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虫育てる家族

 農業における国際分業論。

 国際間で農業の役割分担を行うべきだとする主張だが、これには多くの反論がある。

 まずは食糧生産以外の農業の機能に着目をして、その社会から農業が失われる事を危惧する声。

 自然環境や景観の保全、文化的な側面など、農業には多様な役割がある。食糧生産のみに着目して、安易に農業を国際間で分業する訳にはいかないというのだ。

 次に、輸送コスト増加の問題。農作物は単価が安く、輸送にも技術が必要だ。その為、輸送コストが馬鹿にならない。生産地が離れれば離れるほど、この輸送コストが増えてしまう為、農業に国際分業は適していないのではないかという指摘があるのだ。

 仮にそれが可能なのだとしても、新鮮な農作物が食べられなくなってしまう。

 そして、最も致命的な問題点が、“農業生産地を一部に集中させてしまうリスク”である。

 近年に入り、世界中で大きな気候変動が観測されているが、その極端な気候の変化で、食糧生産が大ダメージを負ってしまう危険が高くなってきている。もし、一か所に農業生産を集中させてしまい、気候変動でその地の農業が大ダメージを負ってしまったなら、世界中が飢えてしまう事になる。

 これは一国だけでなく、世界全体が抱えるリスクである。

 ……だから、

 

 ――作業の分化。

 その観点から生物の進化を考えた場合、興味深い点がある。

 動物は機能を完全に分化させている場合が多い。例えば、口は一つだけで、食べ物を摂取する役割を一手に担っている。また、同じ様に、目は光を捉える役割、耳は音を捉える役割をそれぞれ担っている。

 が、植物はこうではない。

 完全に機能を分化させてはいないのだ。だから、種類によっては、例えば根や茎でも葉と同様に光合成が行え、切れた一部の蔓から完全に再生する事さえ可能なものもある。

 これは根本的な方略が、動物とは異なっているからこそ生じる差なのではないだろうか?

 植物は動物と違って、太陽光や水などからエネルギー源や栄養を生産可能だ。

 そして農業は、方略としては植物と同じだ。

 太陽光や水などから生産物を生産している。

 植物が完全に機能を分化させなかったのは分化によって得られる効率化のメリットよりも、一部に機能を集中させるリスクの方が大きかったからではないだろうか?

 ならば、或いは、人間社会もこの偉大なる先輩から学習をし、それに倣うべきなのかもしれない……

 

 「……だからっ! お父さんとお母さんにはヒラメは無理だって言ったのよ!」

 

 と、わたし、眉月かれんは怒っていた。

 リビングルーム。

 目の前には大きめの水槽があり、その中にはヒラメの稚魚が浮いていた。プカプカと。明らかに死んでいる。しかも、ほぼ全滅だ。

 お父さんもお母さんも、その水槽の前で変な顔をしていた。

 今年の初め頃、お父さんがニコニコと上機嫌で「ヒラメの養殖が簡単で儲かるらしいぞ!」と言って来た時からわたしは嫌な予感を覚えていたんだ。

 わたしの家族はお父さんもお母さんもそしてわたしも、妹を除くほぼ全員がそろってずぼらで無計画、唯一ちゃんとしている妹にはあまりやる気がない。だから、生き物を育てる能力などわたし達家族は持っていないのだ。

 そして、“なのに”と言うべきか、“だからこそ”と言うべきか、テンションが上がると思慮がなくなり、軽々な行動に出てしまう。

 実は今までも何度か、生物を育てようとして失敗した事がわたし達にはあるのだった。

 裏にお爺ちゃんの持っている土地があるので、そこを借り、簡単だと聞いていたゴーヤやハヤトウリを育てようとして枯らしてしまったり、プランターで簡単な野菜を育てようとして、やはり水のやり過ぎか肥料をやり過ぎたのかで病気にしてしまったり。

 「芋だったら、お前らでも育てられるんじゃないか?」

 お爺ちゃんからそう言われたが、芋ではダメなのだ。芋は国の指定で貯蔵可能な作物に含まれているから、推奨されていない……

 

 ――地球規模の気候変動によって、食糧生産が不安定になると、世界の農業政策のタイプは大きく二つに分かれた。

 一つはとことん生産性重視。

 土地を集約化し、機械化を行い、出来る限り生産量を増やす。日本では主に米、イモ類などでこれは実施されている。この大量生産により備蓄を大量に蓄える事が可能になり、仮に農業生産が一時大ダメージを負ったとしても、食糧の心配はいらないような体制になっている。

 もう一つは、“できる限り生産地を分散させる”というもの。様々な地域で食料生産を行えば、何処かが気候変動の影響で大ダメージを負っても、何処かは生き残る可能性が高い。それによって飢餓を防ごうという発想だ。

 そして、その究極の形として結実したのが、“各家庭で何かしら食料を生産する”という社会体制だった。

 スケールメリットは得られないので、一部の食料品の価格はこの所為で高くなってしまった。ただ、非常に多様な食べ物が楽しめるという利点もある。

 これは別に法律的に強制されている訳じゃない。家庭で行う食料生産は単なる慣習に過ぎず、だから、別に何か食料を生産していなくても罰せられるような事はない。ないのだけど、そこは日本人の特性というか何と言うか、“周りがやっているのなら、自分達もやらなくちゃ”という“右へ倣え”的な精神で、何かしら食料生産を行っている人がほとんどだ。

 各自治体で、呼び名は微妙に異なっているけれど、この食料生産のネットワークは、大体は“食べ物交換会”などと名付けられている。

 “食料生産”を本格的にやっている人もいれば、お遊び感覚でやっている人もいて、そこは自由なのだけど、より珍しくて美味しい物をたくさん作っている人が評価されて、地域社会の地位が上がるような傾向もあり、だからなのか“ご近所へ、自分達が作った物のおすそ分けをする”的な慣習も根付いている。

 つまり、“ご近所付き合い”という意味でも、食料生産は、とても重要なのだ。

 それに、これに参加していないと、食べ物を融通してもらい難くなるというデメリットもある。

 極まれに「知ったことか! しゃーうんなろー!」みたいなノリの人もいるけど、正直真似はできない(そういう人に、ちょっとは憧れたりもするのだけど)。

 一応断っておくと、普通に農家も存在している。作物によっては、一般人に育てるのはかなり難しいものもあるから当たり前と言ってしまえば当たり前なのだけど。果物とか。ただ、それでも農業従事者の高齢化も影響して規模は小さくなってしまった。その代わり、農業従事者の方々は農業アドバイザーという役割で社会貢献していて、それで収入を得ていたりもするようだ。

 

 「どうするのよ?! ご近所へおすそ分けをしなくちゃならないのよ?! 私、“今度はヒラメにチャレンジしています!”って言っちゃったわ! また失敗したなんて言ったら、なんて言われるか……」

 

 突然、お母さんがそんな声を上げて泣き崩れるような仕草を見せた。

 まるでそれまで止まっていた時が動き始めたかのような感じで。そのオーバーアクションがどこまで本気は測り兼ねるけど、少なくともショックを受けてはいるようだった。

 「だから、わたしは言ったでしょう? また失敗するかもしれないから、ちゃんとうまくいってから、みんなには言った方が良いって!」

 それを受けてわたしがそう叱責をすると、

 「だって、そういう話の流れになってしまったのだもの! まさか、“作っていない”とは言えないでしょう?」

 なんてお母さんは言い訳をして来た。

 「そんなもん、テキトーに言って誤魔化しちゃえば良いだけの話でしょう? まだ迷っているとかなんとかさ! これで何度目よ?」

 わたしがそう返すと、「あなた、娘がいじめる!」と、お母さんはお父さんに泣きついた。お父さんは「まぁまぁ、お母さんもわざとやった訳じゃないんだから」と、わたしを宥めてくる。

 「お前も当事者だー!」

 と、それにわたしはツッコミを入れる。

 と言うか、バリバリの主犯格だ。

 もっとも、それを言ったら、わたしも犯人の一人かもしれないけれど。

 「ん~。まぁ、これについては、正直に“失敗した”とご近所の皆さんに言うしかないだろうな」

 わたしのツッコミを受けてもお父さんは冷静で、淡々とそう言う。まぁ、現実問題それしかなさそうだけど。

 「あなたが海でヒラメを釣って来るとかどうかしら?」

 しかし、お母さんはそれでも往生際が悪く、足掻いてそんな主張をしてきた。

 「ヒラメって狙って簡単に釣れるものなの? 僕、釣りはやった事がないのだけど」

 「海の釣り堀に、ヒラメってないのかしら?」

 「聞いた事がないなぁ。

 ……と言うか、そこまでするなら、普通に買った方が良くない?」

 そのままの流れでツッコミ不在の夫婦漫才になだれ込もうとするので、わたしは“バンッ”と机を叩きつつ、それを「とにかく!」と言って止める。

 「ヒラメはもう諦めるとして、“次に何を育てるか?”よ。これまでさんざん失敗し続けているから、最後通告よ?

 流石に、これ以上失敗したら、“食べ物交換会”から除名されちゃうわ。いえ、除名されなくても、実質、除名と同じ扱いになっちゃうわよ!」

 それにお父さんはうんうんと頷きながら、「それはまた、同情と侮蔑の視線がかなり痛そうなシチュエーションだねぇ」などと言って来る。

 まるで緊張感が感じられない。

 わたしはそれに呆れた。ここまで呑気な人だから、今までずっと失敗しているのだ。そして、しみじみとこう思った。

 「――そもそもお父さんに育てる食べ物を選ばせていたことから間違いだったのよ…… ずぼらで慎重さがまるでないんだから」

 思わず口に出してしまったけれど。

 それを聞くとお母さんが言った。

 「なら、今度はあなたが選ぶ?」

 わたしはそれを聞くと「フッ」と笑った。

 「そんなの無理に決まっているでしょーう!? わたしはお父さんとお母さんの子供なのよ!」

 わたしには計画能力もなければ調査能力もない。それをもう十分すぎる程に自覚しまくっている。どんな食べ物を選べば、わたし達でも失敗しないかなんて見抜く能力ははっきり言ってない。

 この二人の愛の結晶というだけで、もう問題外だ。

 「それなら、どうするんだい?」

 お父さんが、やはり呑気な口調でそう訊いてくる。

 わたしは目を光らせるとこう返した。

 「ここは、我が家の突然変異種に頼るのよ。それしかないわ!」

 そして、天井を指差した。

 その指さした方角よりも少しずれた位置には妹の部屋があり、いつもの習慣通りに行動しているとするのなら、今頃は勉強をしているはずだった。

 わたしの妹は、わたし達とは違って確り者で、家に帰ると必ず学校で習った内容の復習をする。重要なポイントだけらしいけど、そうしておくと、テスト前に苦労せずに済むのだそうだ。

 彼女は“ガリ勉”といったタイプではなく、飽くまで“それなりの点数を取る”為にそれをやっている。つまるところは要領が良いのだけど、とにかく、わたし達とは違った人種であるのは間違いない。

 

 「妹よ! 助けなさい!」

 

 わたしはノックもせずに妹の部屋のドアを開けると、何の説明もせずにそう言った。妹は予想通りに机に向っており、こちらに一瞥をくれもしない。

 「部屋に入る時はノックくらいする。何かを頼む時はちゃんと文脈を説明する。仮に姉と妹という立場であるにしても、頼みごとをする時くらいは威張らない」

 そして、机に目を向けたままで淡々とそう語った。

 わたしは腕を組んで威張りながら、それにこう返した。

 「ノックをしなくても、階段を上がって来る足音はあなたには聞こえていたはず。目ざといあなたのことだから、リビングの水槽のヒラメが死んでいることにも気付いているでしょう? だから説明も不要。

 そして、なにより、これは家族のピンチなのだから、あなたも協力して当然……

 我が家の食料生産に、今まで一番非協力的だったあなたが、ここで一肌脱ぐのは当然の話なのよ!」

 それを受けると、妹のつかさは目の前に置いてあったノートパソコンのキーボードを一回叩いてからわたし達に身体を向けた。パチンッと音が鳴ってクルっと椅子が回る。

 「あのね、わたしが何度忠告をしても、それを無視し続けて来たのは、お姉ちゃんたちの方でしょう?

 今更、“ピンチになったから助けて!”なんて虫が良いと思わない?」

 妹の言う事は正しかった。確かに何度も妹はわたし達に警告をしていてわたし達はそれを無視し続けたのだ。が、わたしはその程度では怯まない。

 「なんと言おうと、あなたが“食べ物作り”に非協力的なのは事実よ! だってあまり働いていないのだもの!」

 しかし、妹はそれにこう返す。

 「何言ってるのよ?!

 “あなたはまだ中学生なんだから、手伝わなくて良い。お姉ちゃんたちに任せなさい!”

 って言ったのはお姉ちゃんでしょう?」

 それでわたしは固まる。

 確かにわたしはそんなようなことを言ったような気がしないでもない。普段、姉の威厳をまったく示せていないから、カッコつけたかったのだと思う。

 そんなわたしを妹は更に責める。

 「そもそも、そこからして何も計画を立てないでノリだけで進めたんでしょう? わたしがいなくても大丈夫って計算をしてからちゃんとそういう事は言うべきなのよ。調査して見積もってどんな役割がどれだけ必要なのか概算を出して、その上でわたしが必要ないかどうかは判断するの。大体、お姉ちゃんはお父さんやお母さんには正論を言うくせに、自分では……」

 マシンガンのように降り注ぐその凶器な言葉の弾丸に、わたしはただただ撃たれ続けるしかなかった。

 これは吐血ものだ。

 ぐはぁっ!

 そして、

 「うわーん、お父さん、お母さん、妹がいじめるー!」

 わたしはお父さんとお母さんに泣きついた。

 ……因みに、大体、いっつも、わたしは妹と喧嘩をすると負けている。

 「まぁまぁ、つかさちゃん。お姉ちゃんも反省していることだし」

 お母さんがそう言って妹を宥めた。因みに“つかさ”は、妹の名前だ。

 「全然、反省している態度に見えないんですけどー?

