09.海底の魔物
まずは、手近な『人魚の涙』から攻めようという話になり、一行は西の海岸を目指すことにした。何日もかけて、サマーァに結構な距離を走らせて到着した場所は、見渡す限りの海と水平線である。
「場所はここで合っているはず。あとは、月の竪琴を鳴らすだけなんだが……」
困惑したようなカウィの声に、レイラが勢いよく手を挙げた。
「楽器なら、このレイラさんにお任せあれ! 旅芸人の腕の見せどころだわ」
レイラはウキウキと竪琴を受け取り、まずは一回かき鳴らす。海がざわりとさざめいた気がした。
「凄いね、これ。どういう仕組みだろ、曲が勝手に頭の中に流れ込んでくるよ」
竪琴を爪弾くと、澄んだ音色が流れ始めた。どこか子守唄を連想するような旋律は確かに月の竪琴の名に相応しく典雅に響き渡る。最後の弦を爪弾いた後で、海を見る。波が、静かに引き始めていた。
「凄い……水平線が地平線に変わった」
どこまでも引いていく潮を追いかけるように、アスファたちは獣車を走らせる。やがて、大地にぽっかりと大きな裂け目が口を開いているのを見つけた。
「あれだ。デカいな……獣車ごと行けそうだ」
ハーディの言葉に、アスファはサマーァに頼んだ。
「じゃあ、そうしよう。サマーァ、そのまま突っ込んで」
応、と答えるようにサマーァが嘶く。水面がすぐ近くまで迫った時、マイヤの水魔法が発動した。水の『障壁』が獣車ごと大きく包み込む。
「すごーい、本当に水中なのに息ができるわ!」
「本当にこんなことが可能とは……」
レイラとバドルが感嘆の声を上げる。アスファは姉を気遣った。
「マイヤ姉様、大丈夫か? 疲れたらいつでも言って。交代する」
「このくらい平気ですわ。アスファばかりに頼ってはいられませんもの」
物凄い速度で暗闇を駆けていくサマーァの前を明るく照らし出すのはファリスの光魔法だ。
「ファリスの先天属性が『光』で助かりましたわね」
「あぁ、私がやると足元すら見えないから。目と鼻の先だけ」
楽しげに笑い合う姉妹に、ジアーがツッコミを入れた。
「それ、笑えねーから」
そんなことを言っている間に、暗闇の中に一筋の光が見えてきた。あれが出口だろう。
「見えたぞ」
ファリスの言葉に、獣車から身を乗り出すと、近づいてくる光の中に荘厳な建築物が見えた。
「あれが……海底神殿?」
急速に近づいてくる光に、思わず目を細める。気がつけば、広い空間に出ていた。青白い石造りの神殿はある種の神秘的な壮麗さで佇んでいる。神殿の門と思しき場所を潜り抜けると、なんと中には空気が存在した。
「凄いですわ……神殿全体が空気の膜で包まれているなんて」
マイヤが感嘆の溜息をつく。
「やけにひっそりとしているな。何かあったのか?」
カウィが油断なく辺りに視線を走らせる。アスファたちは獣車から降りて、神殿内を探索し始めた。
「大体、こういうのってさ、正面にずっと向かっていくと玉座があって、王様がいて、っていうのが定石じゃない?」
レイラの言葉に、じゃあ、とりあえず正面から向かってみようという話になった。神殿の中は人間の歩く場所を残してほとんどに入り江のような水場があった。
「こうして見ると、本当に誰もいないな……カウィの言う通り、何かが起きているのかもしれない」
アスファはそう呟くと石造りの大きな扉の前に立った。無駄かもしれないが、一応礼儀は守ることにした。
「私は魔導師アスファと申す者。貴方たちに対する害意はない。人魚の涙を求めて、この海底神殿を訪れた。神殿の主にお目通り願いたい」
大声を張り上げるも返ってきたのは、しん、とした沈黙。肩を落としてアスファが扉に手を触れた時だった。石の扉が静かに内側に開かれたではないか。
正面に置かれた玉座には、どこか疲れたような印象の恰幅のいい老人が座っていた。
「ようこそ来られた、地上からのお客人よ。儂は海底王バハルじゃ。魔導師アスファと申したか」
「黙って神殿内に立ち入った非礼はお詫びする。ここを訪れたのは合わせて九人と一匹。皆、私の仲間たちだ」
前に一歩進み出たアスファに、海底王バハルの目が驚きに見開かれる。
「なんと、まだほんの子供ではないか。それに、その金色の瞳は魔王の器である証。何故そなたは人魚の涙を求めるのじゃ?」
