突然の雨
初めての書き方、キャラクター、慣れないことをしましたが完成出来てホッとしています。短い話ですが読んで頂けると嬉しいです。
ずぶ濡れになった俺は、ようやく外出先から一番近いバス停にたどり着いた。天気予報は、外れた。屋根の隙間から暗い灰色をした空が広がっている。折りたたみ傘を鞄に入れておけばよかった。古びた停留所で雨宿りしながら大粒の雨を眺める。
一週間前のことを思い出す。スタイリッシュなストライプ柄があしらわれたお気に入りの紺の傘を飲み会で落とした。チェーン展開している居酒屋なんて行きたくなかった。だが仕事の慰労会であれば、若い社員のお目付け役に係長の自分が出席しないわけにはいかない。理解はしていたが悔やまれる。
自宅方向へのバスは運が悪いことに、出発してしまった後だった。次のバスが来るまでにはだいぶ時間がある。雨の匂いが心の中にしまい込んだ記憶を呼び起こす。
落とした傘は思い出の品だった。雨の日にはお気に入りの大きな傘に彼女を入れて一緒に歩くことが密かな楽しみだった。
「兵藤君、傘忘れちゃった。入れてくれない?」
「谷口さん、また忘れたのか。仕方ない、駅まで送っていくよ」
雨の中、二人で肩が触れそうな距離で並ぶ。彼女のハイヒールに合わせてゆっくりと歩くわずかなときが好きだった。
同期入社の涼子。彼女に憧れる男は多かった。
俺は小さい頃から物持ちが良かった。特に身に着けるものにはこだわり、大切にしてきた。眼鏡に時計に鞄にスーツ。自分の持ちものに愛着をもっていた。同期からは、神経質で気取っているから付き合いづらいと言われていたそうだ。どうでもよいことを耳に入れてくれる人間はどこにでもいた。
涼子はおしゃれに気を遣うほうではなかった。何か足りないものが出来ると会社の隣のコンビニで買い足していた。彼女は屈託なく笑い、変なこだわりもなく周りにいる人を明るく出来た。
「ねぇ兵藤君は学校で落としものなんてしたことないでしょ」
彼女に傘の中で尋ねられたことがあった。
「そうだったね」
幼い頃を振り返って答える。
「兵藤君って凄いな。あなたみたいにものを大切に出来る人を他に知らないよ」
「そう? 凄いなんていう人は初めてだな。俺が物を大切にするのは、ただの性分だよ」
嘘を吐いた。性分なんて理由じゃなかった。
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バスを待つ人の声が耳に入る。ようやく大きな車体にオレンジのランプが見えてくる。バスが着くと待っていた人々が次々と乗り込んで行く。雨宿りの間に、ずいぶんまとっているジャケットも乾いたようだ。座席で窓にはりつく雨粒の中の光を見ながら、帰ってからのルーティンを頭の中で繰り返す。徐々にさっきまでの嫌な気分が静まっていく。
日曜日は自宅マンションから遠い、喫茶店で読書をするのが常だった。マスターのブレンドコーヒーを口にすると、会社でのストレスが軽くなる気がした。新刊の文芸誌も読み応えがあっていい休日を過ごせたと思っていたのに、最後に雨に降られるとはついていなかった。
そのうえ涼子のことまで思い出すなんて、想定外だった。だいたい俺が忘れものをすることがイレギュラーなんだ。昔から予定外の出来事にはめっぽう弱い。不安が心を乱す。
バスを降り、帰宅する。男の一人暮らしにしては片付いた部屋なんじゃないかと思う。ハンドソープで念入りに手を洗い、洗濯かごにジャケット、カットソー、パンツを投げ入れた。完全に乾いていない身体が不快だった。温まりたくて熱めのシャワーを浴びる。トニックシャンプーで洗髪し、シトラス系の香りのボディソープで体をゆっくりマッサージし終える頃には、落ち着きも戻ってきた。
バスローブに着替え、冷えたビールをグラスに注ぐ。なんで、楽しくもない飲み会で涼子との思い出の詰まった傘を失くしてしまったのか。
落としたと気付いてすぐに、居酒屋に連絡した。それらしい傘は預かっていないと申し訳なさそうに店員が答えた。もしかしたら、戻ってくるかもと思っていたのでダメージは大きかった。