 と言うか、お母さんもお父さんも当事者じゃない!」

 妹もわたしと似たようなツッコミをする。こういうところだけは姉妹だなって思う。

 それから軽くため息を漏らすと、三呼吸くらいの間の後で、妹は口を開いた。

 「ま、でも、一応、案ならあるわよ。考えたのはわたしじゃないけど」

 文句を言いながら、いつも妹は最後にはわたし達を助けてくれるのだ。と言うか、今回は最初っからそのつもりだったみたいだけど。そういうところは可愛い。憂いやつである。

 それから妹は、先程キーボードを叩いたノートパソコンをズズイッとわたし達の前に出して来た。少し遠いから見えないが、その画面には何やら「育ててくれる人募集」の文字が見える。わたしとお父さんとお母さんは、三人そろって近付いていった。

 妹は説明する。

 「“食べ物が上手く作れなくて困っている”って、ネットでヘルプコールを出してみたのよ。

 お爺ちゃんが近くに土地を遊ばせていて自由にそこを使えるとか、全員、生き物を育てるのが苦手だとか、我が家の条件を色々と書いてね。

 そうしたら、“こんなのがあるよ”って紹介してくれた人がいて、それが良さげだったのよね」

 一体、どんな食べ物を妹が提案しているのか、わたしは興味津々だった。が、近付いてようやく見えるようになった文字の意味が理解できず、頭にクエスチョンマークを召喚してしまった。

 「アリ」と、そして一言。

 書かれている食物の名を読んだのだ。

 何かの間違いだと思ったのだ。お父さんもお母さんもそれは同じだったらしく、やっぱり首を傾げている。

 「うん」とお母さんが続ける。

 「“アリ”って書いてあるように見えるわね」

 お父さんも頷く。「アリだねぇ」などと、間延びした口調。

 きっとつかさは開くページを間違えたのだ。わたしはそう思っていた。お父さんとお母さんもそう思っていたに違いない。

 が、ところがどっこい、妹は「そうよ」とそう一言返すのだった。

 「ハハハ」と、わたし達はそれを聞いて笑った。

 妹がこの手の冗談を言うのは珍しい。

 「なかなか面白いね、つかさちゃん。で、本当のページはどれだい?」

 そうお父さんは言ったが、妹は無言のまま何も反応をしない。彼女はどうやらマジのようだ。

 ようやくそれを確信する。固まるわたし達。

 新手のスタンド攻撃じゃないかと錯覚しかけた。

 「冗談じゃない!」

 それから溜めた息を吐き出すように、わたしとお父さんとお母さんは一斉に声を上げた。

 「アリってアリでしょう? 黒くて足が生えていて歩くやつ」

 お母さんがそう言う。

 妹は頷く。

 「うん。アリってアリよ。黒くて足が生えていて歩くやつ」

 流れるような動作でわたしは腕を組む。

 「そんなもん育てたくないわよ! いいえ! 仮に育てたとして、そんなもんどこの誰が欲しがるってのよ?! 食べ物を育てなくちゃいけないのよ?」

 わたしがそう抗議をすると、妹は平然とした表情で淡々と語る。

 「アリって言ってもただのアリじゃないのよ。ミツツボアリっていう珍しい種類で……」

 わたしは妹が言うのを途中で遮って「そういう問題じゃないのよー」と大声で返した。

 ガッデム! である。話にならない。

 が、お父さんがそれに「いや、そういう問題だぞ」と続ける。まじまじとそのアリを育てて欲しいと募集している変なページを眺めながら、

 「確かに大変に珍しいアリらしい。だけど、お父さん達、そんな珍しいアリなんてどうやったら育てられるかなんてまるで分からない。これはどう考えても育てるのは無理じゃないかな?」

 それを聞いてわたしは感動した。非の打ち所がない正論だ。普段、呑気で緊張感がまったく感じられないお父さんが、今はとても頼もしく思える。

 わたしはガッツポーズを取った。これなら妹も反論できまい。ところが、すると彼女は“暗い無表情”とでも名状するべき不思議な迫力を持った顔で、そんなわたし達をじっと見据えるのだった。

 「何言ってるのよ? だから良いんじゃない」

 それはとても冷たく重い声だった。

 「野菜のプランターはまだしも、どうしてゴーヤとかハヤトウリとかを枯らせるの?

 友達に言ったら、

 “あんなの肥料と水をまいて、後は放っておけば良いだけなのに、どうして失敗できるの?”

 って不思議がられたわよ。

 ああ、恥ずかしい。

 お父さんもお母さんもお姉ちゃんも。つまりはやらなくても良いような余計なことをたくさんやったってことでしょう?

 思い付きで肥料をやったり、水をまいたり、除草剤とか殺虫剤とかまいたり。

 例えば、計画を立ててさ、それを確りノートにつけてさ、誰が何をやったか分かるようにしてあるって言うのなら話はまだ分かるわよ? でも、あなた達は銘々が勝手にノリでてきとーに農作業をしていたのでしょう? そりゃ、ゴーヤもハヤトウリも枯れるわよ。植物達も可哀想に。せめて食べられて死んでいきたいわよね? あなた達は何かをしちゃ駄目なの。むしろしない方が良い。やって良いのは、精々、草むしりくらいよ!」

 出た!

 妹、つかさの必殺マシンガン口撃ラッシュである。

 言うまでもないかもしれないが、わたし達三人には全員これに弱い。三人とも吐血ものである。

 ぐはぁっ!!

 そうして三人とも倒れ込んだところに、妹は言った。

 「このミツツボアリは、何をどうすれば良いか分からないでしょう? だから、あなた達も手を出しようがない。だから良いの。これなら、きっとうまくいくわよ」

 つまり、妹のアドバイスの骨子は“お前らは何もするな!”だったのだ。

 わたし達は何も返せなかった。

 「――それに、」

 と、妹は続ける。

 「ゴーヤとかハヤトウリはともかく、ヒラメの養殖はけっこーお金がかかったんじゃないの?

 もう、そんなにお金をかけられないでしょう、お父さん?

 このミツツボアリは、どうも、“飼育セット一式”を無料で貸し出してくれるらしいわよ。しかも、飼育の補助までしてくれるって。ありがたいんじゃないの?」

 それを聞いて、お父さんとお母さんの目の色が変わるのをわたしは見逃さなかった。

 

 ……結局、“飼育セット一式無料”が決定打となって、我が家でアリを育てる事に決定してしまった。わたしは最後まで抵抗したのだけど、3対1では敵うはずもなく、そのままなし崩し的にお父さんが相手方に連絡を取ってしまったのだった。

 そのミツツボアリの飼育者を募集しているサイトの管理者は草原さんという人で生物学者らしく、何でも品種改良して日本でも育てられるようにしたミツツボアリの生育実験がしたいらしい。お父さんが軽くお爺ちゃんが持っている土地の話をすると、とんとん拍子に話は進み、アリの飼育が可能かどうか見に来てくれるということになった。そのついでにミツツボアリの説明もするから、と。

 わたしはため息をつく。

 これでは本当に決まってしまいそうだ。アリを育てるなんて、どう友達に言えば良いのだろう?

 ところが、そう話が決まってわたしが気落ちしていると不意に妹が話しかけてきたのだった。

 「ねぇ、お姉ちゃん」

 「なんじゃらほい?」と、応えてからわたしは気が付く。

 何やらいつもと微妙に態度が違う。

 口調に甘えるようなニュアンスが10%ほど含まれているような感じ。その段階で既にわたしは予感していた。妹はおずおずと口を開く。

 「……お姉ちゃんの友達の村上君って、こういうの好きそうだと思うのだけど、誘ってみたら喜ぶんじゃないかな?」

 頬を赤く染めているようなことはなかったが、そんなエフェクトを加えてもまったく違和感のない表情で妹はそう訊いて来た。わたしは思わずにんまりと笑ってしまう。

 “……ほうほう。なるほど、そういうアレですかー”

 自慢じゃないが(本当に自慢じゃない)、わたしは妹にほとんど勝てる要素を持っていない。が、妹に対しての切り札は持っているのだった。しかも、とびきりビックなやつを。

 わたしの中学生の頃からの同級生に、村上アキという名の男生徒がいる。頭が多少小賢しい程度で、他は背は小さいし運動神経も並だしで魅力的な要素はあまりないのだけど、何故だか妹はこの村上アキのことを気に入っているらしいのだった。

 偶然、皆で我が家を訪ねて来た中に村上もいて、その時の妹の態度でわたしはなんとなく察した。どうも以前から妹は村上を知っていたようなのだけど、彼が自分の家にいると知って、明らかに動揺を見せたのだ。

 それ以来、“妹への切り札を手放してなるものか!”と、わたしは村上との交友関係を維持している。

 もっとも、それは運のお陰もあったのだけど。

 村上はわたしより頭が良いから、高校進学で離れるかと思っていたのだ。ところが単に「家が近い」というだけの理由で、彼は今のわたしが通っている高校を選びやがったのだ。まったく戯けた男だが、助かったことは助かった。お陰でこうして今でも妹に対する切り札として機能してくれている。

 「――ふぅんっ!」と、妹の訴えに対してわたしは言い、こう続ける。

 「よろしい。ミツツボアリの説明会に村上を誘ってみようじゃないの。その代わり、あんたもアリの飼育を手伝うってことで手を打ってあげる」

 そして威張りつつそう言ってみた。妹は、

 「何の話よ? 元々、手伝う気だったわよ。今回はわたしが言いだしっぺなんだし」

 などと、やはり頬が赤いエフェクトが似合いそうな表情でそう返す。わたしは思わずニマニマ笑ってしまった。

 「なによ、気持ち悪い」

 妹はそう言って誤魔化したが、多分、姉たるこのわたしが自分の気持ちと狙いに気付ていることに気付いているだろう。村上はわたしが連絡を入れると二つ返事でOKを出した。珍しい生き物とか好きな奴だから、まぁ、これは予想通りの反応だ。

 ――とにかく、そんなこんなで、草原さんという人がお爺ちゃんの土地を見るついでにミツツボアリの説明をしに家に訪ねて来る時、村上アキも同席することになったのだった。

 

 「――大体のしなくちゃいけない事は、その手渡した資料に書いてありますから」

 

 にこにこと穏やか微笑みで草原さんはそう説明した。

 草原さんは、痩せていて身長が高く、いかにも優しそうに見えたけど、なんとなく学校の先生を彷彿とさせるところがあり、そこだけがなんとなく嫌だった。

 もっとも、もしこの人が学校の先生だったなら付き合い易い部類に入りそうだけど。わたしは“学校の先生”ってだけで軽くアレルギー反応を起こしてしまうのだ。

 やって来た草原さんは、わたし達に農作物やヒラメの飼育に失敗した前科があると説明したにもかかわらず、すっかりとわたし達を信用してくれたようだった。

 ま、多分、見た目のお陰だ。

 お父さんは今まで説明した通りの性格なのだけど、外見は真面目で仕事ができる公務員のような感じだし、お母さんもぱっと見は確りして良そうな印象を受ける。わたしにはまったく分からないのだけど、同級生の男生徒達によれば、「熟女好きには人気が出そう」という事なので、草原さんも好印象を持ったのかもしれない。

 妹も真面目に参加していて、手渡された資料をなんだか熱心に読んでいた。因みに、わたしは読んでいない。いや、真面目にやるつもりがないとかではなく、村上に渡してしまったからだ。想定外に一名多かった所為で、資料が一部足らなかったのである。

 村上はなんだか知らないが、自分の家のことでもないのに、妹以上に資料を熱心に読んでいるし、草原さんが持って来てくれたミツツボアリのサンプルも興味津々といった様子で観察していた。

 因みに、そのサンプルのミツツボアリは普通のアリとあまり変わらないように見えた。何がどう“ミツツボ”なのだろう?

 村上の様子には“もしかしたら、ミツツボアリの飼育を手伝って来るんじゃないか?”ってくらいの勢いが感じられた。もしそうならば、妹への切り札以外の意味でも連れて来て良かったと思う。

 わたしが、その分、楽できるから。

 ――アリの世話としかしたくないし。

 元々、わたしはアリの飼育には反対していたのだし、それくらいは許されるべきだろう。

 

 草原さんはやって来ると、家の中ではほとんどくつろぎもせずに、わたし達がアリを育てる予定のお爺ちゃんの土地を見に行った。

 どうも早く件の土地を観たくて堪らなかったらしい。多分、研究熱心な人なのだろう。

 お爺ちゃんの土地は、半分放置、半分管理されているような中途半端な状態で、途中で放棄されてとうが立ったホウレンソウなどの農作物が、自然と花を咲かせているような、あまり見ない空間が展開されている。

 草原さんはそんな土地の様子を、目を輝かせて観察していた。何が分かるのかは分からないが、専門家ならではの視点があるのかもしれない。

 「あの…… できれば農薬の類は控えて欲しいのですが、生物濃縮が心配ですので」

 家庭菜園の痕跡を発見したからだろう。草原さんはそう心配そうに言った。お父さんはそれにのんびりと返す。

 「ああ、大丈夫ですよ。

 元々、春先の農薬がいらない頃に育てているだけで、農薬は使っていないんですよ。そこに咲いている作物の花とかは、採り忘れたか、途中で面倒くさくなったかでそのままにしてあるだけで」

 お爺ちゃんも作物を育てているけど、この土地はそんなには使っていない。こんなに広い土地を使うほど、本格的にはやりたくないのだそうだ。家の中や近くでこぢんまりとやる程度がいいらしい。

 因みに、既にお爺ちゃんには事情は話してあって、「草取りはお前らでやれよ」と言われてある。乱暴で突き放したような言い方だけど、要は「管理さえするのなら自由に使って良い」ということだ。許可してくれたのだ。

 草原さんは土地が充分に使えると判断したらしく、とても上機嫌で満足げにしていた。そして、それから、ミツツボアリの説明をし始めたのだった。

 草原さんから、まるで“学校の先生のよう”という印象を受けたとわたしは述べたけど、その印象通りにそれはまるで講義のような感じ。

 喋るのが上手い先生の雑談みたいといえば、伝わるかもしれない。

 

 「――アリがハチから進化した昆虫であることは、皆さんご存知だと思います」

 

 草原さんは、そう言ってミツツボアリの説明をし始めた。因みに、わたしはアリがハチから進化したとは知らなかった。

 「恐らくは、地面に巣を作るタイプのハチが翅を退化させた結果生まれたのがアリなのでしょう。

 ミツバチが有名ですが、ハチの中には花の蜜や樹液を餌にするものがいて、ハチから進化したアリにも蜜や樹液を餌にする種類がいます。アブラムシを守る代わりに、アリはアブラムシから甘露と呼ばれる甘い液を貰いますが、これも植物由来の糖分です。

 ミツバチの場合、得た蜜を体内で酵素分解して加工し、更に水分を飛ばすことでそれを巣の中に保管しています。もちろん、これがハチミツですね。

 ですが、アリの場合、巣は土の中です。仮に蜜を貯蔵したいと思ってもなかなか難しい。体内で蓄えておくしかないのです。

 因みに、ハチも体内に栄養を保管し、他のハチに分け与える能力を持っています。アリもそれを引き継いでいるのですね。

 ところが、一部のアリはその能力を更に進化させてしまったのです。それがこのミツツボアリです」

 そこまでを語ると、草原さんは自分が持って来た資料に載っている写真を示した。手元に資料がなく遠くから見るしかなったわたしには、はじめそれが宝石のように思えた。琥珀か何か。とても綺麗だと思った。