アスファは海底王に自身の左手を繋ぐ鎖を示した。
「二人の人間の命を留めるため、『御魂繋ぎ』の術に手を出した。その結果、私を含む三人が一つの命を共有する事態になった。私ともう一人はともかく、一人は人間の王子。何とか『御魂分け』の儀式を行いたい」
海底王バハルは二度驚いたようだった。
「なんと、人間の身で『御魂繋ぎ』を実行する者がおったとは……確かに、『御魂分け』の儀式には人魚の涙が必要不可欠。しかし、今は……」
「何か問題が?」
言い淀む海底王に、アスファは引き続き疑問を口にした。
「それはそうと、ここで何か起きたのか? 神殿のこの静けさはただごとではないように思われる」
海底王バハルは深い溜息をついた。
「それよ。今、儂らを悩ませておるのは、最近海底に棲みついた魔物でのう。皆殺しにされたくなければ、毎月一人の人魚を差し出せと要求しておるのじゃ。先月でもう一年になる。残っておる人魚は、十三人いた人魚の姉妹のうち末の妹のみ。そなたとほぼ変わらぬ年頃じゃ。儂にはこの海に生きる全ての命を守る責務がある。じゃが、そのために人魚の姉妹を犠牲にしてしもうた。それも、今月で終わり。明日には魔物がやってくる。その前に地上へ戻るがよい」
アスファは仲間たちを振り返った。一番後ろでハーディが微笑みを浮かべて頷く。
「もし、よければ我々に魔物退治をさせてもらえないだろうか? 私は魔導師で、困っている者たちを助けるのが魔導師の本分。それは地上に生きる者であれ海に生きる者であれ、変わらないと思う」
ただ一人、ザラームだけが呆れたように溜息をついたのだった。
*
アスファたちの申し出に、海底王バハルは踊り出さんばかりに喜んだ。その時になって、アスファは巨大な柱の陰からこっそりとこちらを見ている小さな人影に気がついた。
「もしかして、貴女が十三人目の人魚?」
人影が、ぴゃっ、と跳び上がった。恐る恐る顔を出したその人魚は、確かにアスファと同じくらいの年頃だった。
「は、はい。ビゼルと申します」
「そうか、私はアスファ。こっちは姉のマイヤ」
アスファはマイヤを紹介した。無愛想な自分では怖がらせてしまうかもしれないが、マイヤならたぶん大丈夫。
「……アスファ様にもお姉様がいらっしゃるのですね」
「アスファでいい。ビゼルと呼んでもいいか?」
「はい、アスファ。人間のお友達は初めてです」
ビゼルがそう言って笑うと、アスファもつられて笑った。
「そうか。私も人魚の友達はビゼルが初めてだ。よろしくな」
「はい」
幼い少女たちが親交を深めているのは何とも目に優しい光景だったが、ハーディが苦笑してアスファに当初の目的を思い出させた。
「アスファお嬢さん、魔物の話」
「そうだった。海底王バハル殿、詳細な話を教えてほしい。それから、できればこの神殿は戦場にはしたくない。貴方たちの住処だからな。魔物の棲処はどこにある?」
矢継ぎ早に質問を繰り出したアスファに、海底王は僅かに苦笑したようだった。
「魔物の正体はおそらく年を経た蛸であろう。わしらはサルタウーンと呼んでいる。八本の腕を持ち、それぞれの腕に肉質の吸盤が並んでおる。この腕に注意せよ。四方八方から攻撃が飛んでくる。魔物の棲処はビゼルが知っていよう」
海底王バハルの言葉に、アスファはビゼルを振り返った。
「そうなの?」
「えぇ、私たちがよく遊び場にしていた廃墟があるのです。サルタウーンはそこを根城にしているようで……」
「場所を教えてくれる?」
ビゼルは詳細な場所を教えようとして、口ごもった。
「ビゼル?」
「あの……もしよろしければ、私に案内をさせてもらえませんか?」
「!」
驚愕する海底王やアスファたちを余所に、考え、考え、ビゼルは言葉を紡いだ。
「私たちのために戦ってくださるのに、海に生きる私たちが何もしないのはあんまりです。私もお姉様たちのために何かしたいのです」
決意を秘めた幼い瞳とアスファの金色の瞳が交錯する。アスファはビゼルに近づくと手を差し出した。
「わかった。案内を頼む。その代わり、ビゼルには絶対手出しさせない。私たちが護る」
「はい!」
