2 長兄の憂鬱
『長兄の憂鬱』
ハインミュラー家の長子、リヒャルトの朝は早い。
まだ外が薄暗い内から起き出し、淡々と身支度を整える。その間に一日のスケジュールを確認し、使用人の運営方針を固めて指示を出す事も忘れない。そうして執務室へ移動すると、デスクの上にずらりと並べられた新聞へと手を伸ばす。ゴシップ誌から経済誌、王都で発行されている全ての新聞に目を通すのは、年若い頃からのリヒャルトの日課となっていた。
(そんな王都での暮らしももう五年か…)
領地に引っ込み、半隠居を決め込んでいる父から王都の邸の管理を任されたのは、リヒャルトが18の時の事だった。今では伯爵家の権限の大半が委譲され、携わる事業もリヒャルト名義に変更されている。父の判断を仰ぐ事はあれど、ハインミュラーの実権は、概ねリヒャルトが握っていると言えた。
当然その肩にかかる責任も、仕事量も多くなる。邸に住まう弟妹よりも早くに起き出し、次期伯爵として業務に取り掛かるリヒャルトの姿は、若いながらも貫禄がにじみ出ていた。
「リヒャルト様、ハーブティーをお持ちいたしました」
「あぁ、ありがとう」
すっかり冷めてしまったお茶を下げ、新しく用意したハーブティーをサーブするのは、家令見習いのエルマーだ。一つ年上の彼は、次代のハインミュラー家を共に担う、リヒャルトの右腕とも言える男であった。非常に優秀な男であり、領地にいた頃は弟妹達の家庭教師役を任されるほどに、伯爵家からの信頼も厚い。我の強すぎる双子相手に指導役を勤め上げた実績は、なにを置いても評価されるべきだろう。
「カモミールティーか」
ふわりと立ち上る甘い香りに、紙面から顔を上げる。リヒャルト同様、早朝からきっちりと身なりを整えたエルマーが、穏やかな表情で頷いた。
「はい。カモミールにマーシュマロウを軸としたブレンドティーをご用意させて頂きました。今のリヒャルト様にはこちらの方がよろしいかと」
リラックス効果が高いこれらのハーブは、同時にストレスからくる消化器官系の不調緩和にも役に立つとされている。胃の粘膜を保護し、痛みを和らげる―――つまり保護し、和らげなくてはならないような胃痛の種が、今のリヒャルトにはあるという事だ。
「……また、何かやらかしたのか」
エルマーが紅茶の代わりにカモミールティーを用意する時は決まっていた。ヤンチャ盛りの弟妹達が、何か問題を起こした時だ。
「確か…昨夜はバルト家の夜会に行っていたな」
リヒャルトの責務の中には、王都暮らしを始めた弟妹達の保護監督も含まれている。次期伯爵として重責を担うリヒャルトの、心労の六割は彼らによって形成されていた。
「ご明察です。実はそちらの夜会で……」
エルマーの報告を受けながら、リヒャルトは透明のティーカップを傾けた。喉を滑り落ちる優しい甘味が五臓六腑に染み渡る。
「……という訳で、いつものように皆々様の目の前で大見得をお切りになった後、お帰りになられたとの事です。恐らく午前中には、先方から苦情のレターが届くかと思われます」
「あの…くそガキどもめ」
軍所属の悪友の影響だろうか。時折リヒャルトの口からは、貴族らしからぬ言葉が零れ落ちる。いつもはすかさず嗜めるエルマーも、主の心情を慮ってか、口を噤んだ。
「とりあえずミハイルを呼べ」
「そう仰られるかと思いまして、既にメイドを行かせてございます。支度がお済みになられたら、こちらにいらっしゃるかと」
エルマーの言葉の通り、程なくしてミハイルが執務室に顔を出した。
その頃には、窓の外はとうに明るくなっていた。
「おはようございます、兄上。朝も早くから何か御用でしょうか」
紳士らしく身だしなみを整えたミハイルは、固い表情のリヒャルトを前に、暢気にあくびをかみ殺している。何の用だと尋ねながらも、この弟に限って、自分がなぜ呼び出されているのかを知らぬはずはなかった。
「言い訳があるのなら、一応は聞いてやる」
前置きの一切を省いたリヒャルトに、ミハイルが唇を尖らせる。幼い子供のような仕草は、彼の美しい容姿と合わさって、見る者に恐ろしいまでの庇護欲をかきたてた。しかしそんなもので絆されるリヒャルトではない。
「…兄上はリリィを侮辱されても黙っていろと仰るんですか」