 村上が目をキラキラさせて、資料を凝視していた。おかしいとそれで思う。村上は宝石に対してそんな反応をするようなタイプの男ではない。

 その違和感と共に、もう少し凝視してみると、そのうちに目が慣れて来て、“それ”が何か分かった。

 そして、分かると同時に、わたしの背中に悪寒が走ったのだった。

 「――もしかして、それ、アリですか?」

 思わずそう言ってしまう。

 そう。

 まるで琥珀のように思えたのは、大きなアリのお腹で、アリはグロテスクに思えるほどに不釣り合いに大きくお腹を膨らませているのだった。それが天井にびっしりとたくさん張り付いている。

 今までの話からして、そのお腹に詰まっているものは蜜なのだろう。ミツバチのハチミツに相当するもの。

 草原さんはわたしの驚きの声に「はい。そうですよ」とにこやかに返した。

 「アリは作業を様々に分化させている社会性動物ですが、このミツツボアリには、貯蔵に特化した役割を担当するものがいるのです」

 わたしはそれを聞いて「ヒーッ」と思わず声を上げてしまった。

 擬人化して想像してしまったのだ。

 SFでホラーな異常世界が、頭の中で一瞬で展開される。

 「ちょっと、お姉ちゃん。なんで知らないのよ? ミツツボアリの飼育の説明に来るって分かっていたんだから、予習くらいしておきましょうよ。

 今はいくらでも簡単にネットで調べれられるんだから」

 わたしが驚いている様を見て、そう妹がわたしを叱って来た。

 「予習って苦手なのよ。勉強でも何でも」とわたしは返す。

 アリを飼育するのに、それほど前向きではなかったわたしには、そんなことまでする気はさらさらなかったのだ。

 「ハッハッハ。構いませんよ」と、それを聞いて草原さんは穏やかに笑った。よく笑う人のようだ。そして、そのまま説明を再開した。

 「もう皆さん分かっていると思いますが、この貯蔵担当のミツツボアリが食用になるのです。

 大きさは豆程度ですが、私が持って来た品種は改良されてあって、それよりも少し大きくなります。

 味はハチミツに似ていますが、多少の酸味があり、濃厚なレモンティーと形容されることもありますね。日本ではほとんど手に入りませんから、高値で売れますよ」

 お父さんとお母さんが“高値で売れる”という部分に敏感に反応したのが分かった。まぁ、これまでの失敗で我が家の食料生産事業は大赤字だし、敏感になるのも分かる。

 お父さんはおずおずと手を挙げた。

 「育てるのは難しくないのですか?」

 草原さんはそれに「はい」と返す。

 「説明した通り、この種類は改良してあって日本の気候でも問題なく育ちます。ただ、少しでも“ミツツボ”を大きくしたいと思ったのなら、アブラムシも放した方が良いですね。さっきも言いましたが、アリと共生関係にあって甘露を提供してくれるので」

 お父さんはその返答にうんうんと何度も頷いた。“あ、これは……”と私は思う。テンションが上がってしまっている状態だ。慎重さがなくなるいつもの失敗パターンのやつ。

 今度はお母さんが手を挙げた。

 「あの、飼育セットを、無料で貸していただけるというお話でしたが」

 もちろん、お母さんは“無料で”の部分を特に強調して言った。

 「はい。簡易なビニールハウスを提供します。元は熱い地方の動物なので、ビニールハウスで飼う必要があるのですよ。多少、大きくなりますが、これだけ土地が広ければ何も問題はないでしょう。

 後はアリの巣用のケースです。ミツツボアリを育てるように設えた特別製です。貯蔵役のアリの収穫も容易にできるよう工夫してあります」

 その草原さんの返答に、お母さんは目を輝かせていた。“もう、勝ったも同然”みたいな顔をしている。少しも何も勝ってはいないのだけど。

 すっかりと舞い上がっている両親を尻目に、今度は妹が質問をした。

 「どうしてそこまでしてくれるんですか?

 高値で売れるアリなら自分達で育てて売れば良いと思うのですが」

 流石、冷静。

 そうなのだ。どうして、自分達でやらないのだろう?

 妹の質問を受けると、草原さんは少し困ったような顔で口を開いた。

 「いえ、もちろん、自分達でも育てていますし売ってもいますよ。もっとも、その本来の目的はお金じゃなくて研究ですがね。

 私達はいずれは本格的にこのミツツボアリを市場に流通させたいと思っています。ですが、その為にはまだまだ研究データが不足しているんです。ところが、私達にはその為の土地もなければ人手もない。それで募集をかけて、協力してくれる人を探していたのですね。

 土地を持っている人はなかなか少なくて困っていたんです。

 ただ、一応断っておくと“無料で飼育セットを貸し出す”とは言いましたが、ミツツボアリが無事に育って売れた暁には、その売り上げの一部を還元してもらうつもりではいます。うちも、そんなに研究資金が豊富ではないので」

 妹はそれを聞きながら鋭い目を彼に向けていた。きっと冷静に分析しているのだろう。我が家で唯一の確り者だけあって慎重な姿勢を崩さない。多分、この人を警戒している。自分で提案した手前、もし詐欺だったらわたし達に悪いとでも思っているのかもしれない。

 ただ、この草原さんという人に疑わしい点はないとわたしは思っていた。

 普通、土地を持っている人は、もっと無難な食料を作るだろう。“ミツツボアリ”なんて怪しげなものには手を出さない。だから、なかなか協力者を見つけられず、“無料で飼育セットを貸し出す”という好条件を彼は出したのじゃないだろうか?

 妹はまだ何事かを考えているようだったが、そこで村上が口を開いた。

 「実際に、ミツツボアリを売っている様子とかは見させてもらえないのですか? 持って来てくれたサンプルは、貯蔵アリじゃなかったようなので」

 どんなつもりで彼がそんな発言をしたかは分からないけど、多分、ただ単に自分がお腹の膨れたミツツボアリを観てみたかっただけだろう。自分の好奇心には正直な男だから。

 が、それは草原さんへの思わぬ助け船になったようだった。彼はそれから、

 「――ああ、それならこのサイトで観られますよ」

 と、そう言って、スマートフォンを操作して画面を向け、わたし達に食用虫の販売サイトを見せて来た。

 「ここに卸しているんです。今はもう全て売れ切れちゃっていますけどね」

 見ると、琥珀のようなミツツボアリのお腹がビンに詰められている。「へぇ」と村上はそれに子供のように反応した。すると、それから少し後のタイミングで妹は「なるほど。分かりました」とそう言ったのだった。

 何が“なるほど”で、何が“分かった”のかは不明だが、きっと後でそのサイトに問い合わせて、草原さんの言う事が本当かどうか確かめるつもりでいるのだろう。

 草原さんにもそれは伝わったらしく、軽く頷いている。

 そしてそれから妹は、その切っ掛けをつくってくれた(と、恐らく思っている)村上に妙な視線を向けた。村上はその視線の意味が分からなかったのか、キョトンとした顔になっていたけれど。

 

 その日、草原さんも帰って村上も帰った後、わたしは妹の部屋に行くと、こう尋ねてみた。

 「あんたさ、いったい、あの村上のどこが良いわけ?」

 久しぶりに会えば、村上への幻想が崩れるかもしれないと思っていたのに、そんな感じが妹には微塵もなかったので、疑問に思ったのだ。

 妹はわたしにそう言われ、しばらく誤魔化そうかと逡巡していたようだったが、やがて観念したのか、

 「優しいし、頭も良いじゃない。それに、ちょっと可愛いし」

 などと答えて来た。少しばかりばつが悪そうな顔をしている。

 「わっからないなあ」

 と、それを聞いてわたし。

 本当に分からない。村上は、多少、不思議くん系入っているから、面白いキャラと言えなくもないかもしれないけど、それは男としての魅力じゃない。

 わたしの不服そうな様子を見て取ったのか、妹は「それなら、お姉ちゃんはどんな男が良いのよ?」と尋ねて来る。

 わたしは「うーん」と少し考えると、「九条君かな?」とそう言った。

 「九条?」と、妹は疑問の声。わたしの学校の男生徒だから、妹が知るはずもない。わたしはスマートフォンで九条君の画像を見せてやった。

 「イケメンでしょう?」

 そしてそれからわたしは“どうだ!”と言わばかりの口調でそう言ってみた。妹は変な表情を浮かべる。

 「つまり、顔だけってこと?」

 「顔だけじゃないわよ。成績も良いし、運動神経も良いし、性格も明るくて背が高い。おまけにお金持ち」

 妹はわたしの返答に不満そうだった。

 「なんか説明の内容が薄いわね。お姉ちゃん、その人のこと、実はあんまり知らないのじゃないの?」

 「――でも、」とそれにわたしは返す。実は妹の言う通り、あんまり知らなかったのだが。

 「クラスの女の子達は、みんな、九条君が良いって言っているのよ?」

 妹はそれに肩を竦める。

 「そういうのが一番危ないのよ」

 人生経験も少ない上に、恋愛経験なんぞ恐らくは皆無だろうあんたが何を言っているのよ?と思いはしたが、“恋は盲目”とも言うし、これ以上議論をしても不毛だと思って、わたしはそれ以上は何も言わなかった。

 が、妹はこの時既に動いていて、そのお陰と言うかなんと言うか、村上もこのミツツボアリの件に深く関わる事になったのだった。

 

 「――確か、今日でしょう? ミツツボアリがやって来るの」

 

 それから数日が経過したある日、高校で村上がそうわたしに話しかけて来た。午後の授業の休み時間で、後少しで放課後というタイミングだったから、きっと付いて来るつもりなのだろう。

 「なんで、あんたが知っているのよ?」

 不思議に思ってわたしがそう尋ねると、「つかさちゃんが教えてくれたからだけど?」とあっさり返して来る。

 「前の説明会の時に、日取りが決まったら教えるから、連絡先を教えてくれってつかさちゃんから言われて」

 「ほうほう」とそれにわたし。

 我が妹ながら、なかなか積極的ではないか。村上が来て手伝ってくれたら楽できるからその件は別に良いのだけど、このままもし村上と妹が付き合うような事になりでもしたら、切り札の効力が弱くなってしまう。

 「それで、あんたはそんな妹をどう思ったのよ?」

 そう心配したわたしは、探りを入れるような気持ちでそう尋ねてみた。

 「うん? “親切な子だなぁ”と思ったけれど?」

 “よし!”と、それを聞いてわたしは心の中でガッツポーズを取る。

 この男は何にも分かっていない。

 「別に付いて来ても良いけどね、見学するからにはあんたも手伝いなさいよ。ビニールハウスのセットとか」

 わたしがそう言うと、村上は軽く首を傾げつつ「最初からそのつもりだけど、手伝うのだったら、見学とは言わないのじゃない?」と返して来る。

 「そーいう揚げ足取りはいらないのよ」と、わたしはそれに返した。

 

 家に帰ると、お爺ちゃんの土地の近くの道路に軽トラックが停まっていて、その上になにやら色々と積まれてあった。

 組み立てるとビニールハウスになるだろう鉄パイプの類やら他の何かやら。見た瞬間、「うわぁ、これは大変そうだなぁ」と思ったけど、やっぱり大変だった。

 お父さんもこういうのは苦手で、お母さんもやった事がない。妹は頭を使う仕事だけでしか役に立たず、村上は折角連れて来たのに、「テントの設営とか苦手なんだよね」とか言って、物を運ぶ仕事くらいしかあまりできなかった。

 で、結局、そのビニールハウスを組み立てる仕事は、草原さんと草原さんが連れて来てくれた人達にほとんどを任せてしまった。

 わたし達の体たらくを見ても、草原さんは「まぁ、慣れないと難しいですから」と温かく許してくれた。

 本当にごめんなさいと、心の底から思う。

 ビニールハウスのセットがなんとか終わると、それから草原さんはそのビニールハウスの中に花の苗や種を運び込んで来た。そんなものがどこにあったのかと訝しく思って見てみると、いつの間にか二台目のトラックが停めてあった。

 もちろん、その花とかをビニールハウスの中に植えていくのだろう。ミツツボアリ達の餌になるのだ。

 これは流石に我が家の面々や村上も役に立つことができた。別に花を売る為に植える訳じゃないのだけど、まるで花を育てているように綺麗に畝を作って植えていく。人手が多いお陰で順調に進み、この仕事は直ぐに終わった。

 ……が、ミツツボアリ達に餌を与える為の仕事はそれで終わりではなかったのだった。

 「後は、このアブラムシを植えた花たちにつけていきますよ」

 と、言って草原さんがビニール袋をいくつも運んできたのだ。そのビニール袋は綺麗な緑色だった。

 もちろん、その緑色はアブラムシの緑なのだろう。

 「へぇ、面白いですねぇ」

 そう言って村上が近付いていく。わたしは反対に大きく後ずさった。正直言って気色悪い。その緑がアブラムシ達の群れかと思うと、背筋に冷たいものが走る。

 これからミツツボアリを育てなくてはいけない以上、慣れなくてはいけないのは分かっていたけれど、今はまだ無理だ。

 そんなことを思っているわたしの耳に、こんな声が聞こえて来た。

 「そうですね。確かに面白い」

 お父さんだ。

 「ええ、まったくね、あなた」と、お母さんが続ける。

 が、二人とも後ずさったわたしと同じくらいの位置にいた。つまりは、お父さんもお母さんも後ずさったのだ。

 「あなた達は逃げちゃ駄目でしょーが!」

 と、妹がそれにツッコミを入れたけれど、その妹自身もわたし達と同じくらいの位置にいた。

 ……我が家は、全員、大量のアブラムシにドン引いてしまったみたいだった。

 

 何故か村上は矢鱈はりきってアブラムシの付着作業をやっていた。わたし達は悪いけどそれほど乗り気ではない。それでもなんとかその作業を終わらせると、いよいよミツツボアリの搬入を行った。

 木のような材質の巣。アクリル板(多分)を通してその巣の中を観察できた。ミツツボアリ達はその中にひしめいていて、腹を膨らまているものも数匹いる。

 やっぱりグロテスクだとわたしは思う。いずれ、これにも慣れなくてはいけないのだろうけど。

 「今は主に別の餌を与えてありますから、そんなにお腹が大きいものはいませんが、そのうち、花の蜜や樹液を吸収していけばもっと蜜を蓄えたアリが増えてきますよ」

 と、草原さんが説明してくれる。

 それからビニールハウスの下の方を示す。

 「アリ達は外にも出られるようになっています。ビニールハウスの外からも蜜を集められなくてはいけませんから。それと、台風が近づいて来たら、アリの巣を安全な場所に移動してあげてください。ビニールハウスは倒壊してしまうかもしれません。

 巣穴は閉じられますから、閉じてから家の中に運ぶのが良いかと思います。その間は、申し訳ありませんが、シロップなどの餌を与えてあげてください。台風が過ぎ去るまでで良いので」

 お父さんもお母さんもその説明に頷き、妹はメモを取っている。

 “なんだかちょっと本格的になって来たな”と、それを聞いてわたしは思った。元から本格的なのだけど。

 

 そして、ミツツボアリの飼育が始まった。

 しばらくは順調だった。放っておいてもミツツボアリ達は増えていき、草原さんの言う通り、お腹の大きいまるで琥珀みたいな貯蔵アリも増えていく。

 その間、わたし達はほとんど何もやらなかった。やった事といえば、ミツツボアリ達には意味がなさそうな雑草を抜いたくらい。あまりにやる事ないので、何か工夫をしてやろうかとも思ったのだけど、それは妹から止められた。

 「だから、余計な独自の工夫をしようとするから、失敗をするんでしょう?」

 と。

 ごもっとも。

 今回は妹の監視があったからか、お父さんお母さんもそしてわたしも、言われた通りに放っておくことができた。

 (なんじゃそりゃ?)