ビゼルがしっかりとアスファの手を握った。アスファは微笑みを浮かべると仲間たちを振り返った。
「腕が八本と言っていたな。一人二本ずつ」
「いけるな」
「当然」
バドルとカウィが頷いた。
「じゃあ、俺とマイヤお嬢さんとレイラちゃんがビゼルちゃんの護衛ね」
ハーディがにこにこと告げる。
「それはいいけど、マイヤ姉様は水魔法の『障壁』で手が塞がる。ハーディとレイラで二人も護れるの?」
「任せてちょーだい。それに……どうせアスファお嬢さんたちが魔物をやっつけちゃうだろ? 問題なーし」
軽い。しかし、確かに指一本、違った、腕一本、彼らに触れさせはしない心づもりではいる。何だか見透かされた気分だった。
「じゃあ、任せる。準備が整い次第、出発しよう」
話がまとまったところで、海底王がアスファを呼んだ。
「これを持って行くがいい。何かの役に立つだろう」
「……これは?」
手渡されたのは、どこからどう見ても剣の柄にしか見えなかった。アスファが手に取ると急速に魔力を吸われる感覚がする。
「何これ……!」
「名を『サラーブ・セイフ』という。持ち主の魔力を吸って刃に変える『剣』じゃ。扱える者が限られておるのが難点じゃが、どうやらそなたにはその資格があるようじゃな」
掴んでいた剣の柄から刃が出現していた。細身の剣だが恐ろしい程の魔力密度だった。これは扱いに注意が必要な代物だとアスファは思った。
「この剣の利点は、刃を出現させていても、同時に魔法を発動できるというところにある。つまりは……」
「上手く使えば、攻撃と防御や回復を同時に行える……?」
「飲み込みが早いのう。そういうことじゃ。それに、魔力を使うが消耗自体は少ない。刃を戻せば魔力も戻る」
試しに刃よ戻れと念じてみる。刃が消えた代わりに魔力が戻ってきた。
「凄い……他に使える人はいる?」
頬を紅潮させて尋ねるアスファに、海底王は身体を揺すって笑った。
「魔導師級の魔力の持ち主でないと、まず無理じゃよ。そなたたちの中ではそうじゃな……そなたの姉がギリギリ難しいというところかの。おぉ、そこな闇色の髪の青年は扱えるじゃろう。瞳も金色じゃしな。それにしても、珍しいのう、魔王の器が二人もおるとは……」
実は魔王本人です、とは口が裂けても言えない一行である。
「じゃあ、これはザラームに持っていてもらおうかな。私が持っていても非力すぎて扱えないだろうし」
アスファが『サラーブ・セイフ』をあっさりと魔王であるザラームに手渡そうとするのを、血相を変えたハーディたちが全力で阻止したのは言うまでもなかった。
*
魔物サルタウーンの根城は意外に近い場所にあった。海底神殿から地上に伸びる道は二つ。一つはアスファたちが通ってきた道で、もう一つは神殿の裏から反対側に伸びる隧道であった。
再び、マイヤの水魔法で『障壁』を張り、サマーァの曳く獣車は隧道を駆け抜ける。抜けた先の海の底ですぐ目に飛び込んできたのが、その廃墟だった。廃墟といっても、一番大きな建築物はまだしっかりと残っている。どうやら大昔に沈んだ人間の町のようだった。
「中まで獣車で乗り込めそうだな」
カウィがそう目算する。アスファはそれに頷いて、サマーァに告げた。
「裏から回ろう。なるべく見つからないように」
サマーァがそれに従う。遊び場にしていただけあって、ビゼルが建物の中を案内してくれた。
「この通路の奥にある大きな階段を登れば、大広間まで行けます」
「じゃあ、大広間の入口近くに獣車を停めよう」
アスファの決定にマイヤが異を唱えた。
「でも、戦闘の際の『障壁』はどうするつもりですの? わたくしは獣車を離れられませんわよ?」
「大丈夫、ザラームがいる」
「あ……」
確かに、魔王であるザラームならば、サルタウーンを含めた巨大な水の『障壁』を築くことも不可能ではないだろう。当のザラームを見れば、深い溜息をついていた。
「仕方あるまい。お前たちに死なれるわけにもいかん」
そう言って、ザラームは指をパチンと鳴らした。あっという間に『障壁』がもう一つ展開される。
「さっすが」
ハーディが、ひゅう、と口笛を吹いた。
「行こう、バドル、カウィ、ファリス。……ザラームはジアーを頼む」
「……俺は子供のお守か」