同じくバルト家の夜会に参加していたというローレンツ家の息子、クラウス。彼が父親と共にリヒャルトの元へ融資の話を持ち込んできたのは、つい先日の事だった。
その際、彼らが妹のアメリアと婚姻関係を結びたがっていることには気づいていた。それに関してはアメリア次第である。度を越さぬ範囲で、黙認するつもりのリヒャルトであった。しかしどうやら弟妹たちは、その息子が別の女と懇意にしている様子を夜会で目撃してしまったらしい。
婚約どころか未だ恋仲にさえなっていないクラウスだが、その行為は明らかにハインミュラー家を軽視した振る舞いであると言えた。アメリアが家名にかけて立ち上がろうとした気持ちも分る。ミハイルがアメリアに対する侮辱だと憤る気持ちもわかる。
「だが、ものにはやり方がある。私はいつもそう言っているはずだが、お前達は一体いつになったらそれを理解できるんだ」
クラウスの軽率な行動には、相応のやり方でいかようにも落とし前をつけさせることができた。それをなぜ弟妹達は、無駄に事を荒立てるような真似をするのか。
「お前達ももう、社交界に顔を出す年になったんだ。頼むから少しは大人しくしてくれ」
このままでは家名に傷がつく前に、リヒャルトの胃に穴が開く。幼少期から胃薬に頼りっぱなしのリヒャルトは、年を経て製薬会社の株を買うまでに至っていた。トラブルメーカーの弟妹達に、これ以上胃腸を痛めつけられたくは無い。
「ローレンツ家には私から話を通しておく。それで良いな?」
以後、クラウスに対してこの件で絡む事は控えるように。暗に告げるリヒャルトに、ミハイルが口の端を吊り上げた。すると一転、天使の如き容貌は、大人びた悪どい男のそれへと変わる。
「まだ話は終わっていませんよ、兄上」
アメリアと同じ、ルビー色の瞳がリヒャルトをまっすぐに射る。それから彼はテーブルの上のティーカップへと視線を流した。長い睫が、柔らかな頬に影を落とす。
「歴史しかないローレンツ家。負債を抱えた伯爵家なんて見目が良いだけのドロ舟だ。ハインミュラーが乗り込むような船じゃない」
天才の名を頂くミハイルは、その才能に心酔する多くの支持者を密かに抱えているらしい。リヒャルトにも把握しきれぬ支援者達は、いたるところに散らばっていて、人脈を繋いでいるようだった。ミハイルが時折こうして、思いもよらぬ情報をもたらすのはその為だ。
「我々共の調査では、先方の経済状況や事業の各業績に関して特に不審な点は見られませんでしたが…」
エルマーが控えめに口を挟む。部下が纏めた調査書を、最終的にリヒャルトに上げたのは彼だった。
「今はまだどれも軽微なものではありますが…ローレンツ家が抱えている事業のいくつかで、決算書が意図的に操作されている可能性があります」
典型的な粉飾決算だ。ミハイルは声を潜める。
「表側から見える情報だけが全てではありません。兄上、手を取る相手はもう少し慎重に選んだほうが良いですよ」
もっともな言葉に、リヒャルトは低く呻いた。ローレンツ家と言えば、はるか昔を遡れば王家にも連なる血筋。現在の純粋なパワーバランスだけを言えばハインミュラーに軍配が上がるが、『歴史だけは』ある名家のひとつであった。よもやそんな低俗な真似に手を染めていようとは、思いも及ばなかったリヒャルトである。
「……了承した。一応父上の耳に入れた上で、先方には正式に断りを入れよう」
相手から開示された情報を素直に鵜呑みにするほど、リヒャルトもエルマーも愚かではない。情報収集は入念に慎重に行っているつもりだった。勿論、抱えた部下達が無能だとも思っていない。単にリヒャルトたちが入り込めない深分にまで、ミハイルの子飼いが食い込んでいる。ただそれだけだ。
「我が弟ながら…末恐ろしい男だな」
惜しむらくは、彼のその天賦の才が家の為にも己の為にも使われず、ただ愛する片割れの為だけにしか行使されない事にある。
ことアメリアに関しては、一際鼻がきくミハイル。未だ背丈は姉と変わらず、華奢な体つきの弟であったが、幼い頃からずっとこうしてアメリアに近づく者たちを排除し続けてきた。その執念は筋金入りだ。
「お前の事だ。どうせわざとアメリアの目に留まるよう仕向けたんだろう」