 初めからそうしておけば良かったのだ。そう言えば、料理で失敗をした時も、似たようなことを言われたような気がする。素人のうちは余計な工夫はするな、と。万物とは通じているものである。そう妹に言ってみたら、「なら、料理の時のアドバイスで学んでよ」と言われてしまった。

 それも、ごもっとも。

 初めの頃は、少しも楽しくなかったのだけれど、少しずつ増えていく蜜を蓄えたアリ達を見ていると徐々にわたしはミツツボアリの飼育が楽しくなって来た。きっと人間っていうのは、こういうのに喜びを感じるようにできているのだろう。だから育成ゲームは楽しいのかもしれない。もしかしたら、農業や畜産が発達したのも同じ理由かも。

 とにかく、わたし達はいつの間にかミツツボアリ達に愛着を感じるようになっていたのだった。ぶっちゃけ、ほぼ何もしていないのだけど、それでも達成感のようなものすら覚え始めた。

 まぁ、まだ収穫していないから、“達成”はまだまだ気が早いのだけど。

 村上も頻繁に我が家のミツツボアリを見に来ている。珍しい動物が好きな奴だから、これは、まぁ、予想通りだ。そんなある日、村上がビニールハウスの中で何かをやっているのをわたしは見つけた。

 屈みこんで、植えている草花に何かをやっている。

 「ちょっと、何をやっているのよ、村上! 余計なことはやらない方が良いのよ? 妹からも怒られるわよ?」

 それでそう注意をしてみると、「え?」と言って彼は顔を上げた。何をやっていたのかは分からないが、手にピンセットを持っている。そして不思議そうな顔で「つかさちゃんも一緒にやっているけど?」とそう言った。

 今度はわたしが「え?」という番だった。そして、奥の方を見てみると、確かに妹がいる。

 隠れるようにしゃがみ込んでいたが、ゆっくりと立ち上がる。何かを誤魔化すような表情。

 「ふーん」と小さく呟くと、わたしは村上に「で、何をやっているの?」と訊いてみた。村上は屈託のない無邪気な顔で「益虫を駆除しているんだよ」とそう言った。

 訳が分からない。

 「益虫を駆除しちゃダメじゃないの!」

 だから、そうツッコミを入れてみた。

 すると、心底楽しそうに村上は「アッハッハ!」と明るく笑った。カタカナで表記するのが似合いそうな笑い声。

 「普通なら、益虫だけどね。ミツツボアリにとっては害虫だからさ」

 そう言って、村上はぶら下げている虫かごを見せて来た。小学生ばりに虫かごが似合っている。その中を見てみると、テントウムシがたくさんいた。

 「肉食のテントウムシは、アブラムシを食べちゃうんだよ。だから捕っているの。本当はアリ達の役目だけど、だからってアリに甘露を支払わなくなったりはしないはずだし。たくさん集めたら、近所で作物を育てている人達に無料で配るつもり。天敵農薬になるからね」

 それを聞いて妹を見てみると、妹も同じ様に虫かごを抱えていた。

 “……わたしには、余計な工夫はするな!とか言っておきながら、この女”

 と、そう思う。

 分かっている。妹は村上と二人きりになりたいから、わたしには本当の事を言わなかったのだ。

 「ちょっと待ってなさい。わたしも手伝うから」

 気付くと、わたしは反射的にそう言っていた。別にそこまでそんな作業がしたい訳じゃなかったのだけど、騙されていたのがなんだか癪に障ったのだ。

 それに、ピンセットを使うのだし、テントウムシならギリギリ手で触れるし。

 “村上と二人きりになりたいのなら、そう言えば良いじゃないの。つかさめぇ……”

 わたしはそう心の中で文句を言った。気の所為か、わたしが参加すると、村上は少し嬉しそうにしているように見えた。妹はそんなわたし達に対して、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。

 

 「ねぇ、あんたと村上って付き合っているの?」

 

 そんなある日、わたしは学校で友達の一人からそう尋ねられた。

 「そのデマはどこから発生した?!」

 と、それを聞くなりわたしは憤る。すると友達は、

 「んにゃ、休日とか放課後とかに、村上があんたの家の方に向っていったって証言が複数人から寄せられているのよ」

 と答えて来た。

 “なんだ? その情報網は?”と、思いつつ、わたしはそれに「とんでもない勘違いね」とそう返す。

 「うちのビニールハウスに用があるのよ、村上は」

 「ビニールハウス?」

 「ちょっと変わった生き物を飼い始めてね。それ目当てよ」

 その友達はそれに「ふーん」と何やら意味ありげな声を上げた。わたしは訝しく思う。

 「どうしたのよ?」

 「うん。だって、あんたさ、昔っからよく村上を誘っていたじゃない。だからさ……」

 わたしはそれに「それも勘違いよ」とそう言った。

 「何がどう勘違いなのよ?」

 「村上を好きなのは、わたしじゃなくてわたしの妹。だから、村上との交友関係を維持し続けなくちゃって思っていただけ」

 それに友達は少し驚いたような顔になると、「へぇぇぇ 意外に妹想いなのね、あんた」などと言った。

 「妹想い? 違うわよ。いざって時の妹への切り札になるじゃない。妹が好きな相手と友達だったら」

 「そりゃまた殺伐としたお考えだこと」

 と、呆れた顔でその友達は言ったが、その少しの間の後で、

 「でも、それって、村上の方はどうなのかしらね?」

 と、そんな変なことを言うのだった。

 「村上の方って?」

 わたしはその意味が分からず、そう返す。

 すると、友達はこう続けるのだった。

 「だって、村上にしてみれば、あんたからずっと遊びに誘われたりしている訳でしょう?

 あんたが自分を好きなんじゃって勘違いしていたとしても不思議はないんじゃない? 案外、意識されていたりして」

 「はあぁ?」

 と、それにわたし。

 そんな事は考えもしなかった。

 「いや、それはないでしょう? あいつ、恋愛偏差値異常に低そうだし」

 「確かに低そうだけど、それでもそれなりにあることはあるでしょう? あいつだって新春期の健康な男のなのよ?」

 そう言われて、わたしはわたしが“益虫駆除”に加わった時の、ビニールハウスでの村上のあの嬉しそうな表情を思い出した。

 

 あの顔は、もしかしたら……

 

 などと思ってしまう。

 「いや、ないない」

 と、それからわたしは慌てて頭を振る。意識すると、なんだかこっちまで変な感じになってしまいそうだった。

 妹とわたしで三角関係。しかも、その中心にいるのはあの不思議君系入った変な奴。これはもうある種のワンダーランドだ。そんな異世界設定は漫画の中にだって出て来やしない。絶対にご免である。

 「どうしたの~? 遂に頭がおかしくなった?」

 そんなわたしの苦悩する様を見て、その友達は楽しそうにそんなことを言った。

 “誰の所為だと思っているんだ! このヤロー!”

 わたしは心の中でそう文句を言った。

 

 多分、ビギナーズラックだと思うのだけど、ミツツボアリの飼育はそれからも順調に進んだ。

 恐れていたビニールハウスが壊れるほどの酷い天気もなく、その間、ミツツボアリ達はかなり増えていき、草原さんに二台目の巣のケースを頼むことになりさえした。

 予想外と言えば、季節が変わるのに合わせてビニールハウスに植えていた草花を入れ替えなくてはならなかったことくらいだろうか? そうしないと、ミツツボアリ達が蜜や甘露を集められないのだそうだ。

 「聞いていないよ~」

 と、わたしは文句を言ったが、本当にわたしが聞いていなかっただけで、草原さんはちゃんと前もって皆に説明をしていたらしい。皆は知っていた。

 因みに、村上にも手伝わせてやった。いや、だって、誘ったら二つ返事でOKするし、本人も楽しそうだし。

 他意はない。

 そして、そうして、遂にミツツボアリはそろそろ収穫しても良いくらいの量と大きさにまで育たったのだった。

 収穫したミツツボアリは、草原さんが卸しているのと同じインターネットのお店に卸すことになっていた。

 ただ、その前に当然と言うか何と言うか、家族及びに関係者を集めて味見をすることになった。

 家の中に収穫した蜜たっぷりのミツツボアリを運ぶと、皆でそれを囲む。草原さんがまずはミツツボアリに手を伸ばした。わたし達が経験者である彼にお願いをしたのだ。彼は身体の部分をつまんで、蜜で膨れているお腹の部分をプツリと口に入れる。これだけ見ると、まるでブドウのようだ。

 「うん。良い味です」

 と、草原さんがにっこりと笑顔で言うと、待ちきれないといった様子で次に村上がミツツボアリに手を伸ばす、それを見たからか、妹も続いた。

 食べた瞬間、村上は感動したような表情を見せ、「うん。これは美味しい。酸味のある、濃厚なハチミツって感じ」と感想を言った。妹もその味に驚いた様子で、「思っていたよりもずっと上品ね」などと言う。

 それに誘われて、お父さんもお母さんも次々と口に入れる。そして「これは美味しい」、「本当に美味しいわ」とやはり感動した表情で言った。そんな光景を見せられては、わたしも食べない訳にはいかない。

 わたしは恐る恐るミツツボアリを手に取った。その琥珀のようなお腹に部屋の光を透過させる。

 お腹だけを見ると、とても綺麗なのに。

 くっついているアリの部分が、どうにもわたしには抵抗感を感じさせる。皆はまるでブドウでも食べるようにミツツボアリを食べていたが、わたしはアリの部分はどうしても食べる気になれなかったので、爪楊枝でミツツボアリのお腹に穴を空けると、そこからチューと蜜を吸った。

 “ハチミツだって、ハチが集めて色々とやっているのに平気で食べているじゃないか。何も変わったことじゃない”

 そう自分に言い聞かせながら。

 そして。

 その蜜を吸うと、抵抗感が吹っ飛ぶほどの甘い衝撃がわたしの口の中に広がったのだった。

 確かに妹の言うように、とても上品な甘さだった。高級なハチミツに(わたしは高級なハチミツなんて食べた経験はないけど)酸味を加えたような自然な甘さ。

 「これ、美味しいわ」

 思わずそう言ってしまった。

 一つ食べたことで、わたしの抵抗感は随分と薄れていた。また一つ、また一つと口にしてしまう。三つ目に手を出そうとしているところでお母さんに、「ダメよ、かれんちゃん。これ、売り物なんだから」と止められた。

 “そうだった”と、それでわたしは思い出す。忘れていた。わたし達は売る為にこのアリを育てていたのだった。

 「ああ、売り物でさえなければ、もっと食べているのに~」

 お母さんはわたしを止めると、そう言ってくねくねと身体をよじらせてとても悔しそうにした。

 「でも、これなら売り物として遜色ないですよ。多分、ファンがつくと思います」

 が、草原さんがそう言うと今度はお母さんはとても嬉しそうな顔を見せた。表情がコロコロと変わる。それだけ興奮しているってことだ。高値で売れれば家計もかなり助かるのじゃないだろうか。

 「僕も手伝った甲斐がありました」

 そう村上が言うと、お父さんは「いやぁ、君には本当に感謝しているよ」などと言った。まるで家族公認の恋人のようだ、などとそれで少し思う。妹のか、わたしのか、は分からないけど。そして、それからこうも思った。

 “いくら珍しい生き物が好きだとは言っても、普通、これだけ手伝ってくれるものなのかしら?”

 あの友達が言った“村上がわたしを意識している”という言葉を思い出したのだ。

 その時、村上はわたしの視線に気が付いたらしく、ちょっと不思議そうな顔をわたしに向けた。

 わたしはそっぽを向く。

 仮に村上が勘違いしていたのだとしても、わたしにはそんな気はさらさらないんだ。迷惑なだけである。

 そんなわたしを妹が見ているのに気が付いた。

 “誤解だからね”

 と、視線で訴えてみる。妹は表情を変えなかったが、その訴えが通じているかどうかは分からなかった。

 

 ミツツボアリの収穫が終わって、卸値がいくらになるか決まると、お父さんとお母さんは更に上機嫌になった。

 具体的な数字は教えないけど、今までの我が家の食料生産の失敗で出た損失を軽々と全て埋められるくらいの金額が稼げそうな目途が立ったとだけは書いておこう。

 両親の雰囲気が良いと、自然、家族全体の雰囲気も明るくなった。

 このまま、この我が家の食料生産が上手くいったなら、お小遣い……というか、給料的なものも貰えるかもしれない。他の家の、食料生産が上手くいっている家だとよく聞く話なのだけど、我が家では今までそんな片鱗すらもなかったのだ。

 態度にこそ出さなかったけど、妹も恐らくは期待しているはずだろう。実は欲しい物リストをノートにつけているのを、偶然見てしまったのだけど。

 確り者も、こういうところでは仇になる。

 が、そんな明るく良い雰囲気だった我が家に一気に暗雲が立ち込める事件が起こってしまったのだった。

 

 ある日帰ると、あんなに毎日明るい顔をしていたお母さんが、妙に沈んだ顔になっていた。

 頬がわずかながらこけ、髪がほつれている。

 なんか、大昔のドラマの貧乏な家の苦労をしているお母さんを表現するのにピッタリな感じの顔。

 “どうしたのだろう?”

 とは思ったけれど、わたしは何も聞かなかった。明らかに変だったけれど、わたしの気の所為かもしれない可能性もないとは言い切れないかもしれないし。

 いや、ま、正直に言うと、悪い予感を感じまくっていて、現実から全力で目を背けていただけなのだけど。

 妹も恐らくはお母さんの様子がおかしいのに気が付いていただろうけど、何も触れはしなかった。

 面倒くさいことになりそうだとでも思っていたのだろう。彼女の場合は、わたしと違って、現実逃避ではなく、性格がドライなので出来得る限り関わるのを避けようとしているのだろうけど。

 が、お父さんが帰って来ると、触れない訳にもいかなくなった。

 何故なら、「何かあったのかい?」と、お父さんはお母さんにそう訊いてしまったからだ。

 さようなら、我が家の仕合せな日々……

 わたしは覚悟をした。

 そして、お父さんから尋ねられると、お母さんは堰を切ったように涙声で事情を説明し始めたのだった。

 

 「……そんな訳で、ご近所の皆さんにミツツボアリを振舞わなくてはいけなくなってしまったの」

 

 お母さんはそう説明を終えた。

 それで家の中は静かになった。とても嫌な沈黙だ。お母さんは誤魔化すように笑っている。

 断っておくけど、別にご近所さん達にミツツボアリを振舞う事自体に問題がある訳じゃない。なにしろ、初めからそのつもりでわたし達はミツツボアリを売り物とは別に確保しておいたのだ。問題はわたし達が育てているのが“アリ”だとお母さんがご近所さん達に少しもまったく説明していない事にあった。

 「……なんで言わなかったのよ?」

 と、わたしは言う。

 「……だって、これまで皆さんに色々と食べ物を分けてもらっていた分のお返しをするのよ?