珍しくザラームが不平を言った。ジアーはというと、ザラームにくっつくようにして身を寄せている。
「死なれたら困るのだろう?」
「お前……後で覚えていろよ」
完全にアスファが主導権を握っていた。予定通りの場所に獣車を停め、アスファたち六人は獣車から降りた。
「気をつけるんですわよ」
「わかっている」
心配そうなマイヤにそう返して、アスファたちは大広間の入口に近寄った。そっと中を覗くと、紫褐色の巨大な蛸の怪物が十二人の人魚たちを侍らせて大宴会をしているではないか。人魚たちはそれぞれ、食べ物の乗った大皿や酒の入った壺などを複数人で捧げ持たされている。周囲にはおそらく眷属であろうと思われる大蛸の姿もいくつか見えた。その数、六。
「まるで悪魔の魚だな……さて、どうする?」
「カウィ、闇魔法を広範囲に使えるか?」
アスファの質問に、カウィが眉根を寄せた。
「馬鹿を言うな。人魚たちまで凍らせる気か?」
「手前の大蛸たちの腕だけでいいんだ。人魚たちとは結構距離がある」
「……なるほどな。まずは敵の動きを封じ込める作戦か。いいだろう」
カウィはそう言って、物陰から闇魔法を行使した。大蛸たちの八本の腕が一斉に凍りつく。アスファたちは一気に大広間へと雪崩れ込んだ。アスファは大声を張り上げる。
「外に出ろ。ビゼルが待っている。早く!」
ビゼルの名を出したためか、効果は劇的に現れた。人魚たちは手にしていた物を放り出すと一斉に大広間の入口へと殺到した。追いかけて捕らえようにも部下の大蛸たちは腕を凍らせられていて動けない。
業を煮やしたサルタウーンの巨大な腕が三本、人魚たちに迫る。だが、その腕は全て剣によって阻まれた。
「お前の相手は私たちだ!」
バドルが即座に斬り込んだ。カウィとファリスも後に続く。アスファは周囲の大蛸たちを先に退治しようと闇魔法を紡いだ。
「魔・闇・静、『氷結』!」
ハーディの言葉を信じて、全力で魔法を放った。それなのに今度は空間ごとの凍結を免れたようだ。これならいける、とアスファは確信した。大蛸たちを凍らせては直接触れて風魔法を送り込む。大蛸たちは次々と風の刃に切り刻まれて砕け散った。
眷属たちを殺されたサルタウーンは烈火のごとく怒り狂った。最後の一匹の大蛸を凍りつかせた時だった。
「アスファ、上!」
ジアーの叫び声に、アスファは上を見た。サルタウーンの巨大な腕が一本、アスファを狙って振り下ろされようとしていた。直撃すればただでは済まない。逃げようとしたが凍った床に足を滑らせて転んでしまう。転んだ拍子に懐に入れていた『サラーブ・セイフ』がカランと床に滑り落ちて転がっていった。
(逃げられない──!)
思わず目を瞑った。しかし、いつまでたっても予想していた衝撃はこない。代わりに聞こえるのはサルタウーンの苦悶の叫び。恐る恐る目を開けると、アスファを庇うようにして立つ背中がある。ザラームだった。その手に握られているのは、紛れもなく『サラーブ・セイフ』である。背後でビチビチとのたうつような音がして視線を向けると、そこには斬り落とされたサルタウーンの腕が転がっていた。
「何をしている……お前に死なれたら困ると言ったはずだ」
「ザラーム……」
「さっさと最後の一匹を片付けろ。……それまでは、俺がこの場を凌いでやる」
あっさりとザラームが二本目の腕を断ち斬る。アスファは慌てて大蛸の氷漬けに向かうと風魔法を行使した。最後の大蛸が切り刻まれて砕け散る。ついでに、サルタウーンの斬り落とされた二本の腕も同様に処理すると、すぐにザラームの元へと戻った。ザラームは刃を収めると、手首をくるりと返して『サラーブ・セイフ』をアスファに手渡した。
「いいか、使ってわかったことだが、この『剣』は持ち主の斬りたいものだけを斬ることができるようだ。恐れるな」
ザラームの言葉に、アスファは大きく頷いたのであった。
2021/03/08
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2021/03/13
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