もしかしたら、クラウスと相手の女をわざと引き合わせるような事をしでかしていてもおかしくは無い。少なくとも夜会の場で、たまたま、偶然、アメリアが二人の親密な様子を目にした、なんて事はあり得まい。
「え~…、なんの話です?」
「救いようの無い重度のシスコンの話だ」
二卵性の双子である弟妹達は、それぞれ似て非なる顔立ちをしていたが、どちらも揃って華のある容貌をしていた。そうしてアメリアにはクイーンの如くカリスマ性が、ミハイルには天から与えられた才がある。良い意味でも悪い意味でも周りから頭二つ分ほど突出した彼らは、周囲に両極端の感情を抱かせた。
ある種の人々からは小さな悪魔として忌避され、その一方である種の人々からは神のように崇められた。表立っては見えないかもしれないが、アメリアにしても熱狂的な信奉者は多い。
それは常識を愛するリヒャルトには分らない感覚だった。そうだとしても、二人を中心に騒ぎが起こるのはいつもの事だ。保護者としては粛々と二人の手綱を握り続けるしかない。
「リリィも待ってるし、もうそろそろ行っても良いですか?」
「あぁ。…だが二人とも、一週間は夜会への参加を禁ずる」
「はぁい。その間は僕がリリィを独占できますね♡」
執務室を出て行く弟の足取りは軽い。対するリヒャルトは苦い顔だ。撫で摩る胃は、キリキリとした痛みを訴えていた。
「どこでもいい。よく効く胃薬とウチの馬鹿者どもにつける薬を開発してくれ」
「実現したら、世紀の大発明になりますね」
エルマーが澄ました顔で、懐中時計を確認する。
メイドが朝食の時間を知らせに来たのは、その直後の事だった。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
2.5 『rose』
バラの咲き乱れる庭園には、多くの貴族の姿があった。ローレンツ邸で開かれた茶会。いや、茶会と言うよりも立食パーティと言った方が近いかもしれない。白いクロスがかけられた長テーブルには、エリア毎に軽食やスイーツが並べられ、お仕着せに身を包んだ使用人達が招待客にドリンクをサーブして回っていた。そんな上流階級の社交の場に、庶民であるローズはいた。
(これぞセレブって感じだわ)
クラウスが用意してくれた、西洋風のかわいらしいドレス。茶会用の比較的ライトな構造のドレスであったが、着慣れないせいか、やはりローズには少し浮いて見えた。こうして着飾っていても、場違い感は拭えない。
(だからって訳じゃないんだろうけど…)
さりげなさを装って向けられる、周囲からの冷めた視線。ヒソヒソと囁かれる口さがない言葉が、雑踏に消えてゆく。庶民の女が、なぜこの場所に紛れ込んでいるのか。ローレンツ家を憚って表立って不快感を示す者はいなかったが、誰もが不満に感じているのは分っていた。
しかしローズはいたって平然としたものだった。そのふてぶてしさが、かえって彼らの神経を逆撫でしているのは承知していた。だが、それで構わなかった。
「ローズ、こちらへ」
顔を上げると、そこにはローズの為に茶会の席を用意してくれた男、クラウス・ローレンツの姿があった。育ちの良さがにじみ出た、爽やかな好青年だ。彼はローズへ淡い恋心を寄せながらも、今はローズの良き理解者として収まっていた。
「殿下、ご紹介させてください。私の友人、ローズです」
クラウスに促され、向かった先には一際高貴な輝きを放つ青年が貴族達と談笑していた。この国の第一王子、フリードリヒだ。
ローレンツ家は歴史ある名家であった。第一王子であるフリードリヒが、こうして公式に茶会の招待に応じたのは、微細ながら王家と繋がりのあるローレンツ家主催のものであったから、という点は大きい。
「ご紹介にあずかりましたローズです。お目にかかれて光栄です、殿下」
クラウスの隣で、ローズはドレスを摘んでお辞儀をする。
「……あぁ、あの時の娘か」
フリードリヒは呟くと、小さく手を振った。そうして護衛の者だけを残し、ざわめく周囲の貴族達を下がらせた。
「はじめまして、ローズ。その名の通り、濃く染めたばら色のドレスが良く似合っている」
「今日のお茶会の為にクラウス様が用意してくださったんです。でも…庶民の私には勿体無いわ」
