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降水確率百パーセント

 いよいよ帰社の用意をして鞄を肩にかけた頃、奴が神妙な顔で俺に声をかけた。

「兵藤さん、途中まで一緒に帰って頂けませんか? 今日お返ししなければならない物があります」

「なんだ一体? お前に貸したものなんて何にもないが」

 奴の言うことに心当たりが全くなかった。二人歩幅を合わせ、会社の出口まで歩く。自動ドアをくぐったところで、ちょうど雨が降ってきた。

「降水確率百パーセント、当たりですね」

 奴が言った。天気予報? 見忘れたせいで今日は折り畳み傘も持ってきていない。

「ついていない」

 俺が漏らすと山下は笑った。今まで見たことのない陰った微笑みだった。人懐っこい目には涙が溜まっていた。

「兵藤係長、飲み会のときストライプの傘を落とされましたよね。僕それをずっと保管していたんです。雨が降る度に返そうと思っていましたが、今日までかかってしまいました。すぐにお返しすべきだったのに、決心がつかず本当に申し訳ありません」

 震えながら、山下が頭を下げる。意味がわからない。俺の頭の中は疑問詞でいっぱいだ。

「最初から、説明しろ」

 久しぶりに奴に対して厳しい声を出した。その指示に、山下は応えようとせず、俺に傘を押し付けるように渡し、走って逃げようとする。

 咄嗟とっさに奴の腕をしっかり掴んで引っ張りストライプの傘の中に入れた。奴は信じられないという顔をして、唇を噛み下を向いてしまった。

「逃がさん」

 さっきまでパニックになっていた頭は、妙に静かでクリアだ。奴をここで逃がしてしまったら二度と会えない気がした。それは堪らなく嫌だった。

 イレギュラーだ。俺はルーティンを破る。どこにそんな執着と強引さが残っていたのか、自分でも不思議だったが、奴を無理やりタクシーに乗せ自宅まで連れ帰った。


 俺は奴に、ソファーへ座るように促した。遠慮がちにソファーに座ると、部屋の中を興味深そうに眺めている。俺は山下が逃げる素振りがないのを確認してから、二人分のカフェオレを作った。

「兵藤さん、すいません」

 そう言って、頭を何度も下げる山下。リビングテーブルの前にカフェオレをそっと置く。

「遠慮せず飲めよ」

 俺の言葉に、奴は遠慮しながらカップをとる。

「ありがとうございます」

「落ち着いたか? 最初から話せるか」

 存外優しい声が出た。

「どこから話せばいいのか。僕は、兵藤さんに憧れていたんです。おかしいと呆れられても怒られても止める権利はありません。貴方のことが好きなんです」

 苦しそうに打ち明けられた。当然俺は驚き、戸惑った。だが意外なことに想いを否定する感情はなかった。かつて涼子を愛していたとき、思いを打ち明けることが出来ずに別離を経験したこと。そのことにどれだけ苦しんだか。いつしか人付き合い全てを拒み諦めていた。そんな生活に現われた心根の真っすぐな青年。奴に随分慰められてきたのは確かなことだ。


「そうか。憧れていてくれたのか。俺は面白みのないつまらない人間だ。きっと深く知ったらがっかりするさ、恋愛感情なら長続きしないと思うぞ」

 山下は、俺に打ち明けるまでに相当悩んできたことだろう。奴の俺への持ちを否定することはやってはならない。奴の悩みの深さは想像するしかないが俺も多少は生きにくさというものを感じていた。自身の生きにくさを理解出来ても人のそれをわかったつもりになるのは傲慢なことだと感じる。


「ずっと兵藤さんのことを見てきました。だから、物を大切にしていること、特にあの紺のストライプの傘は貴方にとって特別なものだと感じて、よく覚えていたんです。あの飲み会の夜、貴方は大切な傘を忘れられたまま帰ってしまいました。きっと落としたと心配していらっしゃるだろう。すぐ返したかったのですが、ストーカーみたいに思われて避けられるのがとても怖くて」

 山下は顔を真っ青にしながら理由を話してくれた。それでかと納得した。まだ戸惑う気持ちはある。カフェオレを口に運び、奴の言葉に応える。

「確かにびっくりした。お前の気持ちと行動は思ってもいなかったことだ。傘を拾ってくれていたことに感謝している。お前が俺のことを好きだと告げてくれたことについては、戸惑いが大きいし、いい返事はすぐに出来ない。まったくトイレで抱き付かれたときは、ただの部下だったのにな……」

 奴は今度は顔を真っ赤にした。心なしか、身体からこわばりが抜けてきたように思えた。

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