラウスを奪われたアメリア。以降、ローズを目の敵にしているアメリアが、家名をチラつかせて周囲の令嬢を動かし、彼女をいびり倒している、と。
アメリアがローズの宿敵として広まっている事、見知らぬ令嬢達がローズへつまらない嫌がらせをしている事は把握していたが、事態はより深刻化していた。
「そしてリリィこそが妃の座を狙っていて、またも自分の邪魔をしようとしているローズを卑劣な手を使って蹴落とそうとしている。そんな馬鹿な噂が広まってるのさ」
アメリアはポカンと開いた口を引き結ぶ。低く呻くと、震える声を吐き出した。
「ば…ばかばかしい」
「ほ~んと…バカだよねぇ。僕のリリィが王子なんかを相手にする訳ないじゃない。眼中にも無いって事が何でわからないかな」
「ミハイル、そっちじゃない」
ミハイルの見当違いな憤慨を、兄が諌める。リヒャルトの手は、胃の辺りを摩っていた。
「馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、それを看過できない理由はわかるな?」
ハインミュラーは名家の一つだ。なまじ妃を輩出できない家柄ではない事が、一番の問題だった。邪推する人間はどこにでもいる。リヒャルトの言うとおり、真偽が問題なのではない。のっぴきならない事態になる前に、火消しを図る必要があった。
「私だって分ってるさ。お前達は良くも悪くも目立つからな…勝手に名前を使われているだけなんだろう」
幾分柔らかな声が、ため息と共に吐き出される。
「だが、これを有名税と捨て置くには、あまりにも事が大きすぎる」
王子とローズは、世紀の特大カップルだ。身分差のある二人の悲恋に、アメリアは体よく名を使われているだけに過ぎない。
「例えこれが根も葉もない噂であっても、だ。第一、未婚のお前がこのような悪女だと噂されては困る」
アメリアだけではない。それはハインミュラーの家名にも関わる事だった。
「リリィの評判に傷がつくのは業腹だけど、そうすれば今後一切嫁としての貰い手は無くなるだろうから、ずっと僕と一緒にいられますね、リリィ♡」
「ミハイル」
情報通のミハイルは、恐らく誰よりも早くこの噂を掴んでいたに違いない。それにも関わらず放置していたのは、この為か。どこまでも身勝手な愛を貫く弟に、リヒャルトの声が低く地を這う。
「言っておくが、この事が父上の耳に入れば、逆に手遅れになる前にと、ご自身の信条を曲げてでもアメリアをどこぞへ嫁がせることになるぞ。無論、その際には私も止めはしないからな」
自由恋愛を推奨している父であったが、娘が傷物にされるのを黙って見ているような男ではない。その父がこの件をどこまで把握しているのかは分らないが、彼が重い腰を上げた時、ミハイルの地雷を踏み抜いてでもアメリアを嫁に出すことになるだろう。
「………………」
それは決して有り得ない話ではなかった。ミハイルが剣呑な目で黙り込む。
「ともかく」
ピリピリとした空気を、アメリアが押し破った。
「お兄様の胃に穴が開く前に、この下らない噂話をどうにか収めろって事よね」
一連の嫌がらせに関して、アメリアは一切加担してはいなかった。勿論、命じてもいない。その身は完全なる潔白だった。
しかしローズとの因縁が、あの夜会がきっかけで出来たものだというのなら、ある意味、身から出た錆といえなくも無い。己の不始末に片をつけろ。リヒャルトはそう言っているのだ。
(とは言え、難しい話よね)
人の口に戸は立てられない。一度流れた噂を、せき止めるのは難しい。そう考えたからこそ、アメリアはあえて初期の段階で手を打つ事をしなかった。下手に口を挟まず、放って置いた方が良いと判断したからだ。
目まぐるしく日々が移ろう王都では、噂話には事欠かない。新しいトピックスですぐに上書きされるだろうと思っていたそれは、けれど予想外に深く根付き、大きく広がってしまった。アメリアの判断ミスだ。初動を誤ったこの事態を収めるのは、なかなかに骨の折れる作業であった。
「あのさ…。何か確証があるわけじゃなくて、これはあくまで僕の私見なんだけど…」
しばらくして、ミハイルが口を開いた。
「一連の出来事には、新聞社や庶民達のお祭り騒ぎとは別に、もっと何か…作為的なものがあるような気がするんだよね」
そう言って、彼は手にした新聞をテーブルへと放り投げた。
「つまり何者かがハインミュラー家を陥れようとして、裏でこの騒ぎを扇動しているということか?」
「んー…、まぁ…そうなるのかなぁ」
どこか煮え切らないミハイル。
その向かいで、リヒャルトが厳しい表情で押し黙る。
「今回の件に関しては、実は僕も分らない事が多いんだ。それが――…すごく気持ち悪い」
ミハイルをしても、その全貌が把握しきれないと言う。だとすれば、これが単なる『噂話』で収まる類のものではない事は確かだった。
「なんて言うか…話の流れが妙に綺麗すぎるんだ」
まるで、誰かの手によって敷かれた水路を滑り落ちてくみたいに。
「歪み無く、分岐する事無く、まっすぐ一本通りに流れてく。そんな事ってそうそうないでしょ」
今では全てがアメリアにとって不利に働く状況となっていた。ごく自然に、当然のように―――だが、それが逆に不自然なのだとミハイルは言う。
「おかしいのは、こうしてリリィを担ぎ上げておきながら、反ローズ派の貴族達からはリリィを陥れようとする直接的な悪意が一切感じられないって所なんだ。実際、その動きも無いんだよね」
新聞社や民衆達にしてもそうだ。おもしろおかしく騒ぎ立て、勝手にアメリアを悪役にしたて上げておきながらも、そこには驚くほどに悪意がない。
「では、誰が……」
貴族でもなく、民衆でもなく。しかしそこに何かしらの作為が働いているというのならば、一体、誰が。
唸るリヒャルトに、ミハイルが目を細める。
「ねぇ、気づかない?」
一本立てた人差し指を、ミハイルは楽しそうにクルリと揺らした。
「たった一人、これらの恩恵を総取りしてる人間がいる」
アメリアは弾かれたように顔を上げた。
「………ローズだわ」
庶民ローズ。
ただ一人、全てが彼女にとって都合よく物事が運びすぎていた。
(『噂』 / 終)
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