きっと皆が分不相応だと嗤っている。俯くローズに、フリードリヒは優しく目を弛ませた。
「なに、気にする事はない」
そう言って、彼はローズの頭をポンと叩く。一国の王子が、初対面の年頃の女性にとるような行動ではない。護衛を始め、周囲が更にざわめいた。
「君は堂々としていればいい。そうだ…今度は是非、私にもドレスを贈らせてくれ」
「殿下…」
「ははは…」
いさめる護衛を軽くあしらい、フリードリヒはあっさりとローズの元を離れていく。そうして再び貴族達と談笑を始める彼の背中を、ローズはじっと見つめていた。
「お…驚いた」
王子とローズを引き合わせた張本人が、ローズの隣で呆けた呟きを落とす。クラウスは、フリードリヒの行動がよほど信じられなかったのだろう。
「殿下は随分気さくな方なんですね」
「え?あぁ、いや……うん。どう…なんだろうな」
第一王子フリードリヒは権力者でありながら、庶民派の王子でもあった。フットワークも軽く、重臣達の目を盗み、側近だけを連れてフラリと王都を散策する事もある。しかしこれらは公にはされていない情報でもあった。王子としての対外的な顔しか知らぬクラウスは、ローズのそれに曖昧に言葉を濁した。
「素敵な…方ですね」
ローズの呟きに、クラウスが目を瞠る。彼は一瞬、痛むように眉をしかめ、それから苦く笑った。
「そうだな。だけど――…君へドレスを贈るのは、これからも僕の役目でありたいかな」
「クラウス様?」
「いや、なんでもない。…あぁ、呼ばれているみたいだから少し話をしてくるよ」
クラウスはそそくさと貴族の輪へ向かう。その耳先は、少しだけ赤く染まって見えた。ローズはそれを見送ると、テーブルへと向かった。クラウス以外に貴族の友人などいないローズは、飲食をするくらいしかする事がなかったからだ。
「あら、ごめんあそばせ」
「ぁ……っ」
小皿に焼き菓子を取り分けたローズが、食べる場所を探して辺りを見回した時のことだった。不意に誰かが背中にぶつかり、その衝撃で焼き菓子が地面へと零れ落ちる。それを目で追うローズの視線の先で、綺麗に磨きぬかれたパンプスが焼き菓子を踏みつけた。
「……………」
顔を跳ね上げ、辺りを見やる。けれどぶつかってきた相手も、焼き菓子を踏みつけた令嬢も既に人ごみに紛れた後だった。誰も彼もがそ知らぬふりで、けれど確かにローズの惨めさをあざ笑っていた。
(くだらない)
ローレンツ家の使用人が何事も無かったかの様に落ちたお菓子を拾い上げ、片付けていく。彼らに処理を委ねると、ローズは庭園を後にした。
貴族達の目には、ローズがいたたまれずに逃げ帰ったように映っただろう。そうして溜飲を下げる貴族達とは裏腹に、ローズへの庇護欲を芽吹かせた男がいるとも知らずに。
「これで王子とのフラグは立ったわ」
フリードリヒが、横目でローズの惨状を捉えていた事は知っていた。庶民を愛する王子が、貴族達の陰湿なイジメに耐え忍ぶローズに同情心を抱くには十分なでき事だった。
(ましてや彼は、夜会での一件も目にしている)
あの夜、フリードヒリは側近だけを伴いお忍びで夜会に紛れ込んでいた。伯爵令嬢アメリアと、その弟のミハイル―――悪魔のような双子の独壇場を、目の当たりにした者の一人であった。
貴族に虐げられる、可愛そうな庶民ローズ。その構図は、しっかりと彼の目に焼きついた事だろう。後はクラウスを足がかりに、王子の好感度を高めていけばいい。
「ローズ!」
庭園を抜けたところで、クラウスが慌ててローズを追ってきた。足を止めると、彼は躊躇いがちにローズの手を取った。
「君が…会場から出て行くのが見えて……。その、何か…あったのか?」
心配そうなクラウスに、ローズは気丈に首を振った。
「なんでもないわ、クラウス様」
ローズはやんわりと手を引き抜く。そして「それより…」と、クラウスを上目遣いに伺った。
「私、クラウス様にお願いがあるんです」
「あぁ。君の頼みなら何だって叶えよう、ローズ」
ローズは微笑む。
凡庸な容姿の、どこにでもいる女。そんなローズの元から、絡めとるような濃密なバラの香りが立ち上った。
(『長兄の憂鬱』・『rose』 / 終)
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