変わる距離
満員電車に揺られている。乗客に揉まれ、お気に入りのジャケットに皺がよるのが気にくわない。朝から不快だ。電車から吐き出され、会社へ向かう。ブルーマンデイ、仕事は嫌いではないが好きでもない。しかし求める暮らしをするためには、まず稼がなければならない。
執務室で同僚たちにおはようの挨拶、観葉植物の世話する。これもルーティン。空気を読むのが下手でも、普通の人を演じるにはコツさえ掴めば問題ないものだ。自分の心を見せず、距離をとり、型通りの気遣いさえ見せていれば案外立派な社会人にみえるらしい。
席に着いて、仕事を始める。部下の営業成績に目を通すと、山下の成績が著しく上がっている。こんな数値の上がり方は目にしたことがなかった。トイレで泣きながら抱き付かれて以来、不自然にならないラインで彼を避けてきたが、上司として褒めるべきことだ。
俺は山下をデスクまで呼んだ。彼は、緊張した面持ちで直立不動で顔を真っすぐ見てくる。
「山下、新製品の紹介いい成果が出ているな」
俺は率直に営業成績について褒め仕事ぶりを認めた。するとみるみる彼の顔が、紅潮し興奮したものになった。そんなに嬉しいのかと、表情の変化にびっくりしたが、今まで厳しく叱責してきたことを思うと当然かもしれない。
「ありがとうございます、兵藤係長」
尻尾があったら、全力で振っているのがみえるような雰囲気。柔らかく人懐っこい笑顔で礼を言われた。
「成果を出したことを認めるのは当然のことだ」
あんまり素直に喜ぶのを目の当たりにし、取り繕った仮面が外れそうになる。これは上司としてのルーティンだ。自分に言い聞かせるが、声がうわづった。久しぶりに心が動き出す感触がある。このイレギュラーはまずい気がする。彼とかかわると俺の調子が狂う。
俺の違和感を無視して、この日をきっかけに、山下から俺にかかわってくることが格段に増えた。朝の挨拶に始まり、休憩のときは決まって缶コーヒーのブラックの差し入れ。帰社の時も必ず挨拶に来る。言い方は悪いが飼い主を慕う犬のようだった。そういえば、俺がブラックが好きなことを奴はどこで知ったのだろうか。まさか観察していたとか、自意識過剰だと一人笑った。
「ありがとう」
奴にコーヒーの礼を言う。認めたくないが毎日のルーティンになっていた。
「あの」
山下がためらいながら、声をかけてくる。屈託のない奴には珍しい。帰りに用事があるという。何かを思い詰めたようすだった。
終業まであと一時間。何回腕時計を見ただろう、奴の用事が気になって会議に身が入らない。会議室にいるせいで、顔が見えないから余計不安な気持ちだ。やはり山下は俺の調子を狂わせる。そう感じながらも嫌ではなかった。