 まさか、それが“アリです”なんて言えるわけないじゃないの!」

 お母さんはまるで我儘を言う子供のようにそう答えた。

 「どうせ、いずれは言わなくちゃダメでしょーが!」

 と、わたしはそれにツッコミを入れる。

 「そんな空気じゃなかったのよー! 私達は負い目がある立場なのよ? 今まで、何も返さずに食べ物を分けてもらい続けていたんだから!」

 お母さんはやっぱり子供のようにそう返す。

 そのお母さんの言い訳を無視して、妹は淡々と言った。

 「今からでも遅くないわ。ちゃんとアリだって話しましょう」

 それにお母さんは首を振る。ブンブンと。

 「ダメよ。お母さん、“高級なスィーツです”って皆さんに言っちゃったのだもの! 今更アリだなんて言えないわ!」

 「高級なスィーツなのは本当でしょう? 嘘は言っていないわ」

 「でもぉ」

 お母さんは断固として抵抗しようとしていた。が、どう足掻いてもわたし達が育てているのはアリなのだから、正直に話す意外に手はないはずだ。

 ところがどっこい、そんなお母さんの様子を見てお父さんが不意に口を開いたのだった。

 「分かった。アリだってことは伏せたまま、皆さんに食べてもらおう」

 「はぁ?」と、それにわたしと妹。

 お父さんはお母さんには昔からかなり甘い。その所為で良からぬことを企み始めたとわたしは思ったのだ。きっと妹も同じ事を思っていたと思う。

 「ミツツボアリは、お腹の部分だけを見ればアリには思えない。いや、そもそも生物にすら思えない。何らかの加工品のように見える」

 確かに、言われないで出されたら、わたしだってあの綺麗な琥珀みたいな物体が、アリのお腹だとは思わないだろう。

 「つまり、騙すってこと?」と、それに妹。当然の反応だ。

 「騙すとは人聞きが悪いな。ただ単にアリだってことを言わないだけだよ」

 「それが騙すってことでしょう?」

 と、わたしと妹は異口同音にツッコミを入れた。

 まるで詐欺師の口上である。

 わたしと妹は、当然ながらまったく納得できないでいたのだけど、それにお母さんが同意をしてしまった。

 「とても素晴らしい案だわ、あなた!」

 それまで泣き出しそうだったお陰か、一気に明るくなったお母さんの瞳はなんだかキラキラとしていて、とても綺麗な表情になっている。けど、やろうとしている事は詐欺である。しかも、子供レベルの拙い詐欺。

 「ありがとう! この案でなんとかしよう!」

 「そうね! あなた!」

 そう言って見つめ合うと、二人は抱き合った。

 わたしと妹は賛成するとも言っていないのに、ダメ夫婦の二人は暴走をしてしまっている。いつものお父さんとお母さんの悪い癖が出ている。これは大失敗するパターンのやつだ。

 「そうと決まれば、早速、ミツツボアリを細工しよう!」

 いつ決まったのだろう?

 と、わたしは思った。妹もそんな顔をしている。

 が、そんなわたし達に構わず、お母さんが「そうね、あなた!」とそれに返し、ダメ夫婦の二人はそのまま行動を開始してしまったのだった。

 

 販売用のミツツボアリのお腹以外の部分…… 顎とか頭とか足とかは敢えてくっつけたままにしてあった。その方がミツツボアリの希少性も込みで欲しがっている虫好き達にウケるだろうと判断して。

 が、今回はそれが邪魔になる。ご近所さん達にアリだと分からないようにしなくてはならない。

 台所で、お父さんはそのアリだと明らかに分かる部分を小さなハサミで切り取ると、中身の蜜が漏れ出さないように溶かした飴でフタをした。

 アリだと分からなければ、琥珀を模したお菓子のように見えるかもしれない。

 「いっそ、蜜だけを抜いて食べてもらった方が良いのじゃないの?」

 そうわたしは提案してみたが、「それだと量の少なさが誤魔化せない」と反対をされた。

 確かに、この琥珀のような綺麗な外見がなかったら、ミツツボアリの蜜は酸味のあるハチミツくらいにしか思えない。何事も装飾は重要なのだ。

 「わたしは手伝わないからね」

 妹はそう言い放って、必死にミツツボアリに細工をしているお父さんに軽蔑するような視線を向けると台所から出て行った。相変わらず、ドライな性格だ。ま、確かに、ご近所さん達を騙すのに反対をしているわたし達にそれを手伝う義理はないのだけど、それでもわたしは妹のようにドライにはなれなかった。

 多分、わたしまで逃げてしまったら、この滑稽で憐れな夫婦二人はとても悲しむだろう。こんなのでも親は親だ。それはちょっと忍びない。

 だからわたしもその詐欺の為の細工を手伝った。

 まぁ、学校の工作をしているみたいで、なんだかちょっと楽しかったし、失敗したやつは食べても良かったってのもあるにはあるのだけど。

 この作業、それなりに難しくて、穴を塞ぐのに少し失敗して、かなりの数、ミツツボアリのお腹全体を飴でコーティングしたような感じになってしまった。けれど、それはそれで新種のお菓子みたいで良さげだったので、そのままでいくことにした。

 「こんなお菓子、世間の何処にもないわよ、きっと。それを食べられるんだから、むしろ感謝してもらっても良いくらいだわ」

 しばらく作業を進めると、感覚がおかしくなり始めたのか、お母さんがそんな事を言い始めた。

 きっと自分を正当化したいが為に、そんな理屈を無理矢理己に言い聞かせていたのだろうけど、わたしも引きずられて感覚がおかしくなっていたのか、その時は変には思わなかった。

 もっとも、わたしはまだミツツボアリの蜜以外の部分を口にしてはいなかったのだけど。

 

 ――そして、そうして、なんだかんだで、ご近所の皆さんにミツツボアリを振舞う準備が整ってしまったのだった。

 

 お母さんが営業スマイルを浮かべている。お父さんもきっと営業スマイルなのだろうけど、普段から穏やかな笑っているような顔をしているからあまり差が分からない。妹は関わり合いになりたくないからか、自分の部屋に閉じこもって勉強をしている。後少しで数学の小テストがあるからなんだそうだが、口実に使っているだけだろう。妹は小テスト程度で前もって勉強をしたりするタイプではない。

 まず先頭を切って我が家に入って来たのは、大御所の添谷さんだった。やや恰幅の良い中年のおばさんで、気性が多少難しく、ご近所の“食べ物交換会”の中でもリーダー的な立ち位置で一番厄介な人だ。

 その他にもまだ要注意人物はいた。性格は悪くないけど、何を考えているのか分からない系の長井さん。30代くらいの女性。彼女には何故か発言力がある。そんなタイプには思えないのに不思議である。後は、自分の仕事の方を優先させるから、滅多に“食べ物交換会”には顔を出さないけど、実力がある事は確かな坪山さんという中年のおじさん。この人はからっとした性格ではあるけど、怒らせるとかなり怖い。

 わたしはそのそうそうたるメンバーを見て、一気に怖気づいた。

 小声でお母さんに言う。

 「お母さん。本当にこの人達に内緒でアリを食べさせるの?」

 もしバレた時のリスクを考えるのなら、今のうちに本当の事を言ってしまった方が無難である気がする。アリである事を言ったうえで、食べるか食べないかを判断してもらえば良いのだから。食べさせてしまったら、その時点で手遅れである。

 「シッ!

 ……かれんちゃん、私達は、もう後戻りできないところまで来てしまっているのよ」

 それにお母さんは小声でそう返す。そのわたし達のやり取りに、不審そうな顔を添谷さんが向けて来たので、お母さんは慌てて営業スマイルを再び浮かべた。

 それからリビングルームに通したご近所の皆さんが席に着き終わると、お母さんが口を開いた。

 「皆さん、今日はお越しいただきありがとうございます。

 今まで、皆さんには一方的に食べ物を分けていただいてばかりで、とても心苦しく思っていました。これでやっと、そのお返しができると思うと胸のつかえが取れる思いです」

 それを聞くと、添谷さんはふてぶてしい態度で言った。

 体格も態度も太いんだ、この人は。

 「いいえ、こちらこそお招きいただきありがとうございます。眉月さんのお宅が何を作っているのかは内緒という事で、どんな物が出て来るのかとても楽しみしていますわ。

 大変珍しい食べ物なのでしょう?」

 それにはお父さんが応えた。

 「はい。希少価値の高い、滅多に食べられない食べ物である点だけは保証します」

 まあ、アリだしねぇ……

 と、それを聞いてわたしは思う。

 アリなんて普通は食べない。

 「楽しみです。それでは、早速、出していただけないでしょうか? 時間のある方ばかりではないので」

 お父さんが頷くと、それを合図にわたし達はミツツボアリを加工してつくった琥珀の飴細工のようなスィーツ(?)を乗せた皿をご近所の皆さんの所にまで運んだ。因みに、一皿5、6個くらいしか用意できなかった。

 皆さん、不思議そうな顔でそれを見つめている。

 「オモチャの宝石…… みたい」

 と、長井さんが言う。

 「果物かなんかか?」

 そう言ったのは、坪山さんだった。

 まあ、アリのお腹の部分が蜜で膨らんだものだなんて思わないだろう。

 その他の人達も「綺麗ね」、「琥珀にちょっと似てるわ」などと口々に言う。

 そんな感想を聞いて、

 “ごめんなさい。アリなんです”

 と、わたしは心の中で謝罪した。

 その皆の反応を受けて、添谷さんは「なるほど、希少価値が高いというのはどうやら本当のようですわね。何なのかも分かりません」と表情を緩めた。それにお母さんは少し安心したような顔を見せる。多分、アリだとバレなかったからだろう。

 「それでは皆さん、食べてみてください」

 そして、そう告げる。

 “チャレンジャー!”

 と、わたしは思う。お母さん、アリを食べてと勧めてしまった…… これでもう言い訳はできない。

 いや、もう、とっくに手遅れではあったのだけれど。

 それを受けて、まずは坪山さんがミツツボアリをつまんで口に運んだ。まるで酒のつまみを食べるみたいな感じの粗野な動作。坪山さんは少しだけ険しい顔だったのだけど、アリを口に入れるなりそれが変わった。

 「ほぉ こいつはなかなか……」

 目を大きくして、感動をしているような表情。

 そして、二つ目に手を伸ばした。

 どうやら気に入ってくれたようだ。それを見て、添谷さんも手に取り口に運ぶ。“もぐ”と口を動かすと、そのワンテンポ後のタイミングでやはり驚いたような顔を見せた。

 「とっても上品な甘さですわね。酸味も素敵です」

 そしてそんな感想を言った。満足気な表情。それで長井さんや他の人達も次々にミツツボアリに手を伸ばすと、やはり口々に称賛の声を上げた。

 「これは美味しいですね」

 「食べた事のない不思議な味だわ。ハチミツに似ているけど、ちょっと違うし」

 「見た目も綺麗」

 その声を聞きながら、わたしは罪悪感を覚えていた。

 “ごめんなさい。アリなんです。ごめんなさい。アリなんです。あなた達が、今食べているのは、アリなんですー!”

 心の中で必死に謝る。もちろん、そんな声が皆さんに届くはずもないのだけど。

 「これ、加工品ではないのよね?」

 ミツツボアリを味わいながら、長井さんがそう訊いてくる。

 「はい」と、それにお母さん。

 「多少は手を加えてありますが、中の蜜がこぼれないように飴で蓋をしたくらいです」

 それを聞くと、“うん”と頷き、「例え、元がゲテモノであったとしても、この味なら文句ないわ」とそんな事を長井さんは淡々と棒読み口調で言う。

 ピッ!

 と、わたし達家族三人はその言葉に反応したのだけど、誰も気付かなかったようだった。長井さん本人も。

 この時この人がどんなつもりで“ゲテモノ”なんて言葉を使ったのかは謎だ。

 「不満があるとすれば、数が少ないくらいだな」

 一番早く食べ終えてしまった坪山さんがそう言った。それに、お父さんが困ったような笑顔で応える。

 「すいません。契約している店にある程度の量卸さないといけない事になっていまして。なんとか確保できたのがこれだけになります」

 その説明に坪山さんは納得をしたらしく、「そりゃそうだ。相手も商売なんだからな。それは仕方ねぇ」とそう返した。

 この人は、人柄は荒いけど、商売絡みの約束事だとかには理解がある。坪山さんが納得をしたからだろうけど、添谷さんや他の人達も文句を言わなかった。どうやら、そういうものだと思ってくれたようだ。

 「増産に成功したら、皆さんにももっと多く分けてあげられると思います」

 フォローをするように、お母さんがそう言うと「私、これ、息子にも食べさせてあげたいわ。是非、お願いします」と誰かが言った。

 “アリなんですけどねー”

 と、それを聞いてわたしは思う。

 そして、“この流れは、そろそろ誰か質問をするな”と思っていたら、案の定、

 「それにしても、これは何なんですの? 植物の実かと思いましたが、にしては少し変な気がします」

 と、添谷さんがそんな疑問を口にした。

 「すいません。企業秘密なんです」と、それにお母さん。

 “すいません。アリなんです”と、それにわたし。心の中で。

 「とても不思議です。宇宙生命体の身体の一部と説明されても納得してしまいそう。実はそうなんじゃないですか?」

 淡々と、やはり棒読み口調で長井さんがそう言った。

 それにお父さんは「ハハハ。そんな馬鹿な。そんな物を皆さんにお出しするはずがないじゃありませんか」と引きつった顔で返す。

 それを聞いて、“そう言えば、虫が地球外からやって来たってな説があったのじゃなかったっけ?”などとわたしは思う。

 なんか、仄かに鋭いんだ、この長井さんって人は。

 

 ……危ないシーンもあるにはあったけど、そうしてご近所の皆さんを集めた、お礼の意味を込めた食事会のような、わたし達家族で作っている食料のお披露目会は、表向きは成功に終わった。

 けれど、営業スマイルで皆さんをお送りし、リビングの片づけを済ませると、家の中は一気に暗い雰囲気に包まれたのだった。

 因みに、後片付けは妹もちゃんと手伝った。

 全員、テーブルに着く。

 誰が言った訳でもないのだけど、なんだか家族会議をし始める流れになっている。

 組み合わせた手を、鼻の当りに持っていて、その格好で固まったままお父さんが口を開く。

 「食べさせてしまったね。ミツツボアリを。アリンコだってことを伏せたまま」

 妹がその言葉に冷静にツッコミを入れる。

 「そんなの初めから分かっていた事でしょう?」

 それを聞いて、お母さんは頭を抱えた。

 「その通りだけど、実際にやってみると“うわぁぁぁぁ”って気分になるのよぉぉ」

 「やっちゃったもんは仕方ないでしょう」

 と、今度はわたしが冷静にツッコミを入れる。

 「後は、今後、どうやって自然な流れで“実はアリでしたっ!”って伝えるかよ。それを考えていかないかと」

 「ちょっと待って、伝える気?」

 と、それを聞いてお母さんが反応した。

 「当たり前でしょう?!」

 わたしと妹は、それにそう異口同音にツッコミを入れた。

 虫歯治療が痛いのを嫌がって、虫歯を放置し続ける子供じゃないんだから。

 「いや、もちろん、分かってはいるのよ?」と、それにお母さん。

 今の反応は絶対に分かっていなかったが。

 妹も同じ事を思っていたらしく、滔々とお母さんに諭した。

 「一応断っておくけど、こっちが打ち明ける前に、バレちゃったってパターンが一番最悪だからね? 罪が一層重くなるんだから」

 それにお母さんは「バレなければ良いのじゃない?」なんて言う。

 「バレる要素満載でしょうが! あのお爺ちゃんの土地は、私有地ではあるけど、誰でも簡単に入れるんだから! 今までミツツボアリが見つかってないのが不思議なくらいよ!」

 それに妹はそう正論を言った。お父さんが反論する。

 「いや、でも、私有地だと分かっていて、入る人なんて滅多にいないだろう」

 「――甘い」

 と、それにわたし。

 「子供にはそんな理屈は通じないわ。私有地だと分かっていても、面白そうだと思ったなら足を踏み入れるわよ?」

 バリバリそんな子供だったわたし自身が言うのだからそれは間違いはない。わたしがこの近所の子供だったら、絶対に入っていると思う。

 それを聞くと、「ふむ」と言い、お母さんは何かを考えるような仕草をする。そして、口を開くとこう言った。

 「子供だったら、お菓子とかで買収できるのじゃないかしら?」

 わたしはその言葉に真剣に危機感を抱いた。

 どうしよう? お母さんがどんどんクズになっていく……

 妹はそこに冷静にツッコミを入れた。

 「子供は、買収して口止めしても喋るわよ」

 いや、ツッコミというか、素の反論なのだと思うけど、こいつの場合。

 「まあ、多分、大丈夫なのじゃないかな?」

 その後で、お父さんがそう言った。多分と言うか、絶対に根拠は無いと思う。慎重さのないお父さんのいつもの悪い癖が出ている。はっきり言って不安しかない。

 わたしと妹は頭を抱えた。

 ……これは駄目なのじゃないか?

 そうして、そんな感じで、その家族会議は何も決まらず、グダグダのままで終わってしまったのだった。そしてその会議の最中にわたしが感じた不安は、的中をしてしまったのだった。見事に。

 こういうのだけは何故か当たるんだ。わたしの予想。

 

 特にやる事もなかったわたしは、その日、ミツツボアリを育てているビニールハウスの草むしりでもしてやろうかと足を運んで、そこで固まってしまった。

 そこに、子供がいたからだ。

 小学校の低学年くらいの男の子。

 しかも、透明なケースでできたミツツボアリの巣の目の前にその子はいて、それを興味深そうに眺めていた。

 不幸中の幸いで、一人だった。

 思った通り、子供には私有地だとかなんだとかあまり関係なかったようだ。面白そうだと思ったなら、好奇心に任せて入って来てしまう。

 “……やっぱり、巣は見え難い場所に隠しておいた方が良かったのじゃないかなぁ?”

 わたしは顔を引きつらせながら、そう後悔をしていた。

 そんな事をして、ミツツボアリの生育に悪影響があったらまずいとわたし達はそれをやらなかったのだけど。

 こうなったら、この子を外に追い出して、もしこの子が他の人に喋ったら、知らぬ存ぜぬ、幻でも見たのじゃないか?で通すしかない。この子一人くらいなら、それでなんとかなるかもしれないし。

 その子供の背後に立ったわたしは、怒りを堪えながら話しかけた。

 「……君は何をやっているのかな?」

 それでその子はこっちを振り向いた。図太い性格なのか、驚かない。キョトンとした無垢な表情。そう言えば聞こえは良いが、要は善悪の区別がついていないのだ。

 「ここはわたしのお爺ちゃんの家の土地なんだけど?」

 そう言っても、まったく悪びれる様子も見せず、その子は「ふーん」と言った。多分、何も分かっていない。

 これは悪い事だってのを教えてやらなくてはなるまい。

 ……まあ、アリだって事を伏せたまま、ミツツボアリをご近所さん達に食べさせたという悪い事をわたし達はやっている訳だけどね!

 「“ふーん”じゃないでしょう? ここは他人の家なの。だから、入っちゃいけいないの。張り紙だってあったでしょう?」

 それにその子はやっぱり不思議そうな顔を見せた。それで、もしかしたら張り紙の字が読めなかったかもしれないとわたしは思う。そして張り紙の意味を教えようと口を開こうとしたのだけど、そんなタイミングでその子は口を開くのだった。

 「――ねぇ、このアリ、この前、お母さんが持って帰って来たお菓子に似ているよ」

 わたしは固まる。

 そう言えば、“息子にも食べさせてあげたい”とか、そんな事を言っていた人がいたような気もしないでもない。

 “次の機会にしましょうよ、奥さん~!!”

 心の中でわたしはそう絶叫した。

 確か、そんな話の流れだったはずだ。

 わたしは顔を更に引きつらせると、その子の顔をガシッと掴み、無理矢理にこちらを向かせる。そして、

 「いい? このアリのことは、絶対に外では言ってはダメよ?」

 そう告げた。告げたと言うか、脅迫に近い。

 その子はもしわたしの手に挟まれていなかったなら、恐らくは首を傾げているだろう感じでこう返す。

 「どうして?」

 「ここに入って来るのは悪い事なの。それは黙っておいてあげる。だからその代わり、あなたもこのアリを黙っているの。分かる?」

 理屈がどうとか関係ない。無理矢理強引に押し切って納得させる。子供にはそれが一番だろう。わたしは必死だった。が、その子は不可解だと言わんばかりに表情を変化させるのだった。そして、

 「このアリね。とても美味しかったんだよ。ぼく、これ、また食べたいな」

 わたしはそれを聞くと肩を竦めて、身体全体を左右に振った。なんだかアメリカンなジェスチャーのつもり。

 「ん~ 何を言っているのかな、君は? 今はそういう話はしていないでしょう? 世の中はギブアンドテイクよ。約束を守れなかったら、君の悪い事を喋っちゃうわよ~」

 もう明らかな脅迫である。

 我ながら最低なお姉さんだ。

 それを聞くと、その子は「ギブアンドテイクって?」と訊いて来た。

 「何かをしてもらったら、何かを返さないといけないって意味よ」

 「ふーん」と、それにその子。そして、何故かキラキラとした顔を甘そうな蜜をたっぷり含んだミツツボアリに向ける。

 「これ、美味しかったんだよなぁ。また、食べたいなぁ」

 それを聞いてわたしは考える。

 もしかしたら、これは、取引を持ちかけて来ているのだろうか?

 しかし、どうもそんなつもりはその子にはないらしかった。あどけない顔をアリの巣に向けている。恐らくは天然だろう。が、これは使えるかもしれない。

 つまり、ミツツボアリで買収。

 しかし、それは大人としてどうなんだ? とも思う。

 (まぁ、高校生は大人じゃないけど。毎週のようにそう主張しているのはコナ○君くらいのものだ)

 もう、けっこー大人としてどうなんだ?ってことをやっているけど、それはさておき、これではお母さんと同レベルである。

 わたしは煩悶した。

 果たして、どうするべきなのか?

 ――そして、

 

 「お姉ちゃん、アリ、ありがとうー! 内緒にしておくからねー」

 

 笑顔で子供が去っていく。

 “大声で言うなよ”

 と、わたしは心の中でツッコミを入れる。

 そう。

 わたしは子供を買収してしまったのだった。

 男の子は、手にミツツボアリの蜜の入ったお腹部分を持って嬉しそうにしながら、外を駆けている。

 

 お母さん。

 わたし達はやっぱり親子です。

 

 何にせよ、取り敢えず、これで当面の危機は回避できた。そう思って、わたしは安堵をしていた。

 ただ、この時わたしは忘れていたのだった。

 妹が、「子供は、買収して口止めしても喋るわよ」と忠告をしていた事を……

 そして妹の忠告は、わたしの嫌な予感よりもよく当たるのだった。

 

 ――数日後、学校から家に帰るとお母さんがリビングで地獄の底のような顔をして座っていた。何事かと思いはしたけど、関わり合いにならない方が無難だと判断したわたしは、早々に自分の部屋に退散しようとした。

 が、そこをお母さんに捕獲されてしまった。

 「まずいの」

 と、わたしの肩を掴みながらお母さんは真剣な表情で言う。

 「何が?」

 なんとなく察しつつ、わたしはお母さんにそう訊いてみた。

 すると、お母さんは「あの時、私達がご近所の皆さんに食べさせたのが、アリだってバレそうなのよ」と、まるでホラー漫画の登場人物が、何か妖怪の類を見た時のような感じで言った。

 「仲の良い奥さんから、こっそりと教えてもらったのだけど、そんな噂がご近所中に広がっているって……」

 「どうしてバレたの?」

 と、恐る恐る訊いてみると、お母さんは「なんか、どっかの男の子が私達が振舞ったのと同じお菓子を持ち帰って来て、お姉ちゃんに貰ったって言ったって。それがアリのお腹だったって」と答えた。

 “あっ それ、わたしだ”

 と、それを聞いて私は思い、

 「これ、あなたよね?」

 と、そんなわたしの顔を見てお母さんは言った。鬼気迫る表情。

 わたしは咄嗟に言い訳をする。

 「違うのよ、お母さん。その子にミツツボアリを見られちゃったもんだから、買収して口封じをしようしただけなの。お母さんだってそう言っていたじゃない」

 するとお母さんは目から滂沱の涙を溢しながら、

 「だからってミツツボアリを渡すことないじゃない! 現物を渡しちゃったら、もう言い訳はできないわ!」

 「だって、その子が欲しがったのだもの~」

 「そんなの、てきとーに丸め込んで、チョコとかアメとかにしておけば良かったのよ~!」

 お母さんは滂沱の涙を流しながら、そうわたしを責め立てる。わたしはその迫力に圧倒されてたじろいでしまう。かなりの物凄い剣幕である。

 “どうしよう?これ”

 などと、それで困っているとこんな声が聞こえて来た。

 「落ち着いて、お母さん。今の時代、現物がなくたって、“アリを見た”ってその子が言うだけでネットで検索をされてお終いよ」

 妹だ。

 珍しくわたしを助けてくれるらしい。

 その言葉で多少は落ち着くと、お母さんは「だって、つかさちゃーん」と、まるで子供が甘えるような声を出した。妹はそんなお母さんを冷たく叱るように言う。

 「そもそも、偶々、それで発覚したってだけでいずれはバレていたわ。画像検索って手段も今はあるし」

 「そうだけど~」

 「それよりも、今はどうやって、対処するかでしょう? そのうち、真相を確かめにご近所さん達が家にやって来るんだから、その前に」

 そう妹が言ったタイミングだった。お母さんのスマートフォンのベル音が鳴る。それでお母さんはまるで“ムンクの叫び”のような態になった。

 わたしも妹も真顔で黙る。その無言の沈黙の圧力に促されるように、お母さんは遅々とした動作でスマートフォンをタップした。逃げられない事は本人が一番良く分かっているのだ。

 「あら? どうも、お世話になっています。え? 今からですか? ええ、ただ、今はちょっと夕飯の準備をしておりまして、手が放せなくて。え? 直ぐに終わる? いいえ、やましいことなんてありませんわ。ええ、まぁ、なんと言いますか、はい、それなら少しで終わると言うのなら」

 それまで涙声だったとは思えないような見事な声色の変化で、お母さんはご近所の奥さんの誰かだろうスマートフォンの向こうの相手に対応した。あまりの変化に、“この人は、声優でもいけるのじゃないか?”なんてわたしは思ってしまった。

 スマートフォンを切る。

 それからお母さんはわたし達にゆっくりと顔を向けると、「どうしよう~? 今から、来るって、添谷さん達~」と再び涙声に戻って言う。

 わたしと妹はそれで顔を見合わせた。

 “どうしよう?”と言われても、困ってしまう。

 

 リビングで、お母さんが「どうしましょう? どうしましょう?」と青い顔でうろうろしている。

 わたしと妹はソファに座って、そんな憐れな母親を眺めていた。

 お父さんがいれば、まだ少しはマシかもしれないが、生憎仕事から帰って来ていない。まぁ、実質的には何の役にも立たないだろうけど、お父さん。少なくともお母さんの精神状態は多少はマシになるだろう。

 わたし達も被害を受けるかもしれないが、最もダメージを負うのは間違いなくお母さんだ。自業自得とはいえ、可哀想なことは可哀想だ。こんなんでも親は親だし。なんとか助けてあげたいが、打つ手はない。賢い妹もそれは同じらしく、困惑したような表情を浮かべている。

 「学校でもからかわれるだろうなぁ」

 と、わたしは言う。

 妹はそれに何も返さない。

 「あんたの方がやばいんじゃない? 高校だと地元の生徒が少ないけどさ、中学は地元の生徒だらけじゃない」

 その無言に少しだけ苛立ったわたしは、そう言ってみた。すると妹は、何故か「村上君」とそう一言返すのだった。

 「は? 村上? あいつがどうしたのよ?」

 と、それにわたし。

 本当に意味が分からない。

 「村上君なら助けてくれるかもしれない。お姉ちゃんが頼めば」

 「はぁぁぁ?」

 と、わたしは返す。

 「村上に何ができるってのよ? それに、わたしが頼めば助けてくれるって何? わたしは別に村上とは何でもないわよ」

 が、妹はそれに何も言わなかった。そして、代わりに意味ありげな視線でわたしを見る。

 わたしはその視線の意図をなんとなく察してしまう。わたしを羨ましがっているような、わたしを責めるような。少なくとも、村上の件で妹に責められるような事はわたしは何もしていないのだけど。

 理不尽だとは思いつつ、わたしはそれから無言のままスマートフォンのアプリで村上に連絡をした。“実は今、我が家がこれこれこういう状況でピンチなの。なんとかならない?”とかそんな文面。村上に何かができるとは思っていなかったけれど、あいつだって一応は関係者な訳だし、ダメもとってこともあると思って。

 それから五分も待たずに、村上から返信があった。

 『うん。大丈夫。なんとかするよ』

 わたしはその返信に首を傾げた。

 一体、あいつに何ができると言うのだろう?

 『なんとかって?』

 と、返すと村上は『ちょっと前に、添谷さんが自分のSNSに“アリを食べさせられた”って内容の記事を上げているんだ。それを利用させてもらう』と返して来た。

 添谷さんが、既にそんな行動に出ているとは知らなかった……

 これはかなりご立腹のようだ。

 と、私は思う。

 SNSにもう書いてあるという事は、真相を確かめようとしている段階ではなく、文句を言いに来るつもりでいるのだろう。ならばもう何を言っても無駄なのじゃないか? 村上は何をするつもりなのだろう?

 そんな風に思っていると、ドアホンの音が鳴った。

 

 ピーンポーン

 

 普段は間の抜けた音なのに、今はまるでホラー映画染みて聞こえる。

 「ヒッ!」

 と、お母さんは小さく悲鳴を漏らした。そしてそれから慌てた動作でドアカメラのスイッチを押す。お母さんの背後から画面を覗いて誰が来ているのかを見てみると、添谷さんを先頭に長井さん、坪山さん、などなどと続いていた。ご近所の実力者の皆さんだ。

 カメラ越しだったので、他の人達の表情はよく分からなかったけれど、添谷さんは間違いなく怒っている。

 「どうも、皆さん、いらっしゃいませ~」

 と、不自然に明るい声でお母さんはそう言った。無理矢理に明るい雰囲気にして誤魔化してしまおう作戦だと思うけど、そんなのでどうにかできるとは思えない。

 添谷は厳しい口調でそれに返す。

 「はい。眉月さん。突然、すいませんね。どうしても確かめておきたい事がありまして。悪いのですが、取り敢えず、出て来てもらえないでしょうか? カメラ越しに話すというのもなんですので」

 「はいー 分かりました~」と、それにやはり明るくお母さん。が、それから、ドアホンのカメラのスイッチを切ってこちらに顔を向けると、瞬時に青い顔になり「どうしよう~?」と、涙声でそう訴えて来る。

 「あなた達二人のどちらかが出たら、そんなに怒られないのじゃない?」

 そして、助けを求めるような視線で、そんな提案をして来た。

 「いや、お母さん。それ、火に油を注ぐようなものだから」

 と、それに妹。

 どうも、お母さんはこの期に及んでもまだ覚悟が決まっていないらしい。

 お母さんは、待たせると更に断罪が酷くなると判断したのか、それから重い足取りではあったけれど直ぐに玄関へと向かった。わたしと妹もなんとなく付いて行く。

 ドアを開けると、胸を張って威圧しているような格好で添谷さんがいた。この人は間違いなく怒っている。ただ、長井さんは何を考えているのか分からない顔をしていて怒っているのかどうかも分からない。そして、坪山さんは意外にもそんなに怒った顔をしてはいなかった。難しい顔ではあるけれど。

 「眉月さん。どうも、今日は。この間は、大変に珍しくて美味しいお菓子をどうもありがとうございました」

 添谷さんは、嫌味と皮肉たっぷりの口調でそう言った。

 「はいぃぃ」と、お母さんはそれに引きつった不自然な笑顔で返す。怯えているのを必死に気取られないようにしているようだけど、ここまで来たら、隠さない方が被害は少ないのじゃないかと思う。

 「ですが、それについて奇妙な話を聞きまして。

 私達が“食べてしまったアレ”ですが、なんとアリだったというのですよ。ええ、私もまさかとは思いましたわ。ですが、試しに“ミツ、アリ”で検索をかけてみたら、本当にあの時私達が食べたのとそっくりのお腹をしたミツツボアリなるものの画像が出てきましたの!」

 それに、にっこり笑うお母さん。

 何も言わなかったけれど、もう演技が不自然過ぎて、“その通りです”と言っているようなものだった。

 それを見てわたしは“政治家にはなれないな、この人は”などとなんだか変な事を思ってしまった。なられても困るけど。

 「確かにあの食べ物が何なのか、秘密だとは聞かされていましたわ。ですが、いくらなんでもアリを食べさせられていたなんて夢にも思いませんでした。流石にそれは酷いのじゃなくて? アリだと知っていたなら、絶対に食べたくない方もいらしたはずでしょう?」

 添谷さんはまだお母さんが何も応えていないのに、まるでお母さんが認めたかのようにお母さんを責め立て始めた。

 お母さんはそれにどう応えたものか悩んでいるようで、ただただニコニコと笑顔を見せている。

 笑って誤魔化せるレベルではないのだけれども。

 お母さんの返答を待ったからか少しだけ変な間ができた。その間で長井さんが「まさか、本当にゲテモノだったとは。貴重な体験をさせてもらいました」と淡々と言い、続いて「虫を食べるなんざ、イナゴの佃煮以来だぜ」と坪山さんが言った。

 「ほら、二人とも怒っておいでですわ」と、それを受けて添谷さんが言ったけど、わたしには二人が怒っているように思えなかった。

 それでもしかしたら、添谷さん以外はあまり怒っていないのかも、と淡い期待を抱いたのだけど、その二人の更に後ろにいるご近所さん達は明らかにお母さんを睨んでいた。

 “……うーん やっぱり、怒っている”

 と、それでわたしは思う。

 「まずは謝っていただけないかしら!」

 添谷さんがそう言うと、お母さんは笑顔のまま涙を目に溜め始めた。

 “うわ、やばい。泣きそうだ”

 それを見てわたしは頭を抱えた。お母さんは少し前屈みになると「皆さんを、おもてなししたいと思ってやった事ではありますが……」と言い訳を始めた。

 「あら? あなたはおもてなしで、アリを食べさせるんですの?」

 と、それに添谷さん。

 お母さんはそれで止まる。前屈みになっているので分かり難かったけど、どうやら涙を流しているようだった。「うっ…… うっ…」というくぐもった声を出している。

 これは流石に可哀想だ。

 わたしはそう思った。

 が、そんなお母さんに対しても添谷さんは容赦がない。

 「あら? 笑って誤魔化そうとしたかと思ったら、今度は泣いて誤魔化すんですの? 私、そんなのでは誤魔化されませんわよ?」

 辛辣な言葉を投げかけて来る。

 そんな添谷さんを長井さんと坪山さんはチラリと見たが、何も言わなかった。

 「あのー…… 母も反省していますし、それに、あのミツツボアリが高級品だというのは本当の話で…」

 見かねたわたしは思わずそう口を開いていた。自業自得とはいえ、これは酷い。「馬鹿、止めなよ」と妹がそんなわたしを止めようと小さな声で言った。お母さんを庇ったりしたら、ターゲットがわたしになってしまう。それはわたしにも分かっていたのだけれど……

 案の定、添谷さんは目を剥いて、わたしを攻撃してきた。

 「何を他人事みたいに言っているの? あなただって同罪でしょう? 知っていて、この犯罪に手を貸していたのですもの」

 “犯罪”

 その言葉にわたしは軽く怒りを覚えた。

 「ちょっ……! いくらなんでも“犯罪”は良い過ぎだと思います! 少なくともわたし達は嘘は言っていないのだし。珍しい食べ物だって断ったじゃないですか!」

 それで気付くとそう言い返していた。

 「ふーん」と、それに添谷さん。

 「そんなふてぶてしい態度を執りますのね。盗人猛々しいとはこの事です。あなたの学校、私、知っていますわよ。あの学校の先生には知り合いがいまして」

 わたしは更にそれにカチンときた。権力を使って脅し始めたよ、このおばさん。一番ふてぶてしい態度のこんなおばさんにふてぶてしいだなんて言われたくない!

 妹が「止めなよ」って言ったのが聞こえた。けど、わたしは構わずに口を開いていた。このままでは、わたしは取り返しのつかない事を言ってしまう。自分でも自覚していたけれど、口は止まりそうになかった。

 が、わたしが怒りの声を発する寸前のタイミングでこんな声が聞こえて来たのだった。

 「いやぁ、ごめんなさい。僕も知っていたのですけど、ミツツボアリを食べるのを嫌がる人がいるだなんて思っていなくて、眉月さん達を止めませんでした」

 すっとぼけたような間延びした声。

 緊張感を孕んだこんな場面には似つかわしくないその声に虚を突かれて、わたしは次に自分が言おうとしていたことを忘れた。と言うよりも、元々、何も考えていなかったのかもしれない。

 そんな声と共に、そこに穏やかな表情で現れたのは、あの村上アキだった。

 そう言えば”なんとかする”って返信して来ていたな、こいつ……

 と、それでわたしは思い出した。

 振り返ってみると、妹が喜びつつも悲しそうな顔でそんな村上を見ていた。“そんな顔を向けるような相手かい? この村上が”と、わたしは思う。

 とにかく、それで添谷さんのターゲットは、今度は村上に移ったようだった。

 「ミツツボアリを食べるのを嫌がる人がいない? 虫を食べるのを嫌がるのは当り前でしょう?」

 ところが、それに村上は「そうですか?」と不思議そうな顔で返すのだった。悪びれた様子のない無垢な表情。

 「でも、虫を食べるのって、人間社会では決して珍しくないのですよ?」

 そして、淡々とそう返す。

 「日本でも、未だにイナゴの佃煮は普通に食べられているじゃありませんか。虫じゃありませんが、エスカルゴ…… つまり、カタツムリだってフランス料理では高級食材ですしね」

 それを聞くと、添谷さんは「屁理屈をこねるのはおやめなさい! イナゴやカタツムリなんて普通は食材とは見做されません!」とそう返す。

 それに村上は再び「そうですか?」と疑問の声を上げる。

 「でも、エビやカニ、ロブスターは同じ節足動物ですが、食材として普通に認められていますよ。それに、貝だって食べられているじゃありませんか」

 それを聞くと添谷さんは少し変な顔をした。

 「貝? 貝がどうして出て来るのです?」

 「カタツムリって貝ですよ。陸に進出した貝の一種…… 陸貝ですね。因みに、ナメクジもやはり陸貝です。殻が退化してしまっているのですね」

 その村上の衒学趣味的な説明に、添谷さんは多少苛立った様子でこう返した。

 「それがどうしたのです? そんな話はまったく関係がありません」

 「そうですか?」

 が、村上は三度その疑問の声を上げる。

 「でも、自分がまったく何も知識を持っていないと想像して、エビとかカニとか貝とかを見てみたらどう思います? イナゴとかカタツムリとかとそう変わらないとは思いませんかね?」

 「知りません!」と、それに添谷さん。

 「アリの体内に蓄えられていた蜜なんてものを騙されて食べさせられたこちらの身にもなってください!」

 それを聞いても村上は平然としていた。

 「でも、それはハチミツも似たようなものですよ。花の蜜がミツバチの唾液に含まれる酵素によって分解され、ハチミツは生成されるのです。ミツツボアリだけを忌避する理由にはならないと思います」

 そして、淡々とそう説明する。それに添谷さんは益々怒った顔を見せる。

 「だから、そんな話は知りません! どうでも良いです!」

 添谷さんの返しは、理屈になっていない。

 論戦では勝てないと思ったのかもしれない。そのやり取りで“これではいけない”とわたしは思った。仮に論破できたとしてもそれじゃ駄目なんだ。これは理屈の問題ではなく、感情の問題なのだから。添谷さん達の怒りを治めて、納得させないと。そうじゃないとわたし達家族の危機的な状況は変わらない。

 が、構わずに村上は続ける。

 「つまりは、何を食材と見做すか見做さないかなんて大した問題じゃないんですよ。実際、ミツツボアリはとても美味しかったでしょう? なら、それが全てです」

 それに添谷さんはフルフルと震えた。

 青筋は出ていなかったけど、出ていてもおかしくはない表情。きっと、皮下脂肪に隠れているんだ。

 「何度も言わせないで。そんな話は関係がないのです! 私達は、黙ったままアリを食べさせられた事を怒っているのです!」

 「食材が秘密だってのは、説明を受けていたはずしょう?」

 「それは眉月さん達家族を信頼していたからです! この人達は、そんな私達の信頼を裏切ったのです!

 内緒で虫を食べさせるなんて、信じられません!」

 添谷さんの指摘は核心を突いていた。

 これは流石に反論のしようがないのじゃないか? 世間で虫やその類が食材に使われている場合もあるけれど、黙ったまま食べさせるなんて事は行われていないはずだ。

 が、それでもやっぱり村上は平然としているのだった。

 「虫を黙ったまま食べさせるくらい、世間では普通に行われていますよ」

 そして、そんな事を言う。

 「は?」と、それに添谷さんはそう返し、“は?”とそれにわたしはそう思った。添谷さんが攻める。

 「どこの誰が食べさせているって言うのです?」

 しかし、それでもやはり村上は平然としていた。

 「カイガラムシって知っていますか? この虫から採れる染料は、イチゴヨーグルトやかき氷のシロップ、アイスなどに使われています」

 そして、飽くまで淡々とした調子でそう説明してから、こう続ける。

 「でも、それを世間の企業は黙っているでしょう?」

 添谷さんは不服そうに返した。

 「それがどうしたのです? たかが染料でしょう?」

 しかし、それにも村上は動じない。

 「ところがどっこい、染料以外にも僕らはたくさん虫を食べているのですよ。知らず知らずの内に、ね」

 その言葉で、添谷さんは表情を変えた。

 わたしの勘違いじゃなければ、不安そうにしているように見える。そしてその表情通りの不安そうな声を出す。初めて弱気になっているのじゃないか?

 「何を食べていると……」

 戸惑っているようだ。

 「コーヒーやお米、その他、様々な穀物や果物や牛乳…… 早い話がありとあらゆる食品。それらには、実は数多に虫の断片は含まれているのですよ。

 目には見えないかもしれませんが、虫の断片を完全に取り除くのは不可能です。だから実は僕らは、否応なく日常的に虫を食べている事になるのです。そして、それは防ぐ事はできません」

 その説明に添谷さんは、

 「それは致し方なく食べているという話でしょう? 私達が言っているのとは根本から違います」

 などと返したが、あまり自信があるような感じには思えない。

 なんだか分からないが、どう考えてもわたし達家族が悪いのに、それほど悪い事をしたようには思えない感じになっているような気がしないでもない。

 虫を食べるくらい、大した事じゃないんだ。

 村上の語る理屈の所為で、添谷さんはそんな気にさせられているのかもしれない。何しろ、傍から話を聞いているだけのわたしですらそんな気分になっているんだ。

 「……虫を積極的に食べるなんて、有り得ないことです」

 かなり弱気な様子で、そう添谷さんは言った。

 「そうですか?」

 と、それにまたまたまたまた村上はそう疑問の声を発した。

 「でも、“虫を食べられる能力”って、人間社会でこれから求められる重要な能力なんですよ?」

 「どうして……」と、添谷さんが返そうとするのに被せて村上は言う。

 「“虫”は、家畜として非常に重要なんです。エネルギーや水、土地などが少なくても平気…… つまり、とても効率的に育てられるのですね。だから、牛や豚などは温室効果ガスをたくさん排出してしまうのに対し、虫は環境に与える影響がとてもマイルドなんです。もちろん、食糧危機対策としてもとても効果的です。

 ただ、残念ながら、人間社会の多く…… 特に先進諸国は、虫を食べる文化を失ってしまっています。

 ですが、絶望する必要はありません。

 かつて西洋社会には魚を生で食べる習慣はありませんでした。が、寿司や刺身が美食文化として認められると、それが自然になりました。

 虫でも同じ様な変革が可能かもしれません。いえ、その変革を起こさないといけないのです」

 そう言い終えると、村上は何故かスマートフォンを操作し始めた。そして、おもむろにその画面を添谷さんに見せる。

 「そして、その“虫を食べる分化”を復活させる切っ掛けとして、このミツツボアリは使えるのじゃないかと思えるのです。とても美味しいし綺麗だし珍しくて面白いから。世間の耳目を集めるでしょう?」

 見ると、村上の持っているスマートフォンにはミツツボアリの画像が映っていた。それからこう彼は続ける。

 「確かに黙っていた事は悪かったかもしれません。ですが、ミツツボアリの味の素晴らしさを伝えるという意味では、それはそれなりに価値がある事だったとも思うのです。

 どうか、許してはいただけないでしょうか?」

 添谷さんは、どうもその村上の説得に圧されているように思えた。

 “……すっごい、屁理屈”

 と、それを聞いてわたしは心の中で呟く。

 もちろん、わたし達は別にミツツボアリを普及させる為に、隠してご近所さん達に食べさせた訳じゃない。単なる保身だ。まさか作っている食料がアリだなんて言えなかったから。それなのに、普及させる為に隠して食べさせたように聞こえる。

 “こいつ……、こんな特技があったのね”

 と、わたしは村上に少し感心をした。

 が、それでもまだ何か一押しが足りないとも思っていた。添谷さんは……、いや、添谷さん以外の他の近所の人達も、完全に納得しているようには思えない。

 添谷さんはしばらく黙っていたが、やがて意を決したのか口を開いた。

 「なるほど。話は分かりました。世間には様々な理屈や価値観があるものですね。ですが、仮に“虫を食べる意義”を認めたとしても、やはりそれとこれとは別問題と言わねばなりません。眉月さんがやった事は私達に対する裏切り行為です。

 “世間にとって”ではなく、“私達にとって”が重要なのです。隠したまま虫を食べさせられたりすれば、私達が怒ると眉月さんは分かっていたはずです。が、にもかかわらず、それを実行した。

 ミツツボアリに価値があると思っているのなら、正直にそれを説明した上で私達に振舞えば良いだけの話でしょう」

 “……やっぱりか”

 それを聞いてわたしは思った。多少は怒りが治まっているが、それでもまだ添谷さんがわたし達家族を断罪する気でいるのは明らかだった。

 「さて、」

 そして、添谷さんは首謀者であるお母さんに視線を向けた。「ヒッ」と、お母さんは小さく悲鳴を上げた。

 が、それを村上は止めるのだった。

 「ちょっと待ってください」

 添谷さんはそんな村上に呆れた視線を向ける。

 「まだ何かあるのですか? どれだけミツツボアリに価値や意義があろうが、それは私達には関係がない話だと申し上げたではないですか」

 それに村上はニッコリと笑って大きく頷く。

 「確かにその通りですね。価値観というのは、人によって異なる…… そしてそれは、どんな文化を持った集団に属しているかによって変わって来るんです。

 でも、だからこそ、眉月さん達は“ミツツボアリの価値を認めた集団に触れ合っていた所為で、それを異常な事だとは思えなくなっていた”とは言えないでしょうか?」

 それに添谷さんは「何の事です?」とそう訊いた。村上は「添谷さんは、SNSをやっていますよね? そして、今回のミツツボアリの件をアップしている」とそう語った。

 添谷さんは不可解な表情を浮かべる。

 「それが何だと?」

 村上は静かにこうそれに返した。

 「その記事が今どうなっているのか、ちょっと見てみてください。スマートフォン、持って来ているのでしょう?」

 添谷さんはそれを聞いて訝しげな表情を見せた。が、それでもスマートフォンを取り出して自分のSNSを確認したようだった。そして、目を大きく見開く。

 「こ、これは……」

 なにやら驚いている。

 「何に驚いているの?」

 不思議に思ったわたしは、そう村上に尋ねてみた。すると彼はスマートフォンを操作して、わたしに添谷さんのSNSを見せてくれた。

 その画面にわたしも驚く。

 「え? これって……」

 その添谷さんの記事には、数多くのコメントが書き込まれていたのだ。しかも、そのどれもがミツツボアリの情報を知りたがるものばかりだった。

 『一生に一度は、ミツツボアリを食べてみたかったんです。どうか、その生産者さんを紹介してください』

 『ミツツボアリを食べられたなんて、羨ましい』

 『ショップに予約を入れているのですが、中々手に入らなくて。どうか、生産者との連絡手段を教えてください。どうしても食べてみたいんです!』

 わたしは村上を見てみた。すると、彼は少し悪戯っぽい表情で説明する。

 「草原さんに連絡してね、ミツツボアリを食べたがっている人達のことを教えてもらったんだ。それでその人達に、“ミツツボアリの情報がありますよ”と伝えたら、瞬く間に情報が拡散されて、そんな状態になったってワケ」

 添谷さんはしばらく自分のSNSを眺めていたようだったが、やがて顔を上げた。少し間抜けな顔だった。その顔に向けて村上は言う。

 「どうです? これだけ多くの人がミツツボアリを食べたがっているんです。その所為で“ミツツボアリを食べさせるのが悪い事”って意識が眉月さん達からなくなってしまっても不思議ではないと思いませんか?」

 それに添谷さんは何かを言いかける。が、そのタイミングで「あの~」と声が聞こえて来たのだった。

 「すいません。ミツツボアリを生産しているというお宅はこちらでしょうか?」

 その声を聞いて、村上は「おー グッドタイミング」とそう小声で言う。

 見ると、二十代から五十代くらいの年齢も服装もバラバラの人達が四、五人ほど玄関の外からこちらを覗いている。

 「もしかしたら、ここにいる皆さんもミツツボアリを買いに来た人達ですかね?」

 一人がそう尋ねると、自然と村上に皆の視線が集まった。

 「アハハハ。ごめんなさい。どうしてもって言われて断り切れなくて、ミツツボアリを欲しがっている人達に、僕がここの住所を教えてしまったんです」

 村上はそう説明する。

 その後で、また声が聞こえた。

 「ここで並んでいた方が良いですかね? 並んで待っていれば、ミツツボアリが買えるのですか?」

 それに添谷さんは「いいえ、私達はミツツボアリを買いに来たのではありません」と戸惑った視線で返す。

 透かさず、そこで村上は言った。

 「この人達は、ご近所さん特権で、ミツツボアリを眉月さん達から無料で分けてもらった人達ですよ。今日もその事で来ていたのです」

 それにミツツボアリを買いに来た人達は「おお!」と軽く歓声を上げた。

 「やはり、ここでミツツボアリが手に入るのですね? 既に食べられたとは羨ましい。で、味はどうでした? やっぱり、噂通りに美味しかったですか?」

 添谷さんはかなり戸惑った表情を浮かべていたが、まさかここまでミツツボアリを食べたがっている人達を目の前にして“ミツツボアリを食べさせられて怒っている”とは言えなかったらしく、

 「はぁ、非常に美味でしたが……」

 と、なんだか曖昧に返事をした。

 買いに来た人達は、それに再び喜びの声を上げる。

 ……もちろん、そんな雰囲気の中ではわたし達を糾弾する事など、もう添谷さん達にはできるはずもないようだった。

 

 それからお母さんが、その人達に今は一度目の収穫を終えたばかりで、まだミツツボアリを売る事はできないと説明した。彼らは大いに不満そうだったが、試食用のミツツボアリを数個渡すと、とても喜んでくれ、大人しく帰っていった。

 もちろん、次の収穫の時のミツツボアリを予約をしてから。

 その時にはほとんどの近所の人達はもう帰っていたが、添谷さんと長井さんと坪山さんだけはその場に残っていて、お母さんはその三人に対して深々と頭を下げた。

 「ミツツボアリだと黙っていた件については、大変に申し訳なく思っています」

 それを受けて、坪山さんは頭を掻きながら言う。

 「いや、なに、謝られるほどのこっちゃないよ」

 “え?”と、それにわたし達はやや驚く。確かに、怒ったような素振りはこの人には初めっからなかったのだけど。

 「俺は“虫を食う”くらいどうってことないって思っているからな。それに、食材が秘密だってのは聞かされていたし。その上で食べたんだから、何が正体でも文句を言う筋合いはないと思っている」

 そして、添谷さんを見やってから続ける。

 「ただ、それじゃ、皆は納得しないだろう? それでどうしたもんかと思っていたんだ。どう落とし前をつけて、どう皆を納得させるのか。それだけが問題だと思っていたんだが、なんだかそれもあやふやになって解決しちまったみたいだな」

 それから坪山さんは村上を見た。“大したもんだ”とでも言いたげな顔に思えた。

 長井さんもそれに続ける。

 「私としても、怒っていません。いえ、滅多にできない体験ができて楽しかったですから。みんなで楽しんで食べた物が実はアリだった…… シチュエーションも含めて素敵でした」

 淡々と棒読み口調でそう語る。

 “うーん この人はやっぱり何を考えているのか分からない”

 と、それを聞いてわたしはそう思う。

 そして、最後に添谷さんに視線が集まった。

 「私は、まぁ、ミツツボアリを食べたがっている人達があんなにたくさんいるだなんて思っていませんでしたから……」

 皆の視線を受けて、添谷さんはそう告げる。

 つまりは怒っていないのだ。

 情報提供者として、添谷さんは感謝をされていたから、怒るのも何だか変な感じになってしまったのだろう。

 ただ、それから大きく息を吐き出すと、

 「今回は不問にしますけど、今後は二度とこのような事はしないように」

 と、そう釘を刺すように添谷さんはお母さんに言った。お母さんは滑稽に思えるほど畏まって、「はい! それはもう」と再び頭を下げた。

 そして、そのようにして、今回の事件はどうやらめでたく決着したようなのだった。

 

 添谷さん達が帰っても、まだ村上はいた。

 お母さんが「お礼代わりに、どうか、晩御飯を食べいって」と引き留めたのだ。村上はそれを受けてなんだか嬉しそうにしている。

 “まさか、これで‘家族公認になった’とでも思っているのじゃあるまいな?”

 と、わたしは疑う。

 何のかは敢えて述べないけど。

 もっとも、村上のお陰で助かったのは事実なのだ。わたしとしても感謝くらいはしないといけないかもしれない。

 なにしろ、わたしが頼んで、それに応えてくれたのだから。

 リビングのソファに座って、晩御飯ができるのを村上は待っていた。楽しそうにテレビのバラエティー番組を観ている。そんな彼に向ってわたしは勇気を振り絞って声をかけた。

 「あの…… 今日はありがとう。まさか、本当に助けてくれるとは思ってなかった」

 が、村上はそれに「ん? 何の話?」と訊いてくるのだった。

 わたしはその時、顔を真っ赤にしていたと思う。恥ずかしいのを我慢しながら返す。

 「だから、わたしが頼んだから、助けに来てくれたんでしょう? 一応、嬉しかったもんだから……」

 わたしはちょっとドキドキしていたかもしれない。

 ところがどっこい、村上はそんなわたしにこんなことを言うのだった。

 「ん? ああ。別に眉月さんから頼まれなくても助けに来るつもりだったよ? SNSなんかでまずい事態になっているのは知っていたから。

 そもそも、眉月さんの連絡を貰ってからじゃ、あれだけの準備が間に合うはずないじゃんか」

 “なっっっにぃー!”

 それを聞いて、わたしは即座に妹に視線を向ける。言っていたのと違うじゃないの!と。妹は私の視線を躱してそっぽを向く。そんなわたし達を村上は不思議そうな顔で見ていた。

 わたしはワナワナと震える。

 この行き場のない怒りをどうしてくれよう?

 そこでお父さんの「ただいま~」といういたって呑気な声が聞こえて来た。どうやらやっと帰って来たらしい。

 

 「この役立たず!」

 

 お父さんがリビングに顔を見せるなり、わたしはそう罵った。それを聞いたお父さんは、「え? いきなりなに?」と、オロオロしていた。

 もちろん、これは八つ当たりだ。

 

 この“ミツツボアリ事件”は、単なるハプニング以上の影響をわたしに与えた。それは心が成長しただとかそういった曖昧なものじゃなく、もっと明確で具体的なものだった。

 はっきりと言ってしまうのなら、わたしは“ミツツボアリを食べられるようになった”のだ。

 それまで蜜部分だけで絶対にアリの薄い腹の膜は食べなかったのだけど、口にできるようになった…… なってしまったのである。

 切っ掛けは村上のこんな説明だった。

 どうして添谷さんがあっけなくわたし達を許してくれたのか、一緒に晩御飯を食べた時にわたしは訊いてみたのだけど、あいつは何でもないような顔でこんな事を言ったのだ。

 「それは、ただ単に添谷さんが“たくさんの人がミツツボアリを食べたがっている”と実感できたからだと思うよ」

 なんじゃそりゃ? とわたしは思ったのだけど、村上が言うには、人間は集団に合わせる動物だから、たくさんの人が“ミツツボアリを食べる”のなら、それに合わせて自分もそのように認識するものであるらしい。

 寿司や刺身が、西洋社会で食べ物として受け入れられたのと同じ。

 それを聞いたら、わたしは自分がアリを食べるのを嫌がっていたのがなんだかバカバカしくなってしまったのだ。

 

 学校にて。

 わたしはある日、「あんたの家、アリを食べ物として育てているって本当?」とクラスメイトからそう訊かれた。

 明らかにからかっている口調だ。

 わたしはそれにこう返してやった。

 

 「そうよ。虫を食べられるようになるのは、人間にとってとっても価値がある事なんだから。

 環境問題対策にもなるし、食糧問題対策にもなる。

 わたし達家族は、それに貢献しているの」

 

 そのクラスメイトは、それを聞いてキョトンとした顔になっていた。

 後から取ってつけた理由だけど、今はわたしは本気でそう思っている。

こんな話を書きましたが、ごめんなさい、イナゴの佃煮くらいしか虫は食べた事がないです。

ほぼ本からの知識……

因みに、この中に出て来る”品種改良されたミツツボアリ”は、存在しません。

僕の創作です。


参考文献

 「昆虫食と文明 デイビット・ウォルトナー=テーブズ 築地書館」

 「昆虫食古今東西 三橋淳 オーム